2017.1.29

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「神はこれを見て、良しとされた」

秋葉正二

創世記1,9-12・24-25ヨハネの黙示録22,1-2

 本日の礼拝のテーマは、〈地球環境の問題を祈り考える〉です。 そこできょうのテキストは創世記を取り上げました。 地球環境が痛めつけられていることは、すでに20世紀から指摘されています。  大規模公害、無計画な森林伐採、大型タンカーの事故などが次々と報じられてきました。  それに対して人類が有効な対策を講じてきたかと言えば、決して充分とは言えません。 とりわけ地球温暖化現象は地球上のどの国にとっても共通な課題ですから、対策を急がなければなりません。 温暖化がもたらした結果として、すでに豪雨や干ばつなどの異常気象の増加が報告されていますし、生態系への影響も深刻で、貴重な遺伝子の減少が始まっています。 地球の砂漠化は水資源へ影響し、水不足の発生が予測されています。 マラリヤやコレラなど熱帯性感染症も増加するでしょうし、気温上昇は穀物生産の低下を招きます。 それは食糧不足問題を引き起こします。 高温による冷房などの消費エネルギーが増加すれば、エネルギー問題は一層深刻になるでしょう。

 さてこうしたことを頭に置いて、そもそも聖書は地球環境にどう関わっているのかを探って見ましょう。 古代イスラエルの人々は、神さまが人間を土から形造り、そこに生命の息を吹き込んだと考えました。 昔は神さまが人間を土から造ったというような古い表現が広く受け入れられていたので、それを他の表現で言い換えることは難しかったのでしょう。 とすると、土から造られたということは二次的な意味しか持たず、古代イスラエル人がこの表現で語ろうとした主要点は、人間とは造られたもの、神さまの被造物であるという点です。 そのことをまず押さえておきます。

 きょうのテキストは天地創造の物語の一節ですが、9-12節は創造三日目の出来事です。 まず、『神は言われた。“天の下の水は一つ所に集まれ。乾いた所が現れよ”』とあり、そのようになったと記されています。 乾いた所は地と呼ばれ、水の集まった所は海と呼ばれます。 神さまはそれを見て、良しとされています。 続く11節から12節へと読み進みますと、この段階で、神さまは陸と植物を造られ、着々と人間が住むのに都合がよいように地上世界が造られていったことが描かれています。 植物は三つに分けられました。 まず草ですが雑草の青草です。 これはやがて家畜の食物となります。 次に種を持つ草、これは穀物です。 人間の主食となってゆきます。 そして、種を持つ実をつける果樹です。 このうち穀物と果樹は人間が生まれる前から食物として用意されていたことになりますから、これはイエスさまの「山上の説教」の言葉を思い起こさせます。

 マタイ福音書6章25節にはこうあります。  『自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな』。 必要なものは神さまが備えられるということです。 そういうことを心配して思い悩むのは、神さまの創造のみ業に不信を抱くことになるので、許されるべきことではないというのが、聖書の厳然たる教えの一つと言えるでしょう。創造の昔、人間は穀物と果樹だけで十分と考えていたのです。

 30年ほど前、フィリピンのミンダナオの山岳地帯に行った時、現地の人が、「食べ物は裏山に行けば、バナナでも何でもたくさんあるよ」と言っていたのを思い出します。 大航海時代にマゼランがフィリピン諸島を発見するまで、島々の人々はそういう感覚で暮らしていたのです。 聖書の記述を追うと、「ノアの洪水」以後初めて、動物を食べることが許されています。 なぜ人類最初の食べ物が穀物と果樹で、動物は後なのでしょうか?

 日本でもそうですね。 仏教でも昔は肉食を禁じていました。 人間は生まれ変わって動物になることもある、と考えられていたからでしょうか。 人間と動物が互いに生まれ変わるのならば、人間が動物を食べるのは共食いということになってしまうということでしょうか。 聖書はそういうことは言いません。 これは24-25節に書かれています。  『神は言われた。“地はそれぞれの生き物を産み出せ。家畜、這うもの、地の獣をそれぞれに産み出せ”。そのようになった。神はそれぞれの地の獣、それぞれの家畜、それぞれの土を這うものを造られた。神はこれを見て、良しとされた』。  そうしてそれに続いて人間が造られています。

 つまり、天地創造物語では、はじめ人間と動物は共存できるように造られているのです。 ところが人間の罪の結果、人は堕落し、人間と動物が争うようになったと聖書は述べるのです。 これは罪の世の中の現象として、そのようなことが起こったという考え方です。  24節に 「地はそれぞれの生き物を産み出せ」とあるのですが、「それぞれの」は「いろいろな種類の,あらゆる種類の」と訳すほうがよいそうです。  地はもちろん 「母なる大地」 という神話的な理解です。  神さまが大地にいろいろな種類の生き物を生み出すように命じた、というのが24節の主旨です。

 この記事から一つの聖書的なマボロシを取り出すとするならば、イエスさまの十字架の贖罪によって、やがて新天新地が実現し、理想的な姿に立ち返った時には、肉食をしないですむようになる、ということでしょうか。  私は大好きなのですが、あの有名なイザヤ書11章の聖句を思い浮かべました。『エッサイの株からひとつの芽が萌え出で』 で始まる箇所です。  その6節以下にこうあります。 旧約の1078頁です。 ゆっくり読んで見ます。

『狼は小羊と共に宿り 豹は子山羊と共に伏す。 子牛は若獅子と共に育ち 小さい子供がそれらを導く。牛も熊も共に草をはみ その子らは共に伏し 獅子も牛もひとしく干し草を食らう。 乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ 幼子は蝮の巣に手を入れる。わたしの聖なる山においては 何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。水が海を覆っているように 大地は主を知る知識で満たされる……』。

 どうですか?  「ただの理想の世界だ」 で済ませてしまえば本も子もないのですが、今日人間が肉を食べなければ生きていられないということは、決して理想的な状況ではないのだ、ということを言い表しているように思えます。 天地創造物語には、神さまが四日目に太陽や月や星を造られた記事もあります。 太陽も月も星もそれぞれが人間のために存在するという古代イスラエルの考え方が窺えます。  日本でも太陽や月は、お天道様・お月様と呼ばれて信仰の対象ですが、それは世界中の諸民族の中にも見られます。 でもイスラエル人だけが日や太陽や星は人間のために奉仕するものだと考えたのです。

 顕現日は東方の三博士を記念する日でもあるのですが、三博士は占星術の学者たちでした。 そこから星占いなども派生したのですが、星を人間の道具として捉えている点には驚きます。  何千年も昔の人たちが、天体は季節を区別すると考えることができたこと自体が凄いなと思います。  いろいろなことを天地創造の記事を頼りに自由に思い浮かべて見ましたが、私たちを取り囲む自然も、50億の人間が住むこの地球も、その地球を包み込む天体も、信仰の視点から見ることができることを聖書は教えてくれています。 だから私たちは神さまへの責任として、この地球を大切に守らなければなりません。 この地球上に起こっているさまざまな人間が引き起こしてしまった破壊を修復していかなければならないと思います。 祈ります。


 
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