2020.12.6

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「神に出会う」

中村吉基

イザヤ書 40:1〜11マルコによる福音書 1:1〜8

 17世紀のイギリスに「クリスマス禁止令」という法律があったことをご存知でしょうか? 世界史の学びでピューリタン(清教徒)という言葉を聞いたことがあるでしょう。私たちの教会の祖先のような人たちですけれども、クロムウェルという人が王制を廃止して、政権を掌握した時に、国会でクリスマスを禁止してしまったのです。クリスマスの日が休日なんてもってのほか、仕事を休んではいけません。お店も開店しなさい、地方公共団体ももちろん営業しなさい・・・・・・クリスマスを派手に祝おうものなら即刻逮捕されると言う時代がありました。

 ではなぜそんな法律が出来たのでしょう。それは当時のクリスマスがあまりにもイエス・キリストが貧しい姿でお生まれになった精神を忘れ、見るも無残に飲めや歌えのドンチャン騒ぎの祝祭に変貌していたことをやめさせるためでありました。この時代についてこんな逸話が残っています。この法律を徹底させるために雇われた人たちが「ノー・クリスマス、ノー・クリスマス」と叫んで街じゅうを歩いたのです。しかし17世紀後半に入ってピューリタン政権は崩壊します。そしてまた王制復古するわけですが、その時には以前にも増してクリスマスをドンチャン騒ぎの機会とするようなことはなくなっていったといわれています。

 今朝クランツに2つ目の光が灯りました。待降節第2主日です。いよいよ世界の歴史の中に、神の救いが実現したことを聖書は告げています。マルコによる福音書はまず旧約聖書で預言されていた洗礼者ヨハネの歩みを歴史の中に始まった神のみ業として語りだします。しかし今朝私たちはヨハネに注目するのではありません。私たちはヨハネが指さした救い主イエスに注目するのです。7節にヨハネが「わたしよりも優れた方が、あとから来られる」と語っていますが、ヨハネが示したお方に私たちもこの礼拝の中で心を合わせて行きましょう。

 4,5節にこう記されています。

洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。 ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。

 当時のユダヤはローマ帝国の支配下に置かれて、権力者による支配が続いていました。重税に、差別に虐げられ、苦しめられ、人を人とも思わない扱いをされ「いつかメシアが私たちを救ってくださる」という信仰が強くなっていったのもうなずけるような時代でした。そこに神の使者ヨハネが現れます。神はヨハネの口を通して平和のメッセージを伝えました。ヨハネは荒れ野で神の言葉を受け、ヨルダン川で人々が神に立ち返るよう洗礼運動を始めました。人々はヨハネの姿に、あの旧約の預言者が告げた言葉を重ねて見るのです。それが2,3節までの言葉です。

「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、/あなたの道を準備させよう。 荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。』」

 皆さんは「荒れ野」と聞いてどのような場所をイメージするでしょうか。

 なかなか都会で暮らしている私たちには難しいことかもしれません。荒れ野――旧約の時代、バビロン捕囚に遭っていたイスラエル民族にとっては聖なる都エルサレムとバビロンの間にあった広大な土地でした。荒れ野があったために彼らの心のよりどころエルサレムは遠く、遥か彼方にある故郷だと感じていたことでしょう。イスラエルの人々にとっての荒れ野は隔ての壁でした。絶望さえ感じる場所でした。荒れ野を通って帰らねばならない限り、荒れ野は死の場所でした。しかしそうではありません。イザヤ書40章には、荒れ野で「呼びかける声がある」のです。喜びと希望と救いの歌が聞こえてくるのです。何もない荒れ野に主の道が敷かれます。そして谷はすべて埋められ、谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。険しい道は平らに、狭い道は広い谷に変わるのです。「主の栄光がこうして現れるのを/肉なる者は共に見る」。

 そうです。大国バビロニアの捕囚に遭っていたイスラエルは神があの何もない荒れ野に敷いてくださる「救い」という道を通ってふるさとに帰ることができるのです。これが捕囚に遭い、どん底にいた人たちにイザヤを通して告げられた救いのメッセージでした。

 ヨハネが洗礼を宣べ伝えた「荒れ野」は少なくとも渋谷区のようなところではありません。クリスマスの華やかなムードがあって、物質に囲まれ、人がたくさん集まってきて、楽しい、うれしい雰囲気のところとはおおよそ無縁の場所でした。今日のヨハネのメッセージは物のあふれる豊かさに慣れてしまった私たちに対しても語られています。

 神は昔々、この世界が始まる時から人間を愛してくださっていました。それだけではありません。数々の恵みをもって人間を導いてこられました。そして神は私たち一人ひとりのいのちをも創造されました。神がおられなければ私たちの存在もありえなかったし、私たちが今日まで生きてくることもできなかったのです。しかし、私たちはすぐに神を捨て、無視し、背を向けて生きてしまいます。自分の好きなように、楽しみを求めて神を離れようとします。それを素直認め、反省しながら神のほうに方向転換することを「悔い改め」というのです。

 ヨハネはヨルダン川で洗礼を通して人々に悔い改めることを伝えました。「悔い改め」と聞くと、私たちは自分の普段の生活の中での悪い点を反省し、改善することや罪を犯したことを糾明し、もう二度とそのようなことをしない、と誓うことのように思われます。しかし、悔い改めというのはそれにとどまらないのです。悔い改めの本来の意味とは「神に立ち返る」ということです。それは私たちの生活の一部をちょこちょこっと手直しすることではなくて、私たちの心も身体も、存在すべてをかけて神のいるところに向きを直すことが悔い改めるということなのです。それまでは神を知らなかったかもしれない、また神を知っていたとしても、神のお望みになる方向とはまったく違う生き方をしていたなど、さまざまな人がいますが、180度神に立ち返ることこそが「悔い改め」なのです。

 神と私たちとの「出会い」をヨハネ、そして主イエスが導いてくださったのです。私たちの毎日の生活は荒れ野でのような生活かもしれません。苦しいこと、悲しいこと、悩めること、そんなことが山積しているこの闇のような世において、光として主イエスは来てくださいました。今、何も見えないような真っ暗闇かもしれません。けれども闇の中にも、(それは私たちに最初は見えないかもしれません。私たちが暗い所にずっといると目が慣れてくるように)、希望がないようなところにも神の愛は働き続けています。その闇の中に神の愛を発見する時、荒れ野の真ん中で神のみ声に聴く時、私たちはその時本当に神に出会うことができるのです。私たちが神を感じ、神の愛に生かされていると感じるのは、たとえば物質的なものが与えられたとか、願っていたことが実現したというような中で感じられるものではなく、私たちが本当に苦しくて、もう荒れ野の中で叫びたくなるような時にこそ感じられるものです。

 私たちがすべてをさらけ出して、何一つも隠すことなく神の前に出る時、それは本当に神に出会える時なのです。そして神の指が皆さんの心に触れられるのです。ヨハネが示したように神の御子はまもなくおいでになります。私たちが神に背を向け続けても、神の御子が来られることに変わりはありません。私たちはただ何となしにクリスマスを迎えるのではなく、自分自身の心が本当に神に向かっているのかどうかを糾明しながら待降節の一日一日を歩みましょう。


 
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