2021.01.31

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「7大宗教を結ぶ至高の掟」
(山上の垂訓・第14回講解説教)

陶山義雄

申命記 6:4〜9マタイによる福音書 7:6〜12

 私達が現在、この教会で用いている新共同訳聖書では、本日のテキストの冒頭にある7章6節は、7章1節から繰り広げられている「裁くな」と云う教えの結びに置かれています。口語訳聖書では、この7章6節を独立した1つの句として、「裁くな」の教えと切り離しています。また、7節以下の「求めよ、探せ、門を叩け」とも繋がらない、単独の1節にしています。実は、この第6節は以前より「解釈の難所(crux interpretum)」と呼ばれていた箇所なのです。そこで、殆ど、どの国の翻訳聖書は口語訳聖書と同じように、この1節を、前後の記述から切り離して孤立の状態に置いています。

 しかし、新共同訳聖書では一歩踏み込んで「裁くな」の結びとして解釈した上で、このようにしているのです。私は7章1節から12節の所謂「黄金律」までを、纏まった一区切りにするのが、マタイ記者の意向に最も相応しいと考えております。でも、前回・第13回・山上の垂訓・講解説教では7章1〜5節をテキストとして挙げましたので、今日は分割して取り上げることになりました。

 マタイの編集意図については、この後、触れさせて頂きます。その前に、新共同訳では何故7章6節を「裁くな」の結びにしたのか、そして、私が何故、その解釈に異議をとなえているのかを解説させて頂きます。

 本日のテキストをお読みになって、皆さんはどのようにお感じになったでしょうか。

「神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう。」

 きわめて、差別と偏見に満ちた言葉ではないでしょうか。ユダヤ人が他民族を異邦人であるので犬と呼び、また豚と呼んで軽蔑と差別を表わしている、受け入れ難いような言葉であります。これがイエス・キリストの口から語られたとは、到底思えない言葉に聞こえます。講解説教でなかったら、この箇所は外しておきたい1節になります。先ほど、「解釈の難所」と言いましたが、正にその通りです。

 では、新共同訳聖書の翻訳者(諸氏)は何故、これを「裁くな」に結びつけて、その結びにしたのでしょうか。それは、私の恩師である留学当時、ニューヨークのユニオン神学校で新約学の教授であったウィリアム・D.デイヴィス先生の代表的な見解にあります。それによりますと、ラビ・ユダヤ教律法学者が実行出来ないような厳しい掟(たとえば「人を裁くな」)が実行出来ないことを予想し、これを緩和させるために置いた付則が7章6節である、と云うものです。マタイ記者はこの便法を「離婚禁止の教え(5:32)」でも用いています。離婚が許されるのは、妻の側に不法なこと、つまり、不倫があった場合に、夫は妻に離縁が可能になる、と云うように付け加えています。これと同じ方法で、「裁くな」と云う実行不可能に近いイエスの教えを緩和させるために、元ユダヤ教律法学者であったマタイ記者は7章6節を置いている、と云うのです。つまり、「犬や豚」のような相手には「聖なるもの」であるイエスの掟は当てはまらない。適用範囲をもうけて、山上の説教は仲間の間に限って守られるべき掟なのである、と云うことになります。

 しかし、このような理解を果たしてマタイ記者は取っていたのでしょうか。異邦人伝道をマタイ福音書に掲げている人が(マタイ28:16〜20)、異邦人を犬や豚に準えた上、彼らには山上の垂訓は勿体ないから、「裁くな」と云う掟は異邦人には当てはまらない、などと考えていたでしょうか。「解釈の難所」にぶち当たって、新しく別の理解が求められています。次に移る前に、離婚問題についても再確認をしておきたく思います。

 以前に講解説教で扱ったことの確認になるのですが、イエスは「離縁をしても良いか否か」を問いかけられた時、離婚を容認した訳でも、絶対禁止をした訳でもありません。この問いに対して、人が男と女とに造られ、その恩寵のもとで結ばれる恵みを語っておられるだけで、あとは各人の判断に委ねておられるのです。ここにもイエスの叡智を窺い知ることが出来るのです。

