2016.9.11

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「わたしは復活であり、命である」

秋葉正二

ダニエル書12,1-4ヨハネによる福音書11,17-27

 11章全体にわたって、「ラザロの死と復活」にちなむ一連の出来事が記されています。  表現は具体的でリアルです。 その中にイエスさまの説教とも言うべき話が抽象的に入り混じっています。 ヨハネ福音書のテーマを二つあげるとすれば、「世の光キリスト」と「生命のパン・生命の水キリスト」だと思いますが、これらのテーマを交互に用いながら、クライマックスに向けて高めていくというのが、ヨハネの福音書の構成方法です。

 例えば、少し前の9章では、「世の光キリスト」がまったく光のない世界に生きる盲人を癒すという物語が、罪の裁きと赦しという説教を伴って描かれています。 10章は「良い羊飼い」の説教で、それはつまり羊を導くもの「光」から、「羊のために生命を捨てる羊飼い」へと次第に変化していきます。 それに続く部分がきょうのテキストで、「生命」としての主イエスが、ラザロの復活により最高潮に達するわけです。 ユダヤ教の教えの中にも復活信仰があったことが分かっていますが、簡略に言うと、ユダヤ人たちの理解は神の裁きのために甦り、天国か地獄へ振り分けられる、といったものです。

 これに対し、きょうのテキストでは、復活は世の終わりのことだけでなく、現在のことでもあるということが明らかにされていきます。 そのことをイエスさまは、『生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない』という言い方で表されております。 言ってみれば、漠然とした未来の希望とか恐怖とかではなく、確固たる命が、今私たちのただ中に、移ろいやすい矛盾に満ちたこの現実の世の中の中心に存在している、という宣言なのです。 11章の初めの部分には、まずラザロ物語の第一幕として、彼の死が記されます。 姉のマルタ・マリア姉妹が愛する者の死に遭遇して、必死にイエスさまに来て頂こうとしたことが描かれています。 知らせを聞いて、すぐに駆けつけていれば間にあったかもしれません。 しかしイエスさまは二日間も同じ所に滞在して動かれませんでした。 エルサレムの地域に立ち戻ることは、危険を冒すことでしたから、それを避けるという面もあったでしょう。

 4節でイエスさまは、『この病気は死で終わるものではない』とおっしゃっておられますが、これを実証するかのように、またラザロの死を待っていたかのように、出発されました。 普通人間にとっては、死がすべての問題の最後に起こる事柄です。 何人も未だかって死を解決することはできませんでした。 私たち人間は、死を目の前にすれば、滅びを意識して自らの存在の終わり、裁きを受け入れざるを得ません。 おそらくマルタ・マリア姉妹が強い信仰を持っていたとしても、弟の死を目の当たりにした時には、私たちと同様、人間の滅びというものを感じていたのではないでしょうか。

……

 さて、イエスさまがベタニヤ村に到着される場面から第二幕であるきょうのテキストが始まっています。 二日間同じ所に滞在されたと6節にありますし、17節では「ラザロが墓に葬られて既に四日もたっていた」とありますから、マルタ・マリア姉妹が弟の病気についてイエスさまに知らせを出してから少なくとも6日が過ぎていたことが分かります。  死後それだけの日数が経過していたということは、この後イエスさまがラザロを甦らせたことが、いわゆる仮死状態からの単なる蘇生でないことを、ヨハネは告げています。 とにかく、イエスさまが到着すると、行動的なマルタは迎えに行きました。 そこには静かに座ってイエスさまの話に耳を傾けるタイプのマリアとの違いが現れています。 どちらにせよ、この二人の姉妹はイエスさまから選ばれているように思えます。 イエスさまとの会話を通じて、マルタは復活信仰を最初に口にした者として描かれていますし、マリアはイエスさまによって引き起こされたラザロの復活の直接の目撃者としてその使命を与えられることになります。

 マルタが到着したイエスさまに向かって最初に口にした言葉は、いわば愚痴みたいなものでした。 『主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに……』。 それでもすぐさま、イエスさまへ衷心からの信頼を述べています。 『しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています……』。  するとそれに応じるように、主イエスは言われました。 『あなたの兄弟は復活する』。 この辺りのやりとりは宗教的に深い部分に触れていますから、迫力と言いますか、臨場感があります。 マルタの信仰も素晴らしい……それに対してイエスさまの示される真理に、私たちも一緒に導かれている思いがいたします。

