2018.07.08

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「復讐を拒むダビデ」

秋葉正二

サムエル上24,8-23ローマ12,9-21

 宗教部族連合という表現をお聞きになったことがあると思います。王国になる前のイスラエルはカナンの地に入植して後、それぞれの部族が独立しつつ、血縁意識や共通の歴史認識、共通の神ヤハウェへの信仰などによって、連帯していました。とりわけ信仰的共同体意識は強かったと見られています。

 民数記を読むとイスラエルの部族の成り立ちがよく分かります。それぞれの部族名は、族長ヤコブの12人の子たちの名前に由来しています。つまり12部族で連携を取りながらカナンの地でまとまっていったのがイスラエル民族でした。政治的には彼らが王制を導入した紀元前千年に、大きな転機を迎えています。後にパレスチナ(ペリシテに由来する名称)と呼ばれるようになるカナンの地には、すでにペリシテ人という強大な力を持った先住民族がいましたから、イスラエルはペリシテの圧迫によって政治的・軍事的体制を強化して行かざるを得ませんでした。

 その結果、王を立てて王国を打ち立てるということになるのですが、その時指導的な役割を果たしたのが預言者サムエルです。サムエルは王の擁立にどちらかと言えば批判的でした。彼の目から見れば、王の擁立は神ヤハウェに対する不信のしるしなのです。

 しかし人々に求められて、心ならずも王の擁立に動きます。その結果、サムエルによって油を注がれ、初代のイスラエル王国の王の座に着いたのがサウルです。王国と言っても盤石ではありませんから、サウルの王権が及んだ範囲は明確ではありません。南のユダ族地域が含まれていたかどうかについては議論が分かれます。

 きょうのテキストの物語は、このサウル王と二代目の王となるダビデの邂逅が軸になっています。サムエル記上には二人のいろいろな物語が描かれていますが、小説風に読みますとなかなか興味しろくて退屈しません。

 きょうのテキスト24章は実は26章と重複しています。両者は並行伝承をなしており、構造的にはほぼ同一と言えます。というのは、両者に共通の原伝承とも言うべきものがあったということでしょう。編集者があえて両者を併置したのは、ダビデによるサウルの王位の後継がまったく瑕疵のないものであることを、繰り返し強調するためであったと思われます。

 部分的にも逐語的な一致は多く見られますが、物語の舞台が違っています。24章の舞台は1節にありますが、エン・ゲディです。死海西岸中部にあるユダ領に属するオアシスの町です。西側はユダ山地に面しており、急斜面には岩の割れ目や洞窟が多い地域です。その洞窟の一つがサウルとダビデの関係に大きな役割を果たしています。

 と言うのも、物語の前段として、サウルとダビデの間には複雑な関係が出来上がっていたのです。当初ダビデはサウル王に気に入られた家来の一人に過ぎなかったのですが、彼は優秀な戦士でした。ペリシテの大男ゴリアテと少年ダビデの話は皆様もご存知だと思います。同じサムエル記上の17章に載っています。

 あの場面で勇敢な美少年ダビデが大男ゴリアテを倒し、イスラエル軍は思いがけない勝利を得て危機を脱するのですが、その際人々はダビデを生かした神をほめたたえるのではなくて、ダビデに賞賛の声を浴びせてイスラエルの英雄としてもてはやしました。サウル王はそのダビデの名声に嫉妬心を起こすようになり、やがてダビデを殺そうとまで敵愾心を燃やすようになります。聖書はその恐るべきサウルの敵意を醜い人間の姿として描き出しています。

 エン・ゲディの物語は、サウルに命を狙われ、追われて洞窟の中に隠れていたダビデが、そこにダビデが潜んでいるとは知らずに用を足すために洞窟に入ったサウルに気づき、殺そうと思えば殺せる好機に恵まれたにも拘らず、あえて見逃して己の身の潔白と忠誠心とを証明するという劇的な場面です。8節には、ダビデの部下が 「今こそあなたを殺そうとして追ってきたサウロ王を殺す千載一遇のチャンスですよ」 と進言したことに対し、 『ダビデは兵を説得し、サウルを襲うことを許さなかった』 とあります。

 このダビデの行為に対して、結果的にサウルはダビデの忠誠心にいたく感じて、己の非を悟り、いわば「よよと泣きくずれる」のですが、この辺りの流れは何か芝居の一場面を見ているような気になります。9-16節は一言で云うと、ダビデが自分からサウルに名乗り出るクライマックス シーンです。ダビデがサウルの上着の端を切り取った話などは、ちょっと出来過ぎているなァといった印象も受けますが、とにかくダビデは、部下の教唆を拒否して、サウルが 『主が油を注がれた方』 であることを強調しています。

 おそらく編集者は伝承をより興味しろく仕上げるためにかなり脚色していると思います。それと、ダビデというイスラエルの英雄がいかに信仰深かったか、またその信仰に基づいて何と誠実な心の持ち主であったか、という点を強調して描いていきます。私はそのように描かれているダビデ像は、編集者が目指した一つの理想像だと考えています。

