2017.12.31

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「再臨への備え」

秋葉正二

アモス4,11-12ルカ福音書12,35-40

 人間はどうも時間感覚を身につけていないと上手に生活できないようです。 ですから昔からどの民族も暦などを編み出して、それを生活の道具にしてきました。 日本にも中国からいろんな暦が入ってきて、日常生活にも結構影響を及ぼしています。 たとえば十二支とか十干とかの干支があり、来年は戌年だとか言い合って、皆さまも年賀状のデザインに取り入れたりされたのではないでしょうか。

 教会も教会暦という暦を作り出して、信仰生活がより充実するようにと日々の過ごし方にメリハリをつけるようになりました。 世界のキリスト教会はそれぞれ自分たちで工夫して独自の教会暦を生み出しています。 代々木上原教会はドイツのヘルンフート兄弟団のローズンゲンを活用しています。 ローズンゲンなどは世界50カ国以上で200万部が使われているそうですから、驚きです。

 私たちの教会が所属する日本基督教団にもちゃんと聖書日課があります。 これを利用して主日礼拝の説教のテキストにしている先生方も多くおられます。 私の説教テキストの選択は目下ローズンゲンに拠っていますが、テキストをクジで選んでいるというのを聞いて、正直最初は「それはどうかなあ」と思ったのですが、よく考えてみると、クジを引くというのは聖書にも何度か出てきますし、人間的な計画や偏りを避けようという意図があるのでしょう。とにかく人間は一年中時間を意識して生きる生き物らしいということが、こうしたことから窺えます。

 さて、ルカ福音書を書いた人物、一応伝統的にルカさんと呼びますが、この人は「時」についての感覚に独自のものを持っていたようです。 ルカ福音書の思想的特徴として「時系列的な救いの歴史感覚」があると思います。 ルカによれば、神さまの救いには「初め」と「中心」と「目的」が設定されています。 「初め」は「旧約時代」であり、預言の時代です。 「中心」というのは、その預言が成就した時、すなわち「イエスの時」です。

 イエスさまがこの世に来られたというのは、預言の成就であり、救いの時なのですが、それでもまだ完全に救いは完了していないのではという考えも生まれたので、ルカはそれもちゃんと考慮して、最終的なイエスさまの救いの完成の時として捉えています。 ですからもう一度整理して言いますと、神さまの救いには「初めの預言の時」があり、それが成就した「イエスの時」があり、さらにはそのイエスさまの時が完全完了する「完成の時」がある、と理解したわけです。

 また「イエスの時」が中心であるにせよ、イエスさまの十字架と復活の後、救いが完成するまでの中間期があるだろう、と考えるのも自然です。 ルカは自分をその中間期に生きている存在として、イエスさまが歩まれた時代、つまり「イエスの時」を振り返りながら福音書を書いたのです。 この理解に乗れば、私たちの生もこの中間時代にあることになります。 あらためて申しますが、こういう意味でルカは時間の意識を強く持っているのです。 そこでルカは、イエス時代から救いの完全完了の時までの中間時代を、「教会の時」でもあると捉えました。

 この「教会の時」をもっと明瞭に表すために「使徒言行録」も書かれたと言えます。 「使徒言行録」はペテロとパウロの行動を中心に展開されていますが、もっと大きな枠組みで捉えれば、“中間時代を教会は力強く元気に活動しているんだ”という強いアピールの文書でもあるわけです。 もちろん「イエスの時」と「教会の時」は継続性をもつものとして福音書にも「使徒言行録」にも書き表されます。 また時間感覚と同時に、歴史の空間的な捉え方も見いだすことができます。

 たとえば、イエスさまの救いの業はガリラヤからスタートしていますが、救いの「中心の時」はエルサレムにおいて実現しています。 さらに「終末の完成」の向かっては、エルサレムからローマへ、さらに世界の果てまでというふうに、救いは次第に拡大して行きます。 おそらくルカの頭の中には、イエスさまの活動の空間的意識が、当時の地中海全域、ローマ帝国内の隅々にまで拡がっていたのではないでしょうか。

