2021.04.18

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「心の眼を開かれて」

中村吉基

ホセア書 6:1〜3ルカによる福音書 24:36b〜48

 今私たちは21世紀を生きていますが、2000年前にこの日本から遠く離れたパレスティナで主イエスが復活されたことをなぜ私たちは知っているのでしょうか。今日の箇所の最後のところに「あなたがたはこれらのことの証人となる」とあります。すなわち神によって主イエスが死から引き上げられたことの「証人」になる、ということです。

 私たちは主イエスの弟子たちのように直接、復活された主のみ姿を見て、信仰の道に入ったのではありません。この時、復活の主に出会った弟子たちから始まり、「復活のキリストの証人」となった人々の「証言」が2000年の時を経て、皆さん一人ひとりに伝えられたのです。2000年間ずっと主イエスのお命じになった言葉を大切にして弟子たちから人々へ、人々からそのまた主イエスの教えを知らない人々へ伝えられていったのです。こうして福音の言葉は地域を越え、国を越え、海を越えて私たちのもとに届けられたのです。

 もしも弟子たちが主イエスの証人としてエルサレムだけで活動していたならば、私たちのもとには福音は届かなかったかもしれません。「その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」(47)と記されてあるように、弟子たちは一人でも多くの人に主イエスの教えを伝えようとしたからこそ、今日、この日本にいる私たちのところまで福音が届けられてきたのです。今は海外に容易に行くことができる時代ですから、旅をしたりするとあらゆるところに教会が建てられていることを目の当たりにすると思います。世界中に福音が伝えられています。日本のあちこちに教会が建てられているのも、この代々木上原の地に私たちの教会があるのもすべて、2000年前のあの主イエスが復活されたことの「証人」になったことがそもそもすべてのスタートラインなのです。

 「あらゆる国の人々に」というところが大切です。すべての人といつも主イエスは共にいてくださると言うのです。「この人はいいけれど、あの人はダメ」などということもないのです。皆がイエス・キリストに繋がり、元気なときも辛いときも……いつも一緒にいてくださる。これが福音の素晴らしさです。もしもイエスに繋がっていなかったらば、今頃私たちはこうなっているかもしれません。 「自分の好きな人だけ、気が合う人だけ、話を聴いてくれる人だけ」が主イエスのもとに集まろうなどと自分勝手なことになるのではないでしょうか。その醜い私たちの心を清めて、人間が本来持っている美しい心に変えてくださるのが聖霊の働きです。私たちはもっと聖霊に願わなくてはなりませんし、より一層聖霊の働きを感じなければなりません。

 今日の箇所はルカ福音書が伝えるところによれば復活させられた主イエスが、エルサレムに集まっていた弟子たちに現れたことを記しています。主イエスは弟子たちに手と足の傷を見せました。なかなか主イエスが復活させられたことを信じられない弟子たちがそこにいました。そしてたしかにご自分が復活されたことを弟子たちにわかってもらおうとしました。そして主イエスは弟子たちの見ている前で焼いた魚をお召し上がりになったのです。主はなぜそのようなことをされたのか。

 弟子たちはこの時まだ、主イエスを「亡霊」だと思っていたからです。おそらく生前、主イエスが弟子たちと一緒に食事をとられたのと同じ仕草、食べ方であったのでしょう。それを見て弟子たちは心の眼が開かれました。信仰の眼が開かれたのです。イエスご自身がまことに活きた身体をもって復活させられたのだと弟子たちは示されたわけです。

 弟子たちは主イエスが十字架で死なれたことで、どんなに落胆したでしょうか。イエスというお方を信じて、従ってきて、主イエスがすべてであった人たちに、主イエスの死によってもたらされた大きな悲しみ、大きな喪失感、そして大きくぽっかり開いてしまった心の穴。もう立ち上がれなくなるほどの絶望、この先どのように生きていって良いのかわからないほどの混乱。そんな時、主イエスは約束どおり、お甦りになられました。それだけではありません。主イエスの側から弟子たちに会いに来てくれたのです。今も、これからも主イエスが共に居てくださることを弟子たちはどれだけ喜んだでしょうか。悲しみのどん底に落とされていた人が喜びの頂点に達したのでした。

