2019.05.05

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「イスラエルの神」

田中健三

イザヤ書12,1-6ローマの信徒への手紙11,25-29

 神を形容するのにわたしたちは「イスラエルの神」とすることは少ないかもしれませんが、今でもそう言うことがあります。例えばモラビア兄弟団の聖書日課2019年4月25日にはその祈りの中で「ハレルヤ、ハレルヤ、ハレルヤ、主なるイスラエルの神を賛美せよ」とあります。本日はこの「イスラエルの神」という呼称に潜む現代的意味について探ってみたいと思います。

 新約聖書には「イスラエルの神」という呼び方が2回だけ出てきます。一つはルカ1,68の洗礼者ヨハネの父ザカリアの賛歌であり、我が子の誕生を通してイスラエルを顧みてくださる神をモラビア兄弟団のように賛美しています。もう一つがマタイ15,31で、様々な病人を癒すイエスを目の当たりにして人々が「イスラエルの神」をやはり賛美する場面です。これらの箇所からわかるのは、「イスラエルの神」と言う際にその内実は、「イスラエル専属の神」ということではなく、「イスラエルを顧みてくださる神」だということです。マタイの当該箇所の直前には非イスラエル人であるカナンの娘の癒しの記事があることも、神はイスラエル人だけのものではないことを示唆しています。

 新約聖書の中でもパウロは、特に「神はイスラエルのためだけの存在ではなく、全人類のための存在である」ことを主張しました。ローマ3,29には「神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもないのですか。そうです。異邦人の神でもあります」と端的に述べられています。

 「イスラエルの神」という呼称には「イスラエルを大切にしてくださる神」という意味があること、また「神はイスラエルだけではなく、他民族をも顧みられる」という二つの新約聖書からの前提に立ち、さらに進めていきたいと思います。

 パウロはローマ11,28で「イスラエル人と神が敵対している」ということと、それでも「神はイスラエル人を今も愛している」ということを述べています。「イスラエルの神」とは言うものの、イスラエルと神の関係は決して一筋縄ではいかないものだということです。イスラエル人の神への敵対とは、「イスラエル人自身の正義」が実は「神の正義」に対立しているという倒錯を示していますが、より具体的には旧約聖書の預言者たちが「やもめや孤児の権利を守らない」指導者層を初めとした人々の実際の行為や不作為を非難していることと同根のことと無関係ではないでしょう。問題は観念的ではなく具体的であり、倫理的な事柄です。

 イスラエル人と神との関係が一筋縄ではいかないという歴史は古く、旧約聖書の随所にそれが現れています。本日読んだイザヤ書12,1-6からもその消息の一端が伺えます。12章6節は「シオンに住む者よ、叫び声を上げて、喜び歌え。イスラエルの聖なる方は、あなたのただ中にいます偉大な方」というイスラエルの神へのユダヤ人の心からの賛美で閉じられています。12章は歴史的にはイザヤの時代に由来するものではなく、バビロン捕囚後の作であるという説が有力ですが、バビロン捕囚という絶望的な状況を背景にしてできた賛美である、ということが重要です。1節で神に向かって「あなたは私に怒りを向けられましたが、その怒りを去らせ、慰めてくださいました」と記されており、その怒りとはイスラエルの経験した様々な患難を具体的には示唆しています。つまり様々な腑に落ちない患難を経験した後、最終的に神を賛美するに至っています。

 ここで大事なのは、患難の中であっても、神とどっぷりと向き合い、神に訴え、問いかけたことと、神からの応答と人々が理解する慰めが与えられたことが無関係ではない、ということです。

 自分(たち)の身に降りかかった出来事について、「どうしてですか」という疑問を神に投げかけ、時には神に反発するようなプロセスを経て、「神はわたしたちを顧みてくださった」という感謝に至る。逆に言えば、こうした神への賛美は、神と四つに組んで向き合うことからこそ出てきました。

 「イスラエルの神」をイスラエル側から述べれば、様々な矛盾や不可解な現実の中で神と向き合ったということであり、仮に神の側から述べられるとすれば、親が子に対するように、子の正しくない行為はあくまでもたしなめ、それでも決してイスラエルを見捨てなかった、ということになるでしょうか。そのようにイスラエルに関わった「イスラエルの神」であればこそ、現代の私にも、私たちにも関わってくださる神であり続けると言えます。

 私たちが神とどっぷりとぶつかり合わない限り、葛藤もないですし、神への反発もないでしょう。しかしそこには本当の慰めもなく、不思議にも与えられる力もありません。

 私たちキリスト信徒と言っても、いざという際に神と向き合わないということがよくあります。私たちは時に神を教養の世界に閉じ込め、その檻の中の神を外から眺める、というようなことをします。そしてそれを信仰だと思う時があります。そうした「信仰」には痛みや葛藤が伴うことはないですが、同時に生き生きとした慰めや力もありません。

 今日までのここ一週間は、新天皇即位と新元号の施行でマスコミの報道は一色でした。しかしそのマスコミの報道の中で、天皇制における宗教性の問題性に触れているものはほとんどありませんでした。天皇即位に伴う「三種の神器」の儀式等が公になり、それでもその宗教性への問題にはあえて触れないという姿勢が際立ちます。しかしこれは日本人がよくよく慎重に注意しなくてはならない問題であるはずです。政教分離や信教の自由ということだけに留まらない根深い精神性についての考慮が必要なはずです。

 聖書にしばしば言及されている「偶像崇拝」とは、それによって利益を得ているグループと利益を得てはいなくとも無自覚にその風習に酔っているグループによって成り立っていますが、天皇制にもその構造が見えます。

 さて「イスラエルの神」と向き合う際に生じる葛藤の現象の一つに「良心」ということがあります。旧約聖書学者である月本昭男先生は、一昨年の宗教改革500周年の記念講演において、ルターの宗教改革の本質を「良心の回復」だと論じました。つまり神と向き合うことによって今まで眠っていた良心が目覚めるという現象が起きるということです。

 ひるがえって天皇制というものに目を向けると、天皇を崇拝することによってわたしたちの良心が目覚めるという現象が生じるだろうか、ということが問われます。そういう意味からも大きな歴史という観点から、日本の天皇によって次の時代が切り開かれるのかそれともイスラエルの神によって切り開かれるのか、あるいは別なものによるのかという壮大な実験が今なされている、と言えます。そしてわたしたちはその実験道具の一部ということができるでしょう。

 疑問を持ってぶつかっても受け止めてくれる存在として、わたしたちが間違っていたら正しい道を示してくれる存在として、そして適切な時に慰めを与えてくれる存在として、わたしたちは「イスラエルの神」に向き合い、この壮大な歴史における小さなしかし貴重な証人として歩んでいく。そのことの意義に今一度思いを馳せ、感謝して本日の話を終わります。


 
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