2020.01.05

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「女性と弱者の側に立つイエスの言動」(「山上の垂訓」講解説教 第5回)

陶山義雄

創世記6,1-48,20-22マタイによる福音書 5,27-32

 「山上の説教」講解説教を始めて本日は第5回目になります。第1回目(6月2日)は山上の説教・冒頭にある、全ての人を幸福に向かって招き入れる「7つの祝福の呼びかけ(心の貧しい人たち、悲しむ人たち、へりくだる人たち、義に飢え渇く人、慈悲深い人たち、心の清い人たち、平和を作り出す人たち、義のために迫害された人たち)を通して、究極的な幸福とは何かを、御言葉を通して学びました。

 第2回(7月7日)はイエスに従う者の特徴を「地の塩」、「世の光」として掲げている聖書の内容を共に見つめました。そして第3回目(9月22日)は「新しい生き方の掟」と題してマタイ福音書記者がユダヤ教の旧律法に勝るイエス(山上の説教)の掟を表している問題を検討しました。旧新両律法の比較・第一弾として第4回目(12月8日)には「怒りを主の手に委ねて和解の勤めを」、どんな犯罪、たとい殺人を犯した人でも人の手で犯罪者命を奪うことの問題について聖書に学びました。

 そして本日は旧新両律法の比較・第二弾として不倫の問題、性の乱れが掟と関わるイエスの言葉と働きを見つめたいと思います。教会暦に従うと今日は降誕後第二主日、明日は顕現祭にあたります。そこまでが、教会暦ではクリスマス祝祭の時節になっています。

 マタイ福音書2章1節以下(〜12節)に記されている、星を道しるべにして幼子イエスを拝拝するために、東の国から遥々旅をして来た3人の博士たちがベツレヘムに到着したことを記念して作られた教会の祭、これが顕現祭です。伝説的な物語ではありますが、救いが「異邦人にも顕れた」ことを覚えて設けられたと云う意味を込めて教会では祝祭日となりました。

 11月24日の終末主日は「山上の垂訓・講解説教」ではなく、その日のために定められた聖書(ロマ書8章31〜39節)を基にして終末主日の意味をお伝えしましたが、同じように、今回も顕現日にまつわる異邦人伝道に焦点を合わせることを考えました。しかし、ベツレヘムに輝く大きな星は今も、聖書の中で輝いている。「山上の説教」にまとめられているイエス・キリストの言動の中で輝いていることを改めて、見い出すことが出来ますので、そのまま、講解説教を続けることに致しました。

 殺人と性の乱れは人類が生まれた当初から抱えていた二つの大きな罪悪でした。そのことは創世記6章から9章にかけて「ノアの洪水物語」として収められています。本日の週報コラム「牧師室から」に掲載させて頂きました。この二大罪悪をテーマにして山上の説教では前回・殺人をテーマにしたマタイ5章21〜26節を見つめましたが、今回のテーマは二大悪の今一つである「性」の問題、「姦淫と離婚」についてです。この問題も殺人罪と並んで現代人が抱えている問題であります。果たしてイエスはどう云う立場を私達に表わしておられるでしょうか。

 創世記6章から9章にかけて記されている「ノアの洪水物語」でも、実は人類が犯して来た二大悪として殺人と淫行がテーマになっているのですが、そのことは、あまり知られていないように思います。この二つは、大昔から大切な問題であったことが分かります。洪水物語は何しろ古い話でもあり、少し解説が必要であるかも知れません。この物語は二つの資料『ヤハウィスト資料(J典)』と『祭司資料(P典)』が項目ごとに合わされて、本日の週報コラム(牧師室から)でご紹介したように、元の姿に戻してみると、古い方の資料(J典)は性の乱れ、乱婚が世に蔓延った為に洪水で悪が滅ぼされる物語になっています。その後、改定されて造られた洪水物語(P典)では、殺人という暴虐が世に蔓延した為に洪水が引き起こされています。人類は、淫行と殺人、この二つの問題に煩わされて来たことが分かります。マタイ福音書記者もこの二つの大きな問題を取り上げ、イエスがどうお答えになっているのかを今、私達に開示しようとしています。

