2016.9.18

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「神の国から遠くない」

秋葉正二

申命記6,4-5マルコによる福音書12,28-34

 きょうのテキストには復活についての問答を聞いていた一人の律法学者が登場します。 「一人の」とわざわざことわりがありますので、いわゆるイエスさまの論争相手として登場する律法学者たちとは一線を画する人物だとの意味が込められているのでしょう。 実際読み進みますと、この人物は福音書に登場する律法学者としては異色という印象を受けます。 質問もきわめて真面目で、イエスさまを試してやろうなどという下心は感じません。  『あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか?』 これに対するイエスさまの応答は、「第一の掟はこれである……そして、第二の掟はこれである」という旧約聖書を引用した答え方になっています。 29〜30節の第一の掟の指摘では、申命記6章5節レビ記19章18節が結合する形で引用されています。

 ところで「掟」と訳されている語はエントレーというギリシャ語ですが、これは人間が発する命令とか戒めを意味します。 律法学者が使えば、当然「律法」を意味することになります。 律法ならば神さまの言葉ですから、そこには「戒め」の意味もあり、「教え諭す」といったニュアンスも含まれてくるでしょう。 現に口語訳聖書ではエントレーを「いましめ」と訳していました。 そういうわけで、私たちはまず「掟」という言葉のコンセプトを少し意識しておくべきかもしれません。

 神さまとモーセのやりとりを思い出せば分かる通り、律法は本来神さまと人間との生き生きとした関係から生まれ出たものです。 ところが、長い間に固定化してしまい、イエスさまの時代には日常生活の細かい部分までをも縛るようになっていました。 何しろ当時の律法は細かい生活規定が600以上もあったと言われていますので、ユダヤ人社会全体が厳しい戒律によって縛られていたことになります。 ですからそうした状況の中で、「どれが一番大事か?」などと、人間が自由に論じたり判断したりすることなど、通常では口にすることも憚られたことでしょう。 ところが、テキストに登場する「一人の律法学者」はその壁を破って、『どれが第一でしょか?』 と尋ねたのです。 この人は相当自由な精神の持ち主だったと思われます。

 イエスさまもきっと本能的にその人の自由さを感じ取られたのでしょう。 律法規定もあまりに増え過ぎれば、本来そこに脈々と流れていた神と人との生きた関係もだんだんと失われ、変質していきます。 こうした問題を現代の私たちの置かれた状況に置き換えると、私たちの情報の扱い方にある面で関係しているように思えます。 情報が溢れかえれば溢れかえるほど、どの情報が自分が人間として生きるために重要なのかを判断することは困難になっていきます。 普段から自分の中に規準を確立しておかないと、とんでもない情報に振り回されることになりかねません。 古代と現代ではもちろん入ってくる情報の質も量も異なりますが、私たちは入ってきた情報を宗教的に分析して、ものの見方とか考え方とかを整理する術を身につけておいた方がよいと思います。

 テキストの「一人の律法学者」は、日々の生活をしていく上でなさなければならないことの中でも「何が一番大切なのか」を考えていた人ではなかったかと思うのです。 そうした意識が「どれが一番ですか?」という質問につながっていったように思えます。 律法という一つの形式に縛られていては、到底そうした発想は生まれません。 さて、イエスさまはその質問に対して旧約聖書から二つの戒めを引用されました。 それが先ほど触れた申命記の「神を愛すること」と、レビ記の「自分を愛するように隣人を愛すること」です。 自由な精神を備えた律法学者を前にして、イエスさまもまた自由な精神で応えられたのです。

 申命記6章4-5節は、「シェマー(聞け)」というイスラエルの信仰告白とも言われる有名な言い方で始まります。 ユダヤ人ならば子どもの頃から朝夕唱えさせられて暗記していた言葉です。 なぜ子どもの時からそうした宗教教育をしたかといえば、それは、人生の根本に関わる課題の答えは、本を読んだり自分なりに考えたりしただけでは与えられない、というユダヤ人独自の信仰理解、信仰上の信念に関わっています。 ユダヤ人たちはまず何よりも聖書を通して、つまり神の言葉を聞くことからすべてが始まると考えていました。 人間の思想や教えからではなく、何事もまず神さまの言葉に聞いてから始めようという姿勢は、私たちも大いに注目すべき点だと思います。

 ところで、私たちが普段の生活で無意識的にまず愛しているのは家族でしょうし、人によっては仕事かもしれません。 まア、財産でもあればそれも愛するのでしょう。 人間が何を愛しているかということは、自分の人生の拠り所をどこに置いているかということに関係します。 生きるための拠り所ですから、何としてもそれらを守ったり、手に入れようとしたりします。 それは別に悪いことでもなんでもありません。 多くの人は常識的な判断をしているつもりでしょう。 そういう生き方と言いますか、普段の意識はおそらく古代の人たちでもそう変わらなかっただろうと思います。 イエスさまは、多くの人たちが、あえて言えば、何の痛痒も感じないで生きているその生き様の真っ只中に、信仰的にかなり厳しい一言をもって、鋭くお尋ねになったのではないでしょうか。

 テキストの中でイエスさまが提示されたことは、生活の中で私たちが愛しているこの世の諸々を、神さまを愛する以上に愛するかという問いでした。 この問いは人の生きる目的に関わってきます。 ご承知のように、聖書でまず貫かれている思想は、神さまが人間を造られたということです。 それは神さまが人のためにあるのではなく、神さまのために人が造られたとも言えるでしょう。 神さまは被造物である人間を愛するがゆえに創造されたのです。 だとすると、生活のあらゆる領域において人が神さまを崇め、神さまを愛し、そのみ心に従うのは道理に適う自然のことだと思います。 私たちが「あなたの人生の目的は何ですか?」と尋ねられた時、神さまを信じる私たちがイエスさまを念頭に置きながら、「神さまを崇め、とことんイエスさまと親しく楽しく交わって生きることです」と応えるのは当たり前でしょう。