 歴史上のダビデは権力の最上階に座り、権力を一手にしていたこの世の現実の王ですから、とても人格者であるとか、信仰第一の人であったとは言えないでしょう。その点で私たちは理想的な信仰者像に仕立て上げられたダビデを見ているのであり、それは歴史のダビデとは区別しておいた方がよいと思います。

 私は王などという存在は大嫌いですから、そのように割り切って考えています。イスラエルの信仰を持った編集者が、信仰者とはこうあるべきだ、こうした真心を持っている人こそヤハウェに心から従う信仰者なのだと、あるべき信仰的理想像を示そうとしたわけですから、私たちは歴史のダビデと理想的信仰者ダビデをはっきり区別して差し支えないと思います。

 イスラエルは大国に挟まれた弱小王国ですから、その国を維持していくためには、ダビデのような英雄を生み出して、民衆の思いを一つにまとめることが必要だったのでしょう。しかもその英雄が信仰深い姿を示してくれるとしたら、その影響力はいや増したはずです。詩編にはダビデの名が多く残っていますが、その伝承の裏にもそうした信仰的英雄譚が関わっているはずです。編集者はダビデという英雄の姿を通して、将来のイスラエルの理想的な姿をイメージしたのではないでしょうか。

 もう一点、ダビデの言葉にはイスラエルの信仰に基づいた倫理が提示されていると思います。12節から13節にかけて出てくる 『わたしの手には悪事も反逆もありません』 とか 『主があなたとわたしの間を裁き、わたしのために主があなたに報復されますように。わたしは手をくだしません』 といった言い方に出会いますと、後のキリスト教倫理に通じるものがあるように思うのです。

 たとえば私はマタイ福音書5章の「山上の説教」を思い浮かべます。イエスさまはそこでこう言われています。『あなたがたも聞いているとおり、“目には目を、歯には歯を”と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頰を打つなら、左の頰をも向けなさい……』。イエスさまの示された信仰的な倫理は旧約聖書に示されたこうしたダビデ英雄譚にも一つのルーツがあったのではないか、とも思いました。

 さて、17節以下ですが、ダビデの切々たる訴えを聞いたサウルの反応が記されています。17節によるとサウルは 『声をあげて泣き』 とありますから、感極まってダビデの訴えを受けとめています。18節の 『お前はわたしより正しい』 というサウルの言葉は印象的です。こうした一言は冷静に自分を見つめていないと出てこない言葉です。

 この一言でサウルはダビデの主張の正当性と、それまでの自分の非を認めました。それを裏付けるように彼は言葉を繋ぎます。 『お前はわたしに善意をもって対し、わたしはお前に悪意をもって対した……』。 この辺のやりとりはいいですねェ。サウルは明らかにダビデの態度に打たれています。だからダビデが自分より正しいことを認めました。

 しかしこれはダビデがサウルよりも道徳的に善であるという意味ではありません。なぜなら旧約の「義」は元来法律用語で、ダビデは自分の言い分を審いてもらうために義なる神に訴えて神的正義の法廷に争いを帰しているからです。サウルも問題を自分の手に取りましたけれども、彼は問題を神の正義に無関係に決定してしまっているので、より正しいとは言えないでしょう。

 また聖書学では、もともとサウルの言葉は20節の 『主がお前に恵みをもって報いてくださるだろう』 で終わっていただろうと見ています。そこで21-22章には編集者の手によって、やがてダビデが王となり、イスラエル王国が彼の手によって確立されるだろうというサウル自身の口による予言が付け加えられます。

 ダビデがやがて王になるという予言はダビデの親友であるヨナタンの口からすでに出されていました。20章にダビデとヨナタンの記事があるのですが、私はこの記事が大好きです。ヨナタンはサウルの息子ですが、王である父親がダビデに敵愾心を抱いても、ダビデに対する友情を最後まで失うことがありませんでした。人と人がダビデとヨナタンのような友情を持つことができたら、人の世はさぞ住みやすい世になるだろうと思います。

 とにかく、21節以下には現職の王自身の言葉によってダビデの将来の王位が確認されます。心からの和解が成立したのだから、ハッピーエンドだと思うのですが、歴史的事実はそんなに甘いものではなかったようです。というのは、この物語の続きの部分には、この時のサウルの正常な精神と悔恨の情がごく一時的なものに過ぎなかったことが明らかになるからです。人間というのは何と複雑な存在なのだろうか、とつくづく思わされます。

 きょうは教団の〈部落解放祈りの日〉ですが、誰しもが持っている差別意識も、こうした複雑な人間の存在性に由って来たるものなのでしょうか。部落差別は歴史的にも根深いものですが、この差別を生み出してきたのは私たち罪ある人間ですから、これを乗り越えることができるのも神様によって罪赦された私たち人間だという希望をつなぎながら、部落解放の活動に連帯してゆきたいものです。祈ります。


 
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