 7章6節に対する第2の立場は、この一句を前後から切り離し、孤立した言葉として聞き流す人々です。ある意味で、理解出来ない言葉として白幡を挙げる人々です。それでも、ここに在る以上は、何か意味があると考えた人の中には、この言葉を「求めよ、探せ、門を叩け」と云う求道への呼びかけの序文であると見做す解釈者も登場します。「聖なるもの」の前に全ての人が跪き、これより求道の決意を共にする。「犬や豚」は自らの過去を悔い、新たに救いに与かろうとする姿勢の表明として読み取ろうとする解説です。前回とは違い、少し謙虚な姿勢が伺えます。

 ただ、後の教会はこの言葉をそのようには理解しておりません。やはり、相手を切り捨てる差別的な言葉として教会内でも用いられていた様子が2世紀初頭の文書である『12使徒の教訓(デイダケー)』からも伺えます。その文書の9章5節では:「主の名をもって洗礼を授けられた人たち以外は、誰もあなたがたの聖餐から食べたり飲んだりしてはならない。主がこの点についても、『聖なるものを犬に与えるな』と述べておられるからである」と書かれております。今で云う、「閉じられた聖餐」について、最初に書かれている文書が「デイダケー」であり、その論拠としてマタイ7章6節が用いられているのです。「裁くな」と結び付ける事も出来ませんし、この後に掲げる「黄金律」とも矛盾する7章6節はやはり「解釈の難所」である、と云う他ないようです。

 しかし、私は「山上の説教」の6章がそうであったように、7章についても、断片的に並べられているように見えますが、ある纏まりをもって読み直す時、編集者であるマタイの意図が良く分かるようになると思います。7章6節は、その前の7章1節以下と、この後に置かれた「求めよ、探せ、門を叩け」、それに、「慈悲深い天の父」へと続き、最後にこの文節の頂点として置かれた「黄金律」を一纏めにして読み直せば、山上の垂訓・第IV部である「キリスト教倫理」を締めくくるのに相応しい、崇高なメッセージであることが分かります。

 マタイ記者は、以前にはパウロと同じようにユダヤ教律法学者であろうとしていた所、イエスの教えに目を見開かれて回心し、懺悔の思いを込めて、嘗(かつ)て、偏見の言葉であった7章6節を「裁くな」と「黄金律」の間に挟んで、これを打ち消し、乗り越えようとしているのではないか。こうした見解を我が師であるデーヴィス先生に投げかけた所、先生ご自身は「厳格な律法への緩和法であるゲマラー(ユダヤ教ラビによる律法注解書の1つ)」の提唱者であり、自説を撤回しないながらも、この見解について評価をして下さいました。

 本日のテキストに戻り、7節から12節の間には3つの話が寄せ集められていることが分かります。初めの7節と8節は「求めよ、探せ、門を叩け」と云う、求道の呼びかけになっています。これも、また、ユダヤ的伝統の呼びかけに由来しています(申命記4:29)。神を探し、求め、祈るような姿勢は預言者を通し、知恵文学にも受け継がれています:イザヤ書65章1節を紹介しておきます:

「私に尋ねようとしない者にも、私は尋ね出される者となり、私を求めようとしない者にも見出される者となった。私の名を呼ばない民にも、私はここにいる、ここにいると云った。」

 こうした探究や働きは祈りと結びついています。マタイ記者は山上の説教を締めくくる、この所で、今一度、「主の祈り」で展開した祈りの真髄に私達の目を向けさせています。祈りとは正に、「求め、探し、門を叩く」ことであり、それは祈る人の希求の願いであり、放棄できない叫びであり、祈りを捧げる相手である神への信頼の表明であることを、マタイ記者は確認させようとしています。その願いが聞き届けられるかどうか、は一切、相手に委ねて只管(ひたすら)祈り求め続けること、これが「求めよ、探せ、門を叩け」と云う祈りの姿勢として語られています。

