2021.03.07

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「分断しないために」

中村吉基

出エジプト記20:1〜17ヨハネによる福音書 2:13〜22

 エルサレムに上られた主イエスは神殿の境内で商売をしている人たちを追い出します。この記事を読むと、いつも私たちが心に描いている優しいイエスのイメージとはかけ離れているように感じるのではないでしょうか。なぜ主イエスは人びとを厳しく追い出す必要があったのでしょうか。しかし神殿というのは今でいうところの教会と同じです。神に対しての真心の礼拝をささげる場であるはずです。神殿にいた大勢の人びとはそのことを忘れ、家畜の売り買いや両替にいそしんでおりました。この人たちは神殿に人びとが集まってくるのを利用して金儲けを始めとする自らの利潤の追求ばかりを目先のこととしていました。いわば貪欲な人びとでした。主イエスは神殿でこのようなことが平気で行われていることに毅然と立ち向かったのです。

 私たちの身の回りのことで、何のことであっても「平気」になることはある意味恐いことです。それが理に適っていない、悪いことであったとしても平気になることで、あるいは集団で平気に行なってしまうことで、自分を咎める気持ちさえも消えうせてしまうことがあるからです。

 神殿で商いをする者たちを追い出した主イエスは、そのあとユダヤ人からこのように言われます。18節「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」。それに答えて主イエスは、「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」19節)。46年もかかって建てられた神殿を三日で建て直すという主イエスの言葉はユダヤ人たちに理解できませんでした。主イエスの言う神殿とは「御自分の体」(21節)のことだったと記されています。つまり神殿とはある特定の場所を指すのではなく、本当の神殿はイエス・キリストご自身であるということです。そうすると「三日で建て直す」とは主イエスが十字架の死から3日目に甦られたことを示しています。

 当時の神殿、そこに集まる人びとは、神の真実の愛を忘れていたと言えます。本田哲郎神父が訳された聖書には、この箇所に「神殿から貧しい人をしりぞけている」との見出しが付けられているのを思い起こさずにはいられません。

 これは今の時代を生きている私たちの教会にも同じことが起こります。たとえば礼拝のことよりも行事のことばかりに熱心になったり、教会員であることを何か特権のように考えて、教会から利益を享受しようとしたり、これは本来、反対のはずです。神への礼拝が教会の中心線、生命線であり、教会から何かをしてもらうよりも、神の愛を知ったこの私が他者に、小さく弱くされている人びとに何ができるかをまず考えなくてはなりません。

 主イエスの言葉にこういう言葉があります。神は「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」マタイ5:45)。主イエスは全ての人を招く開かれた存在です。当時のユダヤ人指導者たちは神殿に代表される閉じられた空間です。そこには入場資格が必要です。律法守るとか、供え物をするとか、身分や地位とかです。しかし、イエスは入場制限をしません。イエスが自ら外へ出て行って、孤独な人を、悲しむ人を、病める人を、苦しむ人を、差別されている人を、捜し、求めに行くのです。十字架の死を超えて復活したあとでも人のところへ行くのです。

 現代の教会はすべての人に開かれていると口先だけで言いながら壁を作っています。条件の満たされた人が来るのを待っています。そして、なぜ、そのような人が来ないのかと首を長くして待っています。今コロナ禍の中で、特に緊急事態宣言が出されまして、この礼拝にも会堂で礼拝を捧げる人びととライブ配信で捧げる人びとに分断がなされないように願っています。また教会の一致のしるしである聖餐が分断の象徴にならないことを願うものです。

 そして本当に主イエスと結ばれている人は、「出かけて」いくのです。「出会う」というのは、「出て」「会う」のです。部屋の中で「出会いがない、出会いがない」といっても出会えないのは当たり前です。主イエスと結ばれている人は手を差し伸べるのです。そして自分の中に生きておられる主イエスに成り代わって人びとの手を握るのです。今朝私たちも出かけましょう。皆さんのすぐ近くにいる心が擦り切れそうになっている人びと、押しつぶされている人びとのところへと赴きましょう。


 
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