2020.05.24

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「私たちと共に歩まれるイエス」

中村吉基

列王記下2: 1〜11ルカによる福音書24:44〜53

 

 イエス・キリストは神の力によって死からいのちへと甦られ、この地上に40日留まられました。そしてまた神の力によって天に上げられました。キリスト教会ではその出来事を記念して昇天日を祝います。この昇天日というのは本来イースターから40日目にあたる復活節第6木曜日(今年は5月21日でした)に祝いますが、キリスト教国でない国々では、今日、復活節第7主日に祝います。私たちの教会でもこうして主の昇天の記事に聴きながら礼拝をささげています。

 今日私たちに届けられた御言葉はルカによる福音書の末尾の記事です。このあとルカはこの福音書の続編として「使徒言行録」を記します。使徒言行録といえば、その最初のところに聖霊降臨の出来事が記されてありますので、来週はそこを読みますけれども、今日の主イエスの昇天の出来事はいわばルカ福音書と使徒言行録をつなぐ記事として、イエスの時代からいよいよ使徒たちの時代にバトンタッチされていくところでもあるのです。

 今日の箇所を読むと、私たちは少し驚くような光景が記されているのです。それは主イエスの弟子たちは、天に上げられるイエスを仰いだ後に、52節に「大喜びでエルサレムに帰り」とあるからです。普通ならばどうでしょうか。愛して、尊敬してやまない先生が今、地上での生活を終えて、天に帰ろうとしているところに「大喜び」することなどあるでしょうか。

 しかし聖書はたしかにこう告げているのです。イエスの弟子たちにとって先生との別れは涙にくれるようなものではなかったのです。彼らは大きな喜びに満ち、これからの将来に対して希望を持ち、堂々とその道を歩き始めたのです。皆さん、一か月前のことを思い出してください。イースターとそれに続く日曜日に私たちはヨハネの福音書に聴きました(まだお聴きになっていない方は、この代々木上原教会のホームページから聴くことができます)。

 復活のイエスがまだ弟子たちに現れる前、弟子たちはどうだったかというと、ある男の弟子たちは、絶望のあまり、家に鍵をかけてその中で悲嘆にくれていなかったでしょうか。またある弟子たちは故郷に帰り、漁師の仕事に戻っていたのではないでしょうか。けれども、あれから40日が経って今日の主イエスの昇天の際には明らかに違っていたのです。それはなぜでしょうか。

 今日の箇所では、短い部分ですが、主イエスが弟子たちに別れを告げて天に上げられていった様子が描かれています。今、私たちの世界では日本人も宇宙に行くような時代です。そのような現代人にとってこの記事はまるでおとぎ話を聞いているような気持ちにさせます。ここで私たちにとって大切なことは、この記事に書かれてあることを額面どおりに受け取ることではありません。今日のルカの福音書が結びに伝えるメッセージは、復活の主イエスが、神さまのもとに帰られ、世界のすべてを治められるようになったというメッセージです。このメッセージは、歴史上に実在し生きられた主イエスが、今度は天の栄光のうちに上げられて聖霊を遣わすことを通して、キリストを信じるすべての人とともに居られるようになったということを伝えています。

 このあと、使徒たちの働きを通して、より多くの人々に福音が伝えられていきます。そのようにして今も私たちと共にキリストが生きて、歩んでくださるようになりました。51節に「(イエスが)天に上げられた」と記されています。皆さんは「天」というところにどのようなイメージを持っておられるでしょうか。聖書において「天」というところは、人間が入っていくことのできない場、私たちの思いとは遥か遠くにある場所、そして私たちの目には見えない神さまがそこに居られるという場所を表します。主イエスが神の世界においてこれからは人びとと共に歩まれるのです。「神の世界」と言われても何だかよく判らないと思われる人もいるかもしれません。何か遠いところに主イエスが行ってしまったように感じられるかもしれません。

 しかしそのようなことでもないのです。実は使徒言行録の1章6〜11節にかけても主イエスが天に上げられた記事が収録されています。そこには9節ですが、こう書かれてあるのです。「イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった」。この「雲」に覆われて弟子たちの目から主イエスが見えなくなった、とあります。この時を境に主イエスを目で見、肌で感じることができなくなったわけですが、主イエスがもう弟子たちからは手も届かない遠い場所に行ってしまったのでもありません。「雲」は旧約の時代には神さまが確かにここに居られるというシンボルでもありました。ノアの箱舟、あの大洪水の物語で、神さまは、

「わたしは雲の中にわたしの虹を置く。これはわたしと大地の間に立てた契約のしるしとなる」(創世紀9:13

 と民に平和を宣言されましたし、モーセに導かれた出エジプトの出来事では、

「主は彼らに先立って進み、昼は雲の柱をもって導き、夜は火の柱をもって彼らを照らされたので、彼らは昼も夜も行進することができた」(出エジプト記13:21

 とヘブライ人を導き、また同じ出エジプト記の24章には、

「主は雲の中からモーセに呼びかけられた」(同24:16

 という記述もあるほどです。神さまは雲の中から民に語りかけ、雲を用いて人々を導いたのです。それと同じくして雲に覆われて天に上げられた主イエスは弟子たちを導いたのです。

 確かに弟子たちが今までしてきたのと同じように自分たちの眼でイエスを見、耳でその声を聴き、触れ合えるような存在ではなくなったかもしれません。死を経験するということはそういうことです。辛い現実です。しかし聖霊を与えることによって、今度は聖霊が弟子たち一人ひとりと共に居て、彼らを見守り、彼らを教えるようになっていくのです。

 この主イエスの昇天の出来事は、この地上でのイエスの働きが終わるのと同時に、弟子たちに新しい働きへと招かれた出来事だったのです。ですから悲嘆にくれていた者たちも尊敬する教師を失い、絶望の淵をさまよっていた者たちにとっても天におられるキリストに守られながら新しい務めに生きていく希望に満ち満ちていた、いわばスタートラインでありました。その気持ちは私たちにも手にとるようにわかることではないでしょうか。誰かから、たとえばそれが自分の尊敬する先生から将来を嘱望されて、期待をもって新しい任務に就くということは、恐れや不安もあるかもしれませんが、自分にとってこの上なく光栄であり、嬉しいことなのではないでしょうか。そして弟子たちの歩みはかねてから主イエスがお約束されていた通りにこの昇天から10日後に聖霊がくだることによってよりいっそう守られて歩むことになったのです。
だから弟子たちは「大喜び」していたのです!

 そしてここからは今日この御言葉をお聴きになっている皆さんに向けて、主イエスは現代に生きる私たちにも神の国の福音を一人でも多くの人びとに伝えなさい、という使命を与えます。今日の箇所が皆さんに宣言していることは、私たちは主イエスの教えを知り、信仰を通してイエスと交わり、そしてイエスの十字架の死と復活を信じています。いわば私たちは現代におけるイエスの弟子なのです。主イエスの愛、主イエスの救いの教えをまだ福音を知らない多くの人に伝えていかなければなりません。そのために主イエスは私たちの弁護者、助け手として聖霊を与えられました。来る日曜日には聖霊降臨(ペンテコステ)の祝いをしますが、私たちに一人ひとりに聖霊が与えられ、神さまは力強い祝福をくださるのです。この出来事は本当に実現します。私たちはそれを待ち望みながら信仰を新たに、気持ちを入れかえてこの1週間を祈りのうちに過ごしましょう。


 
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