2016.10.9

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「離婚問題」

秋葉正二

申命記 24,1-4マルコによる福音書 10,2-9

 テキストのテーマは「離婚」ですが、そもそも結婚がなければ離婚もないわけですから、まず結婚について聖書はどう言っているか、キリスト教はどのように結婚を捉えてきたかについて考えようと思います。 現代では伝統的な男性観、女性観が問い直されています。 聖書が示す男女の姿にしても、たとえばフェミニスト神学の問題提起を受けて、批判的に読まれる時代です。 男と女について、皆さんならば、まず聖書のどこを思い浮かべるでしょうか。 私ならば創世記の冒頭にある創造物語とそれに続く楽園物語をイメージします。 『神は御自分にかたどって人を創造された。……男と女に創造された』 という箇所です。 神さまにかたどって人間が創られたというのですから、それでは神さまの姿とはどんなものなのだろうと様々な「神の像」をめぐって議論されてきました。 要は人間というのは、お手本が神さまなのだから、被造物ではあっても、そこには神さまの御心に適った一つの理想像があるのだろう、ということです。 その上で「男と女に」創造されているのですから、人間の理想像は男と女の両性で表されていると考えてよいでしょう。

 「男と女」というのは生物学的な性別ですが、その性別表記と共に 「人間という生き物は男性と女性があり、その両性が共同して生きるところに、人間の生きる原点がある」 と創世記は語っているように思われます。 創造物語の資料は二つあって(ヤーウェ資料J・祭司資料P)、それぞれが組み合わされているのですが、創世記2章18節以下の物語(J)は、『人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう』 という表現から始まりまして、主なる神が人を深い眠りに落とされて、あばら骨の一部を抜き取ってその跡を肉でふさぎ、今度はそのあばら骨で女を造り上げられた、と書いてあります。 そして神が彼女を人のところへ連れていくと、人は言います。 『ついに、これこそ、わたしの骨の骨、わたしの肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう、まさに、男(イシュ)から取られたものだから』。 その後に説明がついています。 『こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった』。 どうもこの辺りが聖書から結婚を考える上での原点かな、と思います。

 「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」という表現には、既に男女の社会的関係が視点に入ってきています。 「助ける者」とは、主人に対する従者という関係ではなく、単なる補助者以上の存在が暗示されていると思います。 お互い名を呼んでも答えないという関係ではなく、きちんと向き合い、名前も呼び合って助け合う存在となる……それが男イシュと女イシャーの関係だというのです。 イシュは成人男性あるいは夫を意味し、イシャーは成人女性、妻を表す言葉です。 ここまで来ると、創造物語は夫と妻という社会的な人間関係として考えられていることが分かります。 しかしこれがすべて夫婦という関係に集約されるものでもないでしょう。 現実にはパウロのように結婚を必要としない人たちもいるし、異性のパートナーを必要としない人たちもいるからです。 それでも一般的にはこうした創造物語などは、結婚を考える大切な材料にはなるはずです。 こうしたことを頭に入れてテキストを見てまいりましょう。

 ファリサイ派の人たちがイエスさまに近寄ってきて尋ねています。 『夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか』。 旧約に通じたファリサイ派の面々ですから、当然離婚に関するモーセの律法を意識していたはずです。 はっきり言えば、彼らは夫が妻を離縁して捨て去ることが許されているか、と問うたのです。 律法の規定は先ほど読んだ申命記24章1節です。 去らせる条件も書かれていました。 『妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは』 とあります。 ですから夫が身勝手に離縁を申し渡せるということだけでもないようなのですが、それにしても、律法の文言は明らかに夫が主体になっています。 2節には 『イエスを試そうとした』 とありますから、ファリサイ派の人々の、悪意をもってイエスさまから律法に矛盾する言質を取って困らせてやろう、とする意図は明白です。 心の底では3章6節にあったように、ずっと「イエスを殺そう」と狙い続けてきたわけですから、殺害意図を秘めたとんでもない底意地の悪い質問です。

 しかしイエスさまはそうした彼らの狙いをすべて見通しておられたようです。 イエスさまは問い返されました。 『モーセはあなたたちに何と命じたか』。 ファリサイ派の人々は待ってましたとばかりに答えます。 『モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました』。 もうぐうの音も出ないだろうと彼らは思ったことでしょう。 しかしイエスさまは少しも動揺する気配など見せず、こう言われました。 『あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ』。 すごいですね。 「あなたたちの硬直した心こそが原因なのだ」と指摘されたのです。 イエスさまの一言には、掟とは何なのか、という本質を理解されていたことがよく現われ出ています。 ファリサイ人たちは確かに律法をよく読んでいたでしょうが、しかし、どうしてこの掟が生まれ定められたのかについては十分に掘り下げて考えていなかったのです。

