2021.05.23

音声を聞く(MP3, 32kbps)

「失意からの出発」

中村吉基

エゼキエル37:1〜14使徒言行録 2:1〜11

 皆さん、ペンテコステおめでとうございます。今日私たちは2000年前の教会の誕生を共に祝いましょう。朝9時から教会学校の子どもたちとペンテコステを祝いました。その中でもお話ししましたが、主日礼拝に参列しておられる皆さんにもぜひお話ししたい、ぜひ聞いてもらいたいことがあります。

 あるペンテコステの朝のことでした。大田区にある教会の子どもたちがペンテコステの祝いに手作りの小さなカードを作って風船につけて飛ばしました。そのカードにはこう書いてあったそうです。「今日はペンテコステです。『ペンテコステの日』は教会の誕生日です。この風船を拾った方は、お手紙(お電話)ください。近くの教会にぜひ行ってください」。その日200個ほど風船が飛ばされたそうです。その中の一つが丸1日かかって、田園調布から江東区の森下まで飛んできました。その時、おうちの3階で洗濯物を干しておられたおばあちゃんのところにふわりふわり降りてきたのでした。この風船を拾ったおばあちゃんはハルコさんという方でしたが、そのことを子どもたちの中で一人だけ教会に通っていた娘さんに報告をしました。そしてその娘さんが風船を飛ばした子どもたちのいる教会に電話をして風船を拾ったことを伝えると、電話に出た教会の牧師のお連れ合いが「ハルコさんのために祈っていますよ」と言ったそうです。

 長い時間を経てその祈りは通じたのでした。ハルコさんは風船を拾って7年後のペンテコステに浅草橋の教会で洗礼を受けられました。長女の方と亡くなられたハルコさんの息子さんのお連れ合いと3人で洗礼を受けられたのだそうです。ハルコさんが85歳のことでした。

 私はこれを聞いた時に聖霊の働きは素晴らしいと素直に思いました。今日はこのことを皆さんにお伝えしたくてうずうずしていました。聖霊はハルコさんに不思議な形で関わり、7年も導いて神と共に生きる生活に招いてくださいました。

 ペンテコステは考えてみれば、不思議な出来事でした。激しい風が吹くような「音」がして、「炎のような舌」が家の中にいたイエスの弟子たちを始めとした人々の上にとどまり、そしてその人たちはさまざまな言語で話し始めたのです。到底私たちの常識からは想像しかねるような出来事でした。

 その音が「家中に響いた」(2節)とあります。家というのは日本語でもそうですが、ギリシア語(オイコス)でも建物のことだけを表すことばではありません。家族や共同体に生きる、同じ信仰に生きる私たちのような集まりも「家」と言うのです。イエスが死に、復活されたけれども、天に昇られて、寂しく、落ち込んでいた人々が集っているところに、その家中に響きわたる風のような音が聞こえました。

 「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々のことばで話しだした」とあります(3,4節)。聖霊はどんどん一人ひとりをもれなく用いてくださって、人々は「ほかの国々のことば」で話し始めました。そしてもう、家のなかで留まっていません、外に出て、一人ひとりが大胆に主イエスのこと、そして「神の偉大な業」(11節)について語り始めたというのです。 さて、5節以下ではその不思議な出来事に遭遇した一般の人々のことが記されています。五旬祭の時には、エルサレムには多くの巡礼者たちが集まってきていました。しかし、ここに出てくる「あらゆる国から帰ってきたユダヤ人」たちというのは、いわゆるディアスポラと言って、さまざまな事情から諸外国で暮らすことにになった人たちでした。しかし、彼らは「信心深い」とあるように一生の終わりにパレスティナに帰り、それもできるだけ神殿の近くに帰ろうとしてきた人たちでした。いわばさまざまな波にもまれて一生を過ごしてきた人たちに、その人たちの「生まれた故郷のことば」で神の偉大な業が語られたのです。もう、目をまん丸にするばかりの驚きでした。

 そして9節以下にはいろいろな地名が出てきます。当時知られていた地名でしょう。そしてこれが先週の礼拝で聴きました1章8節に天に昇られる前のイエスが「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」と約束したことが実現したことを表しています。

 ペンテコステの出来事を聖書から読み取っていく中で、私たちが知ることは、失意の中にあって、家の中に閉じこもっていた人たちが、神の力を受けて外に出て行き、同じように失意の人生を送ってきた人々に「神の偉大な業」を告げ知らせる者へと変えられていったことが分かります。そしてこのとき、教会の歴史が始まったのです。

 そして、ペンテコステの日に始まった教会は、「神の偉大な業」を語っていた教会です。今日の聖書の箇所に導かれて、もう一度私たちの頭の中で、最初の教会について想像してみましょう。まず、教会は「組織」ではない、ということです。それよりも使徒言行録にこのあとにも出てくる、キリスト者の共同体は、組織よりも「つながり」を大事にしました。現代の教会は人がたくさんいればいるほどいい教会なのだ、というような風潮がありますが、最初の教会はそうではありませんでした。何人いるのかということよりもそこに「誰かいるのか」ということを大切にした教会です。この教会にAさんがいて良かった。Bさんがいてよかった。Cさんがいてよかった。というふうに……みんな違う神の作品です。今日私たちの教会に一人のかたが転入会されます。礼拝のライブ配信をするようになって集われた方です。聖霊はコロナ禍の中にあってもこうして私たちに恵みをお与えになるのです。

 教会はいろいろ違っていることでバラバラになるかもしれませんが、主イエスを中心に召し集めていただいている。聖霊が接着剤の役目を果たしてくれるでしょう。みんな違った個性があり、一人ひとり違う賜物を与えられているのです。それを出し合って教会を造り上げていくのです。私たちはすぐに違っている人がいると、自分に合わせようとします。のけ者にしようとします。しかしこの世がそうであっても、教会だけは違う場でなければなりません。壁があってはいけないし、誰かが上で、誰かが下でというのも良くないのです。

 ペンテコステの日、人々は多様な「ことば」で話し出しました。まるでバラバラに見えるでしょう。よく考えてみれば、神がこの世界をお造りになったときも、「ことば」によってあらゆるものが創造されました。教会も「ことば」によって出発しました。イエスの昇天によって失意の中に置かれていた人々は新しい「言葉」を与えられるという祝福の中で出発しました。私たちは聖霊にあって一つになることができます。お互いの違いが与えられていることを今日、喜びましょう。金子みすゞのことばに「みんな違って、みんないい」というのがありますが、ともに神からの祝福を受け、またお互いに祝福を祈りましょう。そして私たちは今日、原点に立ち戻って本来の教会の姿を取り戻さなければならないのです。それを成し遂げるためには私たちの力ではできません。一人ひとりが聖霊をお迎えして、聖霊の力によって実現させていただきましょう。


 
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