 ご存知のように「汝、姦淫するなかれ」と云う戒律は、モーセの十戒で第7戒に記されています(出エジプト記20:14申命記5:18)。この罪を犯した者は死罪であることがレビ記20章などで詳細に規定されています。姦淫については石打ちの刑罰が科されています(申命記22:22以下)。こうした旧律法の規定に対してマタイ記者は一段と厳しくして、色情をもって異性を見ただけで、処罰の対象にしています。「みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。」(マタイ5:28) それに対応する処罰は29節の「もし、右の目があなたを躓かせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。」

 目ばかりでなく、体の部分についてまで厳しく咎められています。「もし、右の手があなたを躓かせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである。」マタイ記者がこれを旧律法に勝る新律法として載せた時、新律法では犯罪を実行に移さなくても、それ以前の段階、すなわち、心の中で色情を抱いただけで、自ら目をえぐり出し、片手を切り捨てるようにするのであるから、旧律法の規定である刑罰は不要となる、これがマタイ記者の提言です。

 しかし、如何にも優れているように見えますが実際に出来ないことであれば、絵に描いた餅となり、自画自賛をしているに過ぎない空言になってしまうようです。イエスがこの言葉を語られたとすれば、それはアイロニー、つまり出来ない極限まで追い詰めて、掟の虚しさを語っておられたように思います。性の乱れは処罰や隔離によって戒めるのではなく、心の問題として、異性への配慮の問題として見つめて解決を図るべきことを、イエスは面白おかしく語っておられるように思います。旧い掟と新しい掟の優劣を競うような次元の問題ではありません。

 マタイの残した記述の中で見落としてはならない大切なことが記されています。それは、男性に向かって忠告を発しておられる、と云うことです。性に関して女性はいつも被害者であり、弱い側におかれています。イエスは女性を見る男性の眼差しと、その奥に隠された心情を問題にしています。それは掟の問題ではなく、神の前に出る人として自分を律する次元の問題であることをイエスは指摘しておられるのです。この事に関して、男性であれ、女性であれ、変わりはありません。結婚の奥義に性の区別はありません。そこで、次に結婚について、それが破綻した離婚の問題にマタイ記者は分け入っています。

 離婚問題を山上の説教に加え、しかも旧律法に勝る新律法の対比に用いたのはマタイ記者であることは明らかです。なぜならば、マタイは19章で、他のマルコやルカ福音書が載せているのと同じ所でも、離婚問題を載せているからです。旧律法では離婚が許される条件が示されています。それは妻が不倫を犯した場合に許される、と云う規定です。結婚した後に起こした不倫ばかりでなく、結婚以前に遡って判明した場合でも夫の側で離縁の申し出が可能である、と云うことです(申命記24:3)。離縁はおろか、妻を石打ちの刑に処することも可能になっています。夫の側の不倫については一切、咎めを受けません(申命記22:13〜2924:1〜4)。

 こうした理不尽な旧約時代、もしくは古代社会の中でイエスの主張は際立っています。ただ、マタイ記者はこの部分に関しては新律法としてイエスの言葉を残しておりません。旧律法と全く同じ主張に転落しています。それもほんの数文字を加えることによって、イエスの主張を骨抜きにしているのです。それはマタイ5章32節の冒頭の言葉:「不法な結婚でもないのに」と云う付け足しの文章です。もしこれを除いて読めばイエスの主張通りになります。そして離婚問題について、旧律法に対する新律法の主張が明確にされた事でしょう。マタイ記者は離縁について、マルコやルカ記者が残しているイエスの言葉にも同じ言葉、「不法な結婚でもないのに」を付け加えることによって、不法・不倫であれば離婚も許される、とする立場に変えているのです。これは申命記やユダヤの法典が残している見解と全く変わらないものに改められています。