 この時を境に、弟子たちの変わっていくさまは今日のルカ福音書の続編である「使徒言行録」などの書物においても明らかです。たとえばあの一時は主イエスを「知らない」と言ったペトロは公然と福音を宣べ伝え始めます。「使徒言行録」の2章3章などにはイエスを十字架につけた祭司やサドカイ派の人々を前に堂々とメッセージを語っているところが記録されています。2000年前、最初はたったの11人の弟子たちからのスタートでした。しかし、この人たちはそこで怖気づいたり、留まったりしないで主イエスのお言葉の通りに「すべての人」に福音を伝えたのです。こうして皆で力を合わせて「復活の証人」となったことで信者に加えられる人々が増えて行きました。こうして復活の主イエスとの出会いがもう死にそうになっていた、力を失っていた弟子たちに再び活力を与えたのです。

 「イエスはキリストです!」とこの言葉は2000年の歴史を貫いてきたのです。ある人は伝道者になりました。他のある人は音楽や美術でイエスを表現しました。文学でイエスを伝えた人がいました。そして多くの人たちは自分の仕事や日常生活の中でイエスを伝えたのです。こうして世界に福音が伝えられていきました。

 そして今も主イエスは、私たちを世界中に遣わされようとしておられます。ではいったい私たちにはいったい何ができるのでしょうか。

 私たちは毎日毎日、人とのかかわりの中で生きています。家庭で、職場で、教会で、人とかかわっています。誰かと一緒に何かをしたりします。中にはどうしても合わない人もいるでしょうし、また悩みをかかえて困っていてどうしようにもない人もその中にいるかもしれません。私たちはそういう人の立場になって考えたり、声をかけたり、話を聞いたり、一緒に悩んでみるということがあるでしょうか。人は不思議なもので誰かに悩みを打ち明けるだけですっきりすることがあります。私たちは自分がすっきりすることだけに明け暮れていないでしょうか。

 「こころの友」5月号が届いておりますが、ここに伊丹教会の春名康範牧師が「キリスト教入門を連載しておられるのですが、レイチェル・ナオミ・リーメンとおっしゃる15歳の時からクローン病を患っておられるアメリカ人の医師ですが、彼女の言葉を引用しておられます。

「人は集まることで癒やされる。人に話を聞いてもらって癒やされ、人の話を聞いて苦しんでいるのは自分だけではないと知って癒される」

 春名先生は、「どんなに難しい問題でも『これは俺の問題だ』とか『お前の問題だ』と言わず、みんなで集まって『これはわれわれの問題だ』と一人称複数形で一緒に考えると、神さまの力「聖霊」が働いて解決できます」と説いておられます。 (「こころの友」2021年5月号、「はるな牧師のキリスト教入門」より。日本キリスト教団出版局)

 話を戻しますと、私たちはテレビや新聞などで外国の人のこと、あるいは国内でも遠いところの人々のことを聞いても、私たちには何もできない、関係ないと思ってはいないでしょうか。しかし、その人たちやその国や地域を憶えて祈ることはできるはずです。平和を祈ることは私たちにもできるはずです。時には悪が行われていたり、正しくないことに対して反対することも必要です。私たちの声や力は小さいかもしれません。しかし主イエスの弟子たちだって11人から始めました。そういう私たちに主イエスは「あなたがたはこれらのことの証人となる」と言われます。私たちは重い腰を上げなければ何も広がっては行きません。

 先ほども申しましたように私たちは主イエスに間接的に出会った者たちです。しかし、イエスに出会えるチャンスがあります。それはこの礼拝においてです。イエスの出来事を直接見聞きした弟子たちの「証言」を今ここで聴いているからです。そして神の言葉やパンと杯を通して、活けるイエス・キリストに出会って、私たち一人一人が主イエスに結ばれる時、それが《礼拝》です。こうしてわたしたちも「あなたがたはこれらのことの証人となる」と祝福をされ、この世での生活に派遣されていくのです。復活の主イエスが私たち一人一人の日常での生活に息づいてくださり、その証人としての私たちの歩みを祝福してくださるのです。

 


 
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