 きょうのテキストでは、終末においてはキリストが審判者として再来されるということが前提とされ、それに準備をして備えよという警告が述べられています。 もちろんそれは、イエスさまの十字架と復活後から再臨までの期間を、キリスト者やその共同体である教会がどう生きたらよいのかというテーマでもあります。 イエスさまは時としてご自分のことを「人の子」と言われたりしますが、いったいイエスさまは人の子の再臨を教えたことがあるのだろうか、という見方もありますし、終末の間近さを述べる際にも、それが時間的にすぐ到来すると考えておられたのだろうか、というような疑問も出てきます。

 なかには終末はなかなか来ないから、この先ずっと伸ばされていくに違いない、と考えた人もいたでしょう。 でもイエスさまが人の子の再臨を間近いから準備しなさい、と言われたのだとしたら、私たちはその言葉を真剣に受けとめる必要があります。 時間的な感覚理解を超えて、もっと大きな意味で、キリスト者としての生き方を問われていると理解すべきだと思うのです。

 たとえば、人間には予期しない突然の出来事が起こります。 その代表的なものが死です。 病気になり重篤状態が続いていれば、周りの人はその死をある程度予測することもできるでしょう。 でもほとんどの場合、「はい、今から私は死にます」と言って事切れるわけではありません。

 私は再臨と聞くと、いつも内村鑑三のことを思い出します。 内村の人生は、特に前半は苦しいことがたくさん起こりました。 最初の妻との離別とか第一高等学校の不敬事件とか、二度目の妻に先立たれたりとか、踏んだり蹴ったりの人生だったと思いますが、内村最大の危機は最愛の娘ルツ子を十代で失ったことだと思います。 愛する子が親よりも先に死んでしまうことほど悲しいことはないでしょう。 内村はこの出来事を機に再臨信仰にのめり込んでいきました。 それは突然起こることを通して、人間の滅びも救いも、生も死も、すべてが創造主である神から来るということを彼が自覚したからではなかったからではないか、と思うのです。

 前任地の教会に子を失うことを経験したご夫婦が二組おりました。 その体験をお聞きしましたが、とても言葉では言い表せない苦しみだったということです。 お一人の方は大学入学が決まったばかりのご子息を難しくない手術の麻酔事故で突然失った母親ですが、その時は、丸3年間、足が地に着かず、何も考えることも出来ず、ひたすら感情のないロボットのような3年でした、と話してくださいました。 それを最終的に救ってくれたのは牧師の一言で導かれた聖書のイエスさまの姿だったというのです。

 イエスさまが譬をもって、『腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい』とか、『主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ』 と言われたのは、終末の時に備えて常に目を覚まして待つことの重要さを語っていることは確かですが、終末への時空意識を超えて、今終末へ向かう中間時代を生きる私たちに生き方を問うているのです。 主人の帰りを待つ譬え話は、僕がその義務を果たすかどうかの信用性の問題ですが、それを私たちに当てはめれば、私たちが神さまから課せられた義務をよく果たしているかどうかという責任認識の問題になります。 責任を認識していて主人の願い通りにしなかった者は問題なのです。

 「テサロニケの信徒への手紙I」5章1-11節にはきょうのルカのテキストとかなり共通することが書かれていますが、私は特に4―6節を読んで励まされました。 そこを読んでみます。 『……兄弟たち、あなたがたは暗闇の中にいるのではありません。……主の日が、盗人のように突然あなたがたを襲うことはないのです。あなたがたはすべて光の子、昼の子だからです。わたしたちは、夜にも暗闇にも属していません。従って、ほかの人々のように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう……』。 きょう一緒に読んだアモス書4章でも表現は異なりますが、共通なことが述べられています。 祈ります。


 
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