2019.03.10

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「明らかになるため」

廣石 望

民数記21,4-9ヨハネによる福音書3,14-21

 2004年、栃木県で3歳と4歳の幼い兄弟が父親の友人から恒常的に暴行を受け、橋の上から川に投げ落とされて死亡するという、痛ましい事件がありました。これを受けて、子どもの虐待のない社会を目指して「オレンジリボン運動」がスタートしています。そのホームページによると、子どもの虐待には身体的虐待、性的虐待、心理的虐待、そしてネグレクトが含まれ、虐待された子どもは概して自己評価が低く、いわゆる育てなおしが必要だそうです。

 平山秀幸監督の映画『愛を乞うひと』を思い出しました(1998年、東宝・角川書店。原作は下田治美氏による1992年の同名小説)。主人公は、娘を一人で育てている女性で、年頃の娘と口論になって思わずパチンと叩いてしまったとき、自分の子ども時代を思い出すという設定です。幼いころの彼女は父親との二人暮しでしたが、父親が亡くなった後は孤児院で育ちます。やがて実母に引きとられますが、そこから長年に亘る虐待が始まりました。「私がかわいいから引きとったんじゃないの?」と問う彼女に、母親は「仕方なく引きとっただけ。お前がかわいいからじゃない!」と叫びます。

 映画では、思わず娘を叩いしてしまうけれども、ふだんは大人しくて少し頼りない感じのお母さんの役と、回想の中で少女時代の彼女に鬼の形相で折檻を加える母親を、同じ俳優が一人二役で演じます。こうして母の愛を求めても得られない少女と、愛しているはずの娘を虐待してしまう母親の姿がひとつに重なります。

 本日のテクストは「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」という有名な言葉を含みます。私の問いは〈神の愛は暴力から自由なのか?〉です。

II

 「モーセが荒野で蛇を上げたように」(14節)とあるのは、民数記の「青銅の蛇」のエピソードを受けています(民21,4-9)。エジプトを脱出したイスラエルの民が、荒野で神とモーセに不平を言うと神が「炎の蛇」を送り、その蛇に噛まれて多数の死者が出ました。これに耐えかねた民が嘆願すると、神はモーセに「炎の蛇を作って竿の先に架けよ。蛇に噛まれた人は誰でも、それを仰ぎ見れば生き延びる」と告げます。モーセは青銅製の蛇を掲げ、民は救われました。

 つまり神は二度「炎の蛇」を送ります。一度目は人間の不信仰を暴力で罰し、二度目は悔い改めた人を癒すために。人間の態度次第で、処罰の暴力と癒しの愛が、同じ神から来るのでしょうか?

 ヨハネ福音書では、「上げられる」という動詞が〈十字架にかけられる〉と〈天に上げられる〉の二重の意味で用いられます。「君たちが人の子を上げるとき、そのとき君たちは私がそれであり、私が自分からは何もせず、父が教えたとおりに私がそれらを言うことが分かる」(8,28)、あるいは「私が地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」(12,32)というぐあいに。

 では、「人の子も上げられなければならない」(14節)とある受動態の動作主は、いったい誰でしょう? イエスを死に追いやる人の暴力、あるいは神の暴力でしょうか? それともそれは、青銅の蛇を仰ぎ見る者すなわち信じる者に救いをもたらす神の愛でしょうか?

 十字架の死は、この世的にはあからさまな敗北です。これを神の視点から昇天と捉え、神とキリストがもたらした勝利と解釈することなら、つまり人の暴力をも神の視点から愛のできごとと解釈することなら、まだ分かります。しかし、イエスを十字架に架けたのが神であるなら、そしてそれが人への神の愛であるなら、神格の中に〈暴力=愛〉という図式が生じます。神の中に暴力と愛が共存するという教えは、諸宗教とキリスト教において伝統的なものです。

 でも、それでいいのでしょうか?