 その祈りに対する答えは、どれも受身形で語られています:「求めよ、そうすれば与えられる。探せ。そうすれば見出される。門を叩け。そうすれば明けられる。」 本当にそうなるでしょうか。祈りを捧げる者は只管、その答えを恵みによって頂くばかりの存在であることを、神に祈る者は弁(わきま)えています。その姿勢は「主の祈り」でもそうでした。ここでは結びに当たり、慈悲深い天の父を、この世の父親がパンと魚を子供に提供している有様に準えて、マタイ記者がこの後に置いているのです。

 それはマタイが作った言葉ではなく、ガリラヤ湖畔で生活をしていたイエス集団の生活を反映した言葉であり、その中心におられたイエスが語られた言葉であることが分かります。パンも魚もガリラヤ周辺の人々が主食にしていた食材であるからです。パンではなく、よく似た形で食べられないような石を、また、魚ではなくて、よく似た形ではあっても食べられない蛇を、親たるものが可愛い子供に与える筈がないのと同じ様に、天の父は必ず応えて下さることをマタイ記者は結び合わせて、祈りの真髄を結論部に据えています。ガリラヤ湖で獲れる魚の筆頭はフナで、今ではこの魚を「聖ペテロの魚」と呼んでいます。また、湖で獲れるウナギが蛇に似ている所から、イエスはお話に織り込んでおられることも、この地域に根付いた活動を辿ることが出来るのです。

 そして結びの中の結びは7章12節で、「黄金律」と呼ばれる名言です。「人々にしてもらいたいと願うことを、なんでも、あなたがたが人々にしていきなさい。」先に「非暴力」や「敵への愛」を載せていましたが、今や、結びでは、愛に基づく自他の共存をここに掲げています。世間では、自己中心、自己本位の生き方が当たり前なのですが、その代償は傷つき、傷つけられる争いの場に他なりません。

 18世紀のイギリス・社会思想家・ジェレミー・ベンタム(1748〜1832)は産業革命の時代にあって経済至上主義のもと、貧富の格差が開き、弱者が悲惨な生活に陥っている状況の中で、新しい社会を目指すために「最大多数の最大幸福〜The Greatest Happiness of the Greatest Number 」を提唱しました。これは功利主義と呼ばれ、この思想を受け継いだのがジョン・スチュアート・ミル(1806〜73)でした。ミルによれば、功利や幸福はベンタムが提唱するような、単に量的なものではなくて、その質にあることを唱えて、The Greatest Happiness for the Greatest Number 、つまり出来るだけ多くの人々を幸せにすることが、最大の幸福である、と主張したのです。更にこの幸福は、イエス・キリストが教えて下さったマタイ7章12節(ルカの平行記事6:31)を実践することによってこそ実現可能である、と説いて、この教えを「黄金律」と名付けたのです。

 ミルはイエスの黄金律を普及させ、人々が覚えやすいように、独自の工夫で翻訳しています。それが、“Do as you would be done by”です。欽定訳聖書のWhatever you want men to do to you, do also to themより簡明な言い回しとなり、彼は覚え易くしてその普及に努めたのです。ミルに倣うかのように、明治学院大学はイエスの黄金律を更に簡略にし、“Do for others”(他者のために働け)とし、この言葉をスクール・モットーに掲げ、ミルよりも更に覚え易くしています。しかし、ここまで簡略化すると、この言葉が聖書とイエスの教えであり、黄金律と結び付けるためには礼拝や授業などで解説や補完をしなければなりません。

 ミルが提唱した「黄金律」はマタイ7章12節ですが、イエスによってこれと同じ主旨の言葉が「最も重要な掟」として語られているので、その後の教会は、「神への愛(敬神)」と「隣人愛(奉仕)」を加えて「黄金律」としています(本日の週報コラムに解説)。「人が人に対して狼となる」利益追求の社会は「万人の万人に対する戦い」の修羅場となっている。これを止めるにはレビアタン(旧約聖書に登場する怪獣)のように絶対的権力を持った政府の元に、各人が社会契約を立てて欲望を規制し、調和のとれた社会を作らなければならない。こう主張するトーマス・ホッブス(1583~1679)やベンタムに対して、ミルは各人が内側からイエスの教えに倣い、自己変革を遂げることこそが「真の幸福」に至る道である、と提唱したのです。その教えと生き方は今も生きています。また、どれだけ必要であるかを私達は、産業革命に続く二つの世界大戦を通して、また、し烈な経済戦争の只中で今なお苦しんでいる姿を見るなかで良くわかります。

