2019.04.14

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「私達に救いを(ホサナ)」

陶山義雄

詩編118,19-29マルコによる福音書11,1-11

 今年も受難週を迎えました。イエス・キリストが十字架につけられた受難の出来事を思う、キリスト教会にとって大切な時節です。その幕開けは、イエスの一行がガリラヤから長い巡礼の旅を終えて、いよいよエルサレムに入城する情景から始まります。ともすると、受難週は暗い十字架の出来事、つまり金曜日の受苦日に目が向けられるのですが、決してそればかりではありません。棕櫚の葉を束ねて歓呼の声で迎えられる勝利の入場が、本日、棕櫚の主日で私達が見つめるべきイースター前・幕開けの出来事です。続いて最後の晩餐、主が弟子の足を洗う洗足の木曜日があります。逮捕、裁判、金曜日の十字架など、イエスの死だけを見ると悲惨のほか何もないように見えますが、勝利の入城行進から次週のイースターまでを繋げて見れば、決して敗北ではなく、また、悲惨な出来事が全てではありません。受難物語を読みながら、私達はどの角度から、どのグループにいて、十字架の出来事を見つめているのか、その居場所を確認しておかなければなりません。

 イエス一行は巡礼者として、大勢のユダヤ人同胞にかこまれながら、今や最後の目的地に着こうとしています。エルサレム入城はユダヤの国で祝われる「過越の祭」(それはニサンの月の14日から1週間続く)三大祭(過越祭の他に春の収穫感謝祭と秋の収穫感謝・仮庵祭)の中でも盛大に祝われるお祭りです。そのためにユダヤ全土からグループを組んで何日もかけて全地方からエルサレム神殿を目指して訪れます。イエスの一行は12弟子に加えて、ガリラヤで共に研鑽を積んできた多くの仲間と一緒に巡礼の旅をし、今やその終点に近付いています。ガリラヤからエリコを目指して凡そ110キロ近くを、ヨルダン川に沿って歩き、エリコからは標高1000メートル近くも登る山道を辿った末に到着するのです。途中、巡礼者たちは「都もうでの歌」と呼ばれる詩編第120編から134編までを歌い続けます。本日は交読文に121編を選びましたが歌を交わしながら巡礼者の思いを想像し見て下さい。私は121編が取り分け大好きです(それも昔の讃美歌の歌詞で:山辺に向かいてわれ 目をあぐ。助はいずかたより 来るか。あめつちの御神より 助けぞ 我に来る。)或る古代史家によると、イエス時代にはメシア待望の高まりのなかで、過越祭の時節になるとエルサレムにはおよそ30万人も集まっていた、と記しています(現代ではイスラム教・メッカのカーバ神殿を想い浮かべる情景です)。ところで、この祭りの中で、主イエスの受難と復活の出来事があったので、ご存知のようにキリスト教でもクリスマスと並んで大切な祝祭行事が行われています。ついでのことですが、過越の祭から50日経ったペンテコステはユダヤ教では穀物(多くは小麦)で、その収穫の初穂を神殿に捧げる祭、そして秋の収穫祭(主として葡萄、無花果、オリーブなどの果実の収穫)、これを仮庵の祭と呼び、いずれも大体一週間ほど持たれています。

 イエスの一行は巡礼者集団と共にエルサレムから凡そ3キロ離れたベトファゲに来たところで、弟子の二人に隣の村ベタニアへ行ってロバを借りて来るように指示を出しています。ベタニアと云えば、マルタとマリアのいる所(ヨハネ12章)(2週間前には廣石先生が礼拝テキストに用いられた箇所でした)。姉妹とイエスとの親しい関係が今日の聖書の記述からも読み取れるのではないでしょうか。「主人がご入用である」と告げるだけで全ては通じているのです。ここにも、受難の重々しい情景は見えません。巡礼者の一団も、ロバが調達され、それに乗ってエルサレムに入城する人とは、どう云う存在であるかは良く弁えています。預言者ゼカリヤが9章9節で、救い主・メシアの到来が予見されていたことを巡礼者たちは知っていたからです: 「娘シオンよ、大いに踊れ。娘、エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者。高ぶることなく、ろばに乗って来る。雌ろばの子であるロバに乗って。わたしはエフライムから戦車を、エルサレムから軍馬を断つ。戦いの弓は絶たれ、諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ、大河から地の果てにまで及ぶ。」(ゼカリヤ9:9〜10) また、人々は野原へ行って「葉の付いた枝」を切って来て、自分たちのマントと、切り枝をまるで絨毯のように路上に敷いて、メシアが入城するのを迎え入れています。「葉の付いた枝」(ςτιβαδας)は茎草とも考えられ、束にして行進する人々を迎え入れる儀式としても用いられていました。棕櫚(なつめやし)の葉としたのはヨハネ福音書(12章13節)で、勝利の凱旋に相応しい情景にまで高められており、これが他の福音書にも当てはめられてしまい、今では、棕櫚の葉をかざしてメシアを迎え入れる情景として定着しています。 今日は「棕櫚の主日」Palm Sunday と呼ばれるのも、こうした歴史を映し出しています。過越の祭に集まる巡礼者とそれを迎える群衆、そこに救い主メシアを待望して迎える情景は明るさ一色に包まれています。巡礼者が歌い続けてきた「都もうでの詩編」は、エルサレムに入るところで「ハレルの詩編」と呼ばれる詩編113編から118編に変わります。どの歌の終わりにも「ハレルヤ」(主をほめたたえよ)が歌われています。本日のテキストの9節以下で「前を行く民衆も後ろに従う民衆も歓喜の声を挙げて歌っている箇所こそ、ハレルの詩編のクライマックスであり、「過越のハレル」と呼ばれている歌で118編25、26節であります: 「ホサナ。主の名において来る者に祝福あれ(70人ギリシャ語訳)。来るべき我らの父・ダビデの国に祝福あれ! いと高きところにてホサナ。」