III

 続く17-19節は、この伝統的な両義性から「神」の概念を解放する試みと見えます。

17神が息子を世に派遣したのは、彼(神)が世を裁くためではなく、世が彼(息子)を介して救済されるためだったのだから。18彼(息子)を信じる者は裁かれない。しかし信じない者はすでに裁かれてしまっている。その人が、神の一人生まれなる息子の名を信じなかったからである。光が世に到来したこと、そして人間たちが光よりも闇を愛したこと、そのことが裁きである。

 神が世を裁くためでなく、救うために息子を遣わしたのならば、神は審判の暴力から自由です。「信じる者は裁かれない」とは、〈信仰者である私は最後の審判に合格するが、他の不信心な者どもは神の暴力の餌食になるがよい〉という意味ではまったくありません。むしろ信じる者は、そもそも測定プロセスに入らないという意味です。伝統的に審判は未来に期待され、「裁かれるぞ!」という脅しは、じっさいには悔い改めて救われるためのチャンスを提供してきました。では、「信じない者はすでに裁かれてしまっている」という現在完了形は、どのような意味なのでしょうか?

 「光の到来」とはキリストの到来を、また「光よりも闇を愛した」とはキリストの福音の拒絶を意味しますので、裁きとは不信仰それ自体のことです。不信仰は処罰の対象でなく、それ自体が審判なのです。こうして未来に期待されてきた最後の審判は現在化され、同時に個人化されます。それは太陽がさんさんと降りそそぐ春の野原でズダ袋を頭からかぶり、「世界は闇だ!」と叫ぶのに似ています。

 なるほど「光」と「闇」の区別は生じており、「光」の到来がそれをもたらすという意味では、かすかな暴力性が感じられます。それでもこの区別は、人間各人の反応がもたらすものです。神は裁かない。人が自分の意志で、自らを救いから排除するのです。

 こうした理解の含意に、神が裁かない以上、信仰者である人間が神に代わって不信仰者に審判を下してはならないことが含まれます――もっとも伝統的なキリスト教国は、いわゆる「正義の戦争」にさいして、あろうことか〈神の敵どもに罰を下す〉と公言して憚りませんが!

IV

 続いて、「行為」の概念が導入されます。

19b彼らの行為(複数)は悪しきものであったから。20すなわち腐ったことをする者は皆、光を憎み、光のもとに来ない、彼の行為(複数)が暴露されないために。21aしかし、真理を行う者は光のもとに来る。

 義人の行いは善く、罪人の行いが悪いとは、ユダヤ教に伝統的な考え方です。それは、イエスの山上の説教の「彼らの実(複数)から君たちは彼らを見分ける。いったい茨から葡萄を、あるいはアザミから無花果を人は集めたりするであろうか?」(マタイ7,16)という言葉を通して、キリスト教世界に継承されました。

 しかしながら私たちの愛は、しばしば暴力の悪から自由でありません。あるいは他者の「悪」を暴くさいにも、「有名人にプライバシーなどない!」「犯罪者を厳罰に処せ!」と叫びながら、正義の味方もたいそう暴力的です。

 ヨハネ福音書が「悪しき」行い、また「腐ったことをする」、「光を憎む」あるいは「闇を愛する」と述べて、否定的な行為の存在をはっきり指摘するのは、よいと思います。他方で、私たちは「真理を行う」と同時に、悪をも行う存在です。私たちの行為には、善と悪が入り混じっています。「良かれ」と思ってしたことが、周囲から「悪い」と判断されることもあります。ヨハネ福音書は、この事情を考慮していないのでしょうか?

V

 「真理を行う者は光のもとに来る」という発言の全体は、以下のようです。

 真理を行う者は光のもとに来る、彼の行為(複数)が明らかになるために――それが神にあってなされたことが。(21節

 「神にあってなされた」とは、救いをもたらすことだけを意図し、裁きにはタッチしない神への信頼からなされた行為という意味でしょう。このことが「明らかになる」ために、私たちは光のもとに来る。じつはそのとき、私たちは自らの行いが「悪く」「腐っている」こと、自分たちが「光を憎み、闇を愛する」者であることをも自覚します。神が罰するのではなく、「救う」存在であると知ることから、この自覚が生じます。救いと赦しをもたらす神を受け入れた者による罪の自覚は、そうでない者よりもはるかに深いからです。

 このような赦しの経験と神への信頼が、審判への恐れなしに、子どもの虐待を含む他者や自分への暴力に溢れた世界を変えてゆくための基礎になると思います。


 
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