 旧律法を凌駕するイエスの新律法を唱えて、山上の説教にまで離婚問題を載せた筈のマタイ記者はどうしたのでしょうか。彼は恐らくイエスの離婚について他福音書が書き残している革新的な主張を知っていた筈です。それにもかかわらず、旧律法に迎合してしまった理由は何であったとお考えでしょうか。それは、離婚の絶対禁止という主張は、実行不可能である、と考えたからです。恐らく、マタイの教会は離婚問題に関しては現実路線に戻らざるを得なかったと思われます。

 所で、マタイ以外の福音書記者が残しているイエスの離婚について、その見解に目を向けなければなりません。一番、簡潔に記されているのはルカ福音書16章18節です。その少し前の所で律法と神の国についてイエスがファリサイ派の人々と論じあっている情景が16章14節以下で紹介されており、その結びとして18節が使われています。

「律法と預言者は、ヨハネの時までである。それ以来、神の国の福音が告げ知らされ、だれもが力ずくでそこに入ろうとしている。 しかし、律法の文字の一画がなくなるよりは、天地の消えうせる方が易しい。 妻を離縁して他の女を妻にする者はだれでも、姦通の罪を犯すことになる。離縁された女を妻にする者も姦通の罪を犯すことになる。」 (141頁)

 マルコ福音書の記事はこれより少し長いのですが、しかし、イエスの真意を知るには、こちらの方が良く分かるので、マルコ10章2節以下12節までを見ておきましょう。

ファリサイ派の人々が近寄って、「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と尋ねた。イエスを試そうとしたのである。 イエスは、「モーセはあなたたちに何と命じたか」と問い返された。 彼らは、「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と言った。 イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。 しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。 それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、 二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。 従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」 家に戻ってから、弟子たちがまたこのことについて尋ねた。 イエスは言われた。「妻を離縁して他の女を妻にする者は、妻に対して姦通の罪を犯すことになる。 10:12夫を離縁して他の男を夫にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」(80頁)

 最後の11,12節ルカ16章18節と同じですが、その前のクダリ、すなわち、創造の恵みをもって結婚の意義をイエスが説いている所に注目しなければなりません。イエスは離婚の問題について、これが掟に適っているか否かを問われた時、離婚が掟に適っているかどうかをお答えになるのではなく、それに代わって、結婚とは何か、結婚の奥義を語り、「結婚とは神による創造の恩寵、恵みである」、と云っておられるのです。そして、離婚そのものについての見解は、敢えて答えをなさらなかったのです。それは各人が信仰をもって応えるべき問題であり、信仰的判断で対応するように語っておられます。

 教会は信仰者であれば、こうなるべきであると云う模範例としてルカ16章18節マルコ10章11,12節)を載せています。マルコの記述ではファリサイ派への答えの中に、これを加えることをしないで、弟子たち、つまり、信仰者集団にたいして、別室で答えている所に注目しなければなりません。ともすると、イエスは離婚絶対禁止令を発しているように受け止められるのですが、それは律法主義に陥る、狭い理解の仕方であることを確認しておきたいと思います。

 結婚した夫婦が破綻に至るまでにどれだけの悩みがあったでしょうか。時には信仰者であっても、離婚を考える必要に迫られることがあるかも知れません。まして、双方が信仰者であるとは限らない場合に、結婚の奥義について同じ理解が持てないことが、後で分かった場合に、そして、そのことが日常生活を円満に続けることが困難になった場合に、起こらないとは限りません。私は牧師として多くの卒業生から結婚式の司式を依頼されることが数多くありました。結婚の奥義についてマルコ記者が書き残してくれたイエスの見解を事前に学び、式文の中でも確認し、それに基づいて結婚の誓約に立ち会って参りました。指輪交換と祈祷のあと、司式者は次のように宣言します。「〇〇さんと〇〇さんとは、神と会衆との前で夫婦となる約束をいたしました。故に私は、父と子と聖霊との御名において、この兄弟と姉妹とが夫婦であることを宣言いたします。神が合わせられたものを、人は離してはならない。アーメン」