 確かウエストミンスター信仰告白にそんなような文言があったように記憶しています。 日曜日ごとに礼拝を大切に守るというのは、そうした生き方を実践するためです。 礼拝を捧げることを通して、自分自身の生活の在り方を整え、神さまに自分が造られ生かされていることを確認することは、信仰者にもっともふさわしいことです。 おそらくこの「一人の律法学者」は、『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』 と昔からイスラエルに与えられている掟を、生きておられる神さまの言葉として実感して捉えていたのでしょう。

 それはイエスさまの想いと重なりました。 イエスさまの方も自由に生き生きと反応されて、申命記の言葉につなげるようにレビ記の言葉を第二の掟として引用されたのです。 『隣人を自分のように愛しなさい』。 しかし、イエスさまはこの言葉をもって、自己愛に加えて隣人愛をも要求したのではありません。 理屈抜きに自分を愛するその愛を、隣り人に向けたらどうかとお尋ねになったのです。 第一ヨハネ書簡に、『神を愛していると言いながら、兄弟を憎む者は、偽り者である』 (4,20)とありますが、イエスさまは自分を愛することと隣人を愛することを決して切り離されないのです。

 私たちは誰でも、自分を愛することは放ったらかしにしていても簡単にできます。 しかし、他人となるとそうはいきません。 なぜイエスさまは私たちにとって難しいことをあえて言われたのでしょうか。 その鍵は、イエスさまご自身の生き方に関わっています。 十字架です。 イエス・キリストの前に私たち人間は愚かな存在に過ぎませんが、その私たちをかけがえのない存在として生かすために、イエスさまはご自身の尊い命を十字架上にささげられました。 十字架の意味が本当に分かった時、私たちはどんな場合でも自分の弱さや醜さにも失望しなくなります。 イエスさまが弱く醜い存在である私たちを生かしてくださっていることを知るようになるからです。 またそれ故に、私たちは自分を大切にしこそすれ、粗末に扱うことも無くなります。 イエス・キリストの愛によって人間が生かされるということは、凄いことなのです。

 ですから隣り人とは、当然自分のお気に入りの人たちや家族だけではありません。 悪意をもっている人は避ける方がよいのかもしれませんが、私たちが出会うすべての人は愛の対象です。 ユダヤ人は隣り人にイスラエル民族という枠組みを設けてしまいましたが、イエスさまはその枠を取り払われたのです。 人種や民族や国籍といった選り分けはイエス・キリストの前では力を持ちません。 「よきサマリア人の喩え話」は端的にそのことを表しています。 私たちはおそらく産まれたままであったら、成長するに従い、差別をしたり、お互いに傷つけあったり敵対したりしながら生きる存在になっていたことだろうと思います。 けれどもイエスさまの十字架の愛は、そうした人間が越えることのできない壁をやすやすと超えてしまわれるのです。

 さて、先週のニュースに、国策として推進してきた核燃料サイクルの象徴である高速増殖炉「もんじゅ」を、政府は廃炉に向けて調整し始めたというのがありました。 使用済み核燃料を再処理してプルトニウムを取り出す核燃料サイクルの一つである高速増殖炉は諦めるということなのでしょうが、それでも同じようにウランを利用するプルサーマル発電は当面続けていくのだそうです。 どうしてもプルトニウムは手放したくないのでしょう。 「もんじゅ」に政府はこれまで1兆円をつぎ込んできました。 おまけに福島第一原発の廃炉費用についても発表がありました。 なんと試算では8.3兆円がこれから必要になるそうです。 廃炉費用はその原発を持つ大手の電力会社が自社の電気料金収入で賄うのが普通ですが、膨大な額なので東京電力は支援を国に求めました。 国もそれを受けとめて、国民に負担してもらおうということになりそうなのです。

 何と申しましょうか、政治家や偉いお役人たちには人が生きるにあたって大切なものは何か、と立ち止まって考える哲学とか思想とかがないのでしょうか。 私は日本の政治家や役人に一番足りないのは、人が生きるにあたっての哲学だと思っています。 自分と自分の周囲の人たちの利権ばかり追い求めて、他の人たちのことを考える視点がまったく抜け落ちています。 国のリーダーである大臣とか高級官僚の人たちが聖書を日々の生活の中で読んでいてくれたらなあ、とつくづく思いました。 日本だけのことでもないかもしれません。 愚痴を言っても仕方ないとは思いますが、世界でも深刻な事件はたくさん起こっていますから、世界のリーダーたちが聖書的な発想に基づいて難民問題とか経済格差の問題とかに立ち向かってくれたら本当にいいなと思います。

 ドイツのメルケルさんなど、難民政策で国民の厳しい非難を浴びていますが、「百万人を受け入れる」と言った最初の発言は偉かったなあと思います。 ああした発言は少なくとも聖書が根っこにある国でないと出てこないと思います。 当分日本の政治家や官僚の口から難民を積極的に受け入れようというような発言は出そうもないのですが、私たちキリスト者はイエスさまに促されて、できる限りの行動をしながら祈ってまいりましょう。  32〜33節の律法学者の言葉は素直でとても立派なものだと思います。 イエスさまもそれを認められて言われています。 『あなたは、神の国から遠くない』。 私たちもそう言われたいものです。

 祈りましょう。


 
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