 ホサナ(ホーシアナ)とはヘブライ語で「どうか今、救って下さい」、とか「わたしを救って下さい」と云う意味の言葉です。イエスのエルサレム入城に期待を寄せる人々が「過越のハレル」に合わせて、巡礼のクライマックスでこの歌を歌っているのです。私達も、その声に合わせてこの礼拝の中で、讃美歌307番(ダビデの子、ホサナ)をこの後で捧げたく思います。ただ、喜び一色で彩られたエルサレム入城、あれほど歓喜の声で入城した人々の姿、また迎え入れた群衆の熱狂が何故、この後、その喜びが消え去って行くのでしょうか。受難週で私達は十字架に至る聖書の記述を辿ることになります。イエス一行が過越の会食を済ませたあと、イエスの逮捕、弟子たちの逃亡、裁判、死の判決、群衆のイエスへの侮蔑と嘲笑、処刑と埋葬など、入城の情景とは一転して暗い物語を見つめることになります。実は、入城物語の中に、既に十字架が潜んでいることに私達は注目しなければなりません。「今わたしを救って下さい。もしくは、どうぞ、救って下さい」と叫ぶ救いの中身が、巡礼者たちも、群衆も、イエスの弟子たちでさえ違っていたからです。ロバに乗ったイエスがエルサレムの中枢である神殿に入り、栄光の座に就いて下さると期待していたにも関わらず、入城を済ませ、エルサレム城内の下見をした後、イエスの一行は再びマリアとマルタのいるベタニアに引き下がっているのです。群衆の中には、このイエスこそ圧政者であるローマの軍勢や腐敗したユダヤの支配者からイスラエルを解放し、ダビデの王国を再建してくれるメシアを期待していた人々も多くいた事でしょう。弟子たちでさえそうでした(マルコ10:35以下)。入城の前にイエスは3回も受難の予告をしておりました(マルコ8:31以下、9:30以下、10:32以下)。特に、第3回目の受難予告は、いよいよエルサレムに入る直前であるのに、まだ、メシアについて思い違いをしている弟子たちをたしなめて、こう言っておられます: 「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者とみなされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力をふるっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなた方の中で偉くなりたい者は皆に仕える者になり、一番上になりたい者は、全ての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金・代償として自分の命を献げるために来たのである。(マルコ10:42〜45)。」

 「ホサナ、いま救ってください」と叫ぶ、救いとは私達にとっては何でしょうか。苦しみの無くなる事、安楽な生活ができる事。人並み、もしくはそれ以上に豊かに暮らすこと。そう言う願いであれば、入城のあとでは失望が待っています。私達は「真の宗教性」に目覚めた祈りと願いをホサナに込めてささげる用意をこの礼拝で確かめたく思います。「真の宗教性」とは自分の祈りと他者の祈りが一つに合わせられる所です。自己犠牲までは行かなくても、せめて他者、隣り人と共に祈る姿勢です。実はこう言う人々が受難物語の中にも生きて存在していることを私達は、見届けなければなりません。こうした人々はエルサレム入城の歓喜のなかでは隠れた存在になっておりますが、巡礼者としてガリラヤから十字架をへてイエスの墓の前へいち早く駆け付けた人々の存在を忘れてはなりません。弟子たちが十字架を前にしてイエスから逃げ去ってしまったのに、彼方から十字架のイエスをずっと見つめていた人々が居たことを忘れてはなりません。ヨハネ福音書では愛弟子と呼ばれた匿名の人物がイエスの母マリアとその姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアが十字架のもとにいる中で、イエスが先ず母に向かって「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と云われました。 次に愛弟子に向かって「見なさい、あなたの母です。」その時から、弟子はイエスの母を自分の家に引き取った」(ヨハネ19:25〜27)と記されています。ヨハネ福音書に記されている受難物語は初めから終わりまで、この世の裁きを超越した勝利者として描かれています。受難の中を従い歩んできた人たちに向かってイエスは、「今は、あなたがたも悲しんでいる。しかしわたしは再びあなた方と会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。」(ヨハネ16:22) そして受難予告の結びとして「あなたがたにはこの世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(同16:33) 何と力強い御言葉ではありませんか。

 受難週を迎えて、私達はまず、棕櫚の主日に歓呼の喜びをもって主イエスを迎えようとしています。また、巡礼者として目的地にいま正に到着しようとしています。ホサナ、どうか、お救い下さい。その祈りを今日、この礼拝で共に捧げたく思います。しかしその祈りは、日本で新年の初詣で人々が捧げるような、自己本位でご利益を求めるものではなく、十字架を共に見つめ、担い、この世的な苦難であっても共に重荷を身に受けながら、主イエスに従いゆく願いである筈です。そうでなければ、どうして、私達は人生の終わりに訪れる死を乗り越えることが出来るでしょうか。「わたしを信じる者は、たとえ死んでも生きる。また、生きていて主を信じるものは、決して死ぬことはない」(同11章25〜26)この言葉はベタニアでマルタに語られた御言葉です。 十字架の出来事から目を話すことなく、イエスが息を引き取られた後、墓場に最初に馳せ参じたガリラヤからイエスに従って来た同胞のように、ゲッセマネの園で主が祈られた言葉を自分の祈りとして捧げながら、主イエスを仰ぎ、終生、主から離れることなく従い続けるものでありたいと思います。「どうか、この苦き杯を私から取り除いて下さい。しかし、私の願うことではなく、御心が成就しますように。」 主のご受難を見つめ、その力に与かりながら、今年もイースターの喜びを分かち合えるよう、共に祈りましょう。


 
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