2021.05.16

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「歩き続けよう、イエスと共に」

中村吉基

詩編93編使徒言行録 1:1〜11

=主の昇天=

 もう10年以上前のことになりますが、『信徒の友』の連載に「ヒット曲の神学」というものがありました。同志社大学の関谷直人先生が執筆されていたのですが、関谷先生は神学を学ばれる前に=先生は私の母校の先輩でもあるのですが=芸術系の大学の演奏学科というところでシンセサイザーを弾いておられましたのでとても音楽に造詣が深いのです。そして最初の連載では、坂本九が歌った「上を向いて歩こう」が取り上げられました。

 関谷先生はかつてアメリカの日系人教会の牧師をしておられました。そしてアメリカに住む日系人、特に高齢の人々に人気があったのがこの「上を向いて歩こう」だったというのです。第2次大戦中多くの日系人が強制移住させられたり、強制収容所に入れられたという悲惨な過去がありました。特に関谷牧師のおられた西海岸では日系人は成功を収めていました。

 ですから自分たちが開拓し、汗水たらして得た土地や財産を没収され、強制収容所に入れられた日々は思い出したくもないはずです。しかし、収容所経験のある、ひとりの高齢の日系人をして、収容所での生活は「長いベケーション〔Vacation〕だった」と言わしめるのです。実に前向きな、実に上向きな志、それは「上を向いて歩こう」の歌詞そのものの生き方であったのです。

 今日の箇所にはイエスの弟子たちが登場します。この人たちは主イエスが十字架で死なれたことで、どんなに落胆したでしょうか。イエスを信じて、従ってきて、イエスがすべてであった人たちに、主の死によってもたらされた大きな悲しみ、大きな喪失感、そして大きくぽっかり開いてしまった心の穴。もう立ち上がれなくなるほどの絶望、この先どのように生きていって良いのかわからないほどの混乱。

 そんな時、主イエスは約束どおり、神によって復活させられました。今も、これからも主イエスが共に居てくださることを弟子たちはどれだけ喜んだでしょうか。「V字回復」ではありませんが、悲しみのどん底に落とされていた人が喜びの頂点に達したのでした。しかし、聖書によれば主イエスは復活されて40日間、弟子たちと共に居られたあと、天に昇られたと記されています。弟子たちは再び落胆させられるのです。

 今日私たちは主イエスの昇天を記念しています。「天」という場を私たちはまだ目にしたことがありません。天とはいったいどのような場なのでしょうか。私たちの知りえない「天」はこの世界の常識を超えた場であると言えるでしょう。けれども天は神のおられる場です。

 今日の箇所の出来事はこの神のおられるところに主イエスが帰って行かれたのです。天という人間の常識から超えたところに主イエスが行ってしまわれる。そのこともまた弟子たちを落胆させ、不安を増大させたに違いありません。私たち人間の知り得るところではなくて、まったく判らない場であるならばなおさらのことです。今度こそはもうどうして良いか判らない。せっかく神は主イエスを復活させてくださったのに、またもや主イエスは自分たちの目の前から消え去ってしまう・・・・・・。

 これからどうしたらよいのか。心が寂しい、不安がよぎる、現実のこととして直視できない。これらの弟子たちのことを今日の箇所はたいへん象徴的にというかユーモラスに描いています。

10節 イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。

 再び心にぽっかり穴が開いてしまった弟子たちは、まるで口をぽっかり開けて天を仰いでいるようです。私たちにもこういう気持ちがわからないわけではありません。私たち一人ひとりも神を見失い、自分を見失い、茫然と立ち尽くすことがあります。信じていたものや事柄がガタガタと音を立てて崩れ去った、誰かに裏切られた、何かに失敗してしまった。気持ちが穏やかではなくなります。パニックになります。まっすぐ前を見ることができません。現実には平静を装おうとします。しかし、心が言うことを聞きません。不安な気持ちが身体中を覆いかぶさってくるようです。そして悪いことがあればどんどん悪いほうに向かっているかのような気持ちに陥ります。

 主イエスの弟子たちが天を見上げたまま、もうどうして良いかわからなくなっている気持ち、私たちにもひしひしと伝わってくるのではないでしょうか。そのような弟子たちに2人の白い服を着た人(天使)たちが告げます。11節です。

「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか」。

 神の使い・天使ともあろう方々が、この時の弟子たちの状況や心情を知らなかったわけではないでしょう。しかし、あえてこう言ったのです。

「なぜ天を見上げて立っているのか」。

 天使たちも弟子たちがこのままでいてはいけないと思ったのでしょう。天を見上げながら硬直して、立っている。主イエスのご生涯はこれで終わりではない。この弟子たちがほかにまた弟子たちをつくって、輪を広げて、主イエスの教えを伝えていく役目がある。

 主イエスが天に昇られる際の最後のみ言葉、8節ですが「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」。この使命のために弟子たちは前を向いて進んで行かなくてはならない。私にはこう聞こえます。「何をぼやぼやしているのですか。さあ、あなたたちの前には希望があります。これは主イエスが遺していかれた希望なのです。希望に向かって走りなさい」と天使が言っているかのようです。

 そして11節の後半ですが、「あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる」とも言われているのです。だから天ではなくて、この現実、この地上を見て、進みなさい、と言われているのです。それは弟子たちの将来に希望を与えるものでした。彼らの人生にまた主イエスがおいでになられるのです。いえ、それだけではありません。神が遣わしてくださる聖霊がいつも共に居てくださるのです。

 弟子たちはいよいよ前を向き、進み始めました。それがペンテコステの日の聖霊降臨の出来事につながっていくのです。弟子たちには仲間がいました。手に手を取り合ってそこから立ち上がって進んで行きました。痛みから立ち上がりました。私たちは2000年前に立ち上がった弟子たちが活躍し、形成した教会の伝統に生きています。もしあの時、弟子たちが散り散りになっていたならば教会はどうなっていたのか判りません。主イエスは直接目には見えなくとも弟子たちの中に、教会の中に生き続けてきたのです。

 そして最初に教会を形成した弟子たちは、傷つき、痛みの中から立ち上がり、主イエスと共に旅を続けていった者たちであることを忘れてはならないでしょう。私たちは、それぞれがどんなに辛く、苦しい中にあっても、主イエスによって立ち上がることが出来るのです。それは誰でも、どんな状況でも不可能なことはありません。そして今、傷つき、痛みの中にある他の誰かに生きる力を一心に注ぐことこそ教会の原点であると今日の聖書は証言しています。弱さや傷、痛みを持った者の共同体、そこに神は聖霊を与えてくださいます。いよいよ来週は聖霊降臨の出来事を祝います。皆さん、今日ここから私たちは現実に恐れず、ひるまず、てらわずに前を向いて進んでいきましょう。主イエスと共に歩き続けましょう。


 
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