 暫く前のことですが、離婚を決意しなければならなくなった卒業生から、司式をした私宛に心のこもったやや長いお詫びの手紙を頂いたことがあります。DVが、自分は我慢できても子供たちに危害が及んでいることに耐えきれず、別居に続き、離婚を決意した次第が報告を含めて書かれておりました。この方は、「神が合わせたものを、人は離してはならない」と云う言葉を重く受け止めて、離婚してからは教会へ行くことも、神様の前に出ることも出来ないことが悲しい、と心情を語って下さいました。私はこの方へのケアーが必要であることを強く感じて、直ぐに返事を、概略次のように書きました。イエスの福音は人を赦し、罪の縄目から解放する喜びの使信である筈です。結婚式で交わした誓いと、また、式文で「神が合わせたものを人は離してはならない」と云う言葉は、神の祝福の中で受け止めることであり、その祝福から切り離し、離婚禁止の絶対的律法として捉えてはなりません。イエスは離婚の絶対禁止を語られたのではありません。祝福の恵みとして結婚を捉えることを教えておられるのです。お子さんのため、またご自分の身の安全のために決断されたことを神様は確かに赦して下さると信じます。ヨハネ伝8章1〜12節に記されている、姦淫で咎めを受け、裁かれている婦人を前にしてイエスは全ての人は裁かれるべき者であり、また、それ故に神から赦されるべき存在であることを証して下さいました。だから、あなたも赦されて、これから新しく神の前で、神の恵みを感謝して立ち上がって下さるよう、祈っています。 私の拙い手紙をお読みになったあと、この方から新たに生きる力を頂いた、と云う御礼の言葉を頂きました。それは私への感謝である以上に聖書を通して救い主・イエス・キリストから頂いたものであると信じます。 「女性と弱者の側に立つイエスの働き」と題する説教の結びとして、本日のテキストに並び、今あげましたヨハネ福音書8章1〜11節から学び、結びの言葉と致したく思います。

 この所でも、弱者の側にイエスは立ちながら、律法学者やファリサイ人に主は立ち向かっておられます。

「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。 こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」 イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。・・・イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」・・・一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。 イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」 女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」(8章4節・180頁以下)

 初めに触れましたように、明日は降誕節を締めくくる顕現祭です。救いが御子のご降誕によって世に顕された後、星を頼りにベツレヘムに滞在している幼子を拝した異邦人の博士たちが世界に救いを伝える役割を果たしている姿に倣って、私達も救い主に讃美の歌を捧げる礼拝に臨んでいます。掟やしきたりの縄目から解き放たれて、創造の恵みと恩寵に応えて、新しく歩みだす日であります。初めに捧げたフィリップ・ニコライの讃美歌276番は顕現日に相応しい讃美歌です。その3節を今一度思い起こしながら、閉じさせて頂きます。

喜びにあふれ、竪琴を奏で、ほめ歌うたえ。花婿主イエスの限りない愛を心に受けて、
主よ、主よ、あなたに感謝はつきない。愛する我が主よ。」

(ニコライの230番は終末主日の讃美歌でした。今日は顕現祭の讃美歌、つまりクリスマスはこの二つの讃美歌に挟まれていることを思い起こしたく思います。)

 また、当初はヨハネ伝8章をもとにして歌われた讃美歌481番(救いの主イエスの尊き愛は)を予定していましたが、これに代えて、今年の降誕節を締めくくるに際して讃美歌256番(まぶねのかたえに)をご一緒に捧げたく思います。

愛する主イエスよ、今ささぐる、ひとつの願いを 聞きたまえや。
この身と心を、主のまぶねとなし、とわに宿りたまえ。(6節)

祈祷
イエス・キリストの父なる神様
あなたの御赦しがなければ、御前に立つこともできない罪深い者であることを懺悔いたします。どうか、許された恵みに与かり、二度と過ちを犯さないものとして新たに生きることを得させて下さい。弱者のために、弱者の側に立ち、弱者の命を守る主の御業を受けついて、地の塩、世の光として証をたてながら許された命を全うすることが出来ますよう祈ります。

 


 
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