 この「黄金律」は世界の三大宗教が同じように教えの中心に据えていることを銘記しておきたいと思います。キリスト教、仏教、回教ばかりでなく、ユダヤ教、ヒンズー教、儒教、道教を加えると7つの宗団が、ほぼ同じ言葉を掲げています。或る市民が国の境いを越えて1つとなるために、黄金律の普及と、その精神による世界平和を目指す運動を提唱しています(The International Society of The Golden Rule in Seven World Faiths)。 そのチラシには各宗教が掲げている黄金律を英文で紹介しています。その中で、イエスの言葉は他の条文と比較して1箇所ですが、際立った違いを見せています。イエスも恐らくユダヤ教ラビの教えを知っていた筈です。その言葉を1箇所変えているところに注目して置きましょう。ユダヤ教の教えはイエス以外の6つの宗教で掲げられている内容と同じですから、イエスとユダヤ教を比較するだけでその違いが良く分かります。

 イエスと同時代のラビ的ユダヤ教の中で、名を馳せていた二人のラビがいた。或る異邦人の青年が、先ずシャンマイ先生を訪ねて、「私が片足で立っている間に、律法の全体をお答え下されば、私は改宗します」と問いかけた。大工出身の師は持っていた物差しでこの青年を追い払った。そこでこの青年は、有名であったもう一人のラビ、ヒレルを訪ねて同じ質問をした所、師は、「良いとも、お前が片足で立っている間に律法の全てを教えよう:『お前がしてもらいたくないことをお前の隣人にしてはならない。』これが律法全体である。・・・」(b.Sabb.31a、シュトラック・ビラ―ベック注解機460頁)。

 イエスの黄金律と異なる処は上記下全部の言葉、すなわち、「してもらいたくないことをしてはならない」と云う否定形の言葉にあります。ヒレルを始め他の諸宗教が全て否定形をもって答えているのに対して、イエスの勧めは肯定形であります。「〜するな」とか「〜せよ」との間には大きな開きがあるように思います。学者風に高座から見下ろすように教えるだけで、他に何もしない律法学者ではなく、イエスの場合には、自ら人々と一緒に、それも、弱者の中に分け入り、この世界を御国とする働きの中で語っていることが分かります。類似の黄金律があるのは素晴らしいことですが、主イエスが否定形を肯定形に改めた、その意味と働きを私達は見詰め、かくありたいと思います。

 私達が留意すべきこと、それは、教えの優劣を競う事ではありません。自画自賛をしているだけでは、イエスが批判している相手と同じ次元に転落してしまいます。むしろ、否定形、肯定形のどちらであれ、共に手を携えて御国の建設に向かって他宗教、他宗派の人たち、また、この教えに賛同する一般の人々と働きを共にすることではありませんか。

 折しも、カトリック教会では第二ヴァテイカン公会議以降、自宗教の排他主義を克服し、他の宗教・宗派によっても救いに至る道のありことをヴァテイカンは率先して容認し、歩み始めています。どの宗教、どの宗派でも救いに与かれる、と云う宗教包括主義に留まっておりますが、現在では、更に一歩進めて、宗教多元論に向かおうとしています。冨士登山に例えれば、どの入口からでも山頂は目指せます。黄金律を掲げる7つの宗教はそれぞれの入り口に当たります。しかし、人類救済の黄金律によって享受する人類救済の頂上は、富士山頂が1つであるように、一つとなるべきものであります。

 マタイ記者が山上の説教の頂点に黄金律を置いて、私達をその目標に向かって歩むべき道を開示しているように、これより、救いの頂点を目指し、世界の人々と共に私達も手を携えて歩みを始めましょう。

祈祷:
父なる神様
御子イエス・キリストの御言葉を豊かに頂きましたこと、心より感謝いたします。もとより、罪深い私達は相手を忌み嫌い、差別を繰り返すような者でありますが、只管、罪の贖われる事を祈りながら、主がお教え下さった至上の愛に近づく歩みができますよう、それぞれを御導き下さい。


 
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