 律法に限らず、どんな規則でも、それがなぜ生まれて定められるようになったかを十分深めて理解していないと、人はその規則に縛られるようになります。 規則はそれが生み出される背景こそが重要です。 その大切な肝心なところを押さえていたか否かが、イエスさまとファリサイ人の分かれ目でした。 ファリサイ人たちは、質問した自分たちがイエスさまの思いも寄らない言葉に、二の句を継げなくなってしまっています。 彼らの悪意は墓穴を掘りました。 そしてイエスさまは創世記の精神に立ち帰られて、結婚とは「創造の始まりから」神の意志に従うもので、「神が合わせたものを、人間は決して別れさせてはならない」と告げられました。 言い換えれば、ファリサイ派の人々が、夫の自分勝手な考えから妻を離縁するのは神に対する反逆であることを明らかにしたのです。

 イエスさまの指摘からは現代の私たちも充分に学ぶところがあります。 男と女は本来、互いに助け合う存在でした。 それがいつの間にか、男が女を支配する関係に変えられてしまったことを古代社会はよく投影しています。 いや古代だけではないでしょう。 一方が他方を支配する関係になれば、そこには無理解と不平等がすぐに生まれます。 聖書の男女はそうした歪んだ関係を軸に描かれているような気もします。 創世記3章のアダムとエバの失楽園の物語はその代表でしょう。 本来助け合う存在として創造されたのに、神さまに禁じられていた「善悪の知識の木」の実を食べて二人の関係が歪んでいきました。 二人が裸であることを恥ずかしく思ったというのは、信頼してすべてを見せ合うことができなくなった、ということでしょう。 そうなれば、二人は神さまの禁止されたことを破った責任をなすりつけ合うようになります。 神さまは助け合う関係を損なってしまった二人を楽園から追放されたのでした。 これは私たち人間が抱える原罪というものでしょう。 お互いに妻や夫を自分の所有物みたいに見なすようになれば、二人の関係は間違いなく破綻します。 考えてみれば十戒の最後の戒めはそういうことを言っていますよね。 「隣人のものを欲するな」という戒めです。

 出エジプト記20章申命記5章を見てください。 10番目の戒めを読んでみます。 『あなたの隣人の妻を欲してはならない。隣人の家、畑、男女の奴隷、牛、ろばなど、隣人のものを一切欲しがってはならない』。 この文言には男が主体で女は客体という構図があるように思います。 旧約聖書はこの構図にずっと支配されていく流れがあります。 王とか役人とか祭司はすべて男ですし、女性が社会の前面に立つ役割を担うことはほとんどありません。 女性預言者デボラのように、士師としてイスラエルを裁いた人物もいますが、例外的です。 イエスさまの一言はそうした流れを断ち切る役目をしています。

 心が頑ななのは何もファリサイ人だけではなく、私たち人間が生まれつき抱えている負い目みたいなものでしょう。 そこから抜け出すように生きなさい、とイエスさまは言葉をくださっているのです。 結婚は東方教会では機密として扱われますし、カトリックでは秘蹟です。 秘蹟ですから本来は信徒同士が結婚するのが原則ですが、今ではほとんどの教会が信徒と非信徒の結婚を認めますし、非信徒同士の結婚式も執り行います。 でも未だにカトリックでは聖職者の結婚は生涯にわたって認められていませんし、結婚すれば聖職を追われるのです。 結婚禁止になったのは11世紀のグレゴリウス改革以降のことだそうですから、そのあたりには頑なさを考え直す余地があるかもしれません。 私はバプテストの出身ですが、会衆派の教会では会衆である教会員の同意によって結婚が成立します。

 離婚についてもいろいろな考え方があって、例えばウェストミンスター信仰告白は、配偶者に不倫があった場合には潔白である側に離婚を認めています。 仏教やイスラム教やユダヤ教では結婚・離婚をどのように考えているのかを比較することも有益でしょう。 日本基督教団には細部にわたる規定はないのですが、私自身は結婚についても離婚についてもかなり柔軟に考えているつもりです。 夫婦当事者だけにしかわからない問題もありますし、簡単に外部から結論を出すわけにもいきません。 現代は家庭内暴力の問題もありますし、結婚生活そのものも多様化しています。 相手をどれだけ許せるかという課題も出てくるでしょう。 私たちとしては、キリスト者として、聖書から真理を汲み出すつもりで結婚・離婚の問題を考え、深めていければいいなと思っています。 当事者としても外部の者としても、裁き合うことだけは避けたいと思います。 祈りましょう。


 
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