 最初に、「ユダヤ教の教えの中にも復活信仰があった」と申しましたが、詳しく言うとファリサイ派の人たちはその信仰を持っていたということで、サドカイ派などに復活信仰はありませんでした。 これはモーセ五書だけをトーラー・神の教えと捉えるか、それとも預言書や諸書なども含めるかといった旧約文書の捉え方の違いによります。 モーセ五書にはまだ「地上の命」と「あの世の命」といった二元論的な世界観が明確ではないからです。 ですから、24節のマルタの言葉、『終わりの日の復活の時に復活することは存じております』は、ファリサイ派的な、一般の人々が理解している終末における復活なら知っています、という意味でしょう。 私たちも終末といえば、すぐ連想するのは、パウロ書簡にあるように(テサロニケ 一 4,13-17)、「終わりの日にラッパの音と共にすべての者が眠りから覚めて最後の審判を受ける」といったことです。 イエスさまはマルタとの対話を通して、言わばマルタのそうした信仰−復活理解を現在化されていかれます。 未来に起こる復活を現在化するように、イエスさまはご自分の真の姿を現わされていくのです。 25節はイースターの時などにもよく引用される有名なお言葉です。 『わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は死んでも生きる…』。

 このお言葉は、イエスさまご自身が十字架を経験され、死人のうちから復活されたお方であるという福音全体のメッセージから理解すべきでしょう。 なぜならば、十字架と復活によって初めて、すべての人々に対して肉体の死を超えて永遠の命が約束され与えられたからです。 イエスさまはこのお言葉によって、ご自身がすべての人に肉体の死を超えた永遠の命を与えることができる存在であることをはっきり示されたと思います。 弟子たちやマルタやマリアたちがどこまでイエスさまのお言葉を理解していたかは分かりませんが、少なくともマルタはイエスさまを「神の子、メシア」だと告白しています。 

 私たちはすべての人間が罪人であることを知っていますが、罪人というのは、神さまとの関係のみならず、隣人との関係においてもズタズタに破れて生ける屍のような状態になっている私たち人間の姿に他なりません。 そのままでは、私たちはこの地上の歴史の中に、罪人として埋もれていくしかないのです。 イエスさまはそういう私たちに、この歴史の中で新しい命を与えて、私たちが永遠の命を生きるような生き方をさせるために、『わたしは復活であり、命である』と言われたのだと思います。 『わたしを信じる者は、死んでも生きる』という言葉もその延長線上にあります。 つまり十字架による贖罪と、死んだイエスさまを死人の中から甦らせることのできた神さまを信じる者は、たとえこの世における死を迎えるにしても、その死の状況から新しい命を与えられ、神の国に生き返らされることを信じることができる信仰を与えられるというのです。 それがまさに「ラザロの復活」という出来事で明らかにされています。

 ラザロの復活はもちろんイエスさまの復活とは違います。 イエスさまの復活にはすべての人間の命がかかっていますけれど、ラザロはあくまでも自分ひとりの復活です。 それはイエスさまの復活にあやかるものであったとは言えますが、ラザロは他の人たちと同じようにやがてこの世では死んでいくのです。 人間の罪を贖い、新しい命を万人に与えるような復活ではありません。 私たちキリスト者は、やがて肉体的な死を味わいますが、それは決定的な滅びには繋がらないことをイエスさまは示してくださっています。 私たちはイエス・キリストを信じた時に、すでに罪を赦され、救われていて、永遠の命が約束され保障されていることを感謝をもって受けとめたいと思います。 

 イエスさまははっきりと私たちに問われています。 イエスさまは私たちの決心が本物かどうか、挑戦的に質問されているのです。 『生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか』。 マルタはイエスさまの示されたことを充分理解していたわけではないと思いますが、ちゃんと答えました。  『はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであることをわたしは信じています』。 このように答えることのできたマルタは幸いです。 私たちはイエスさまに何と返答するのでしょうか?  私たちはラザロとその姉妹たちの物語を通してイエスさまが教えてくださっている真理を、しっかり掴もうと思います。 イエスさまは人の形をとって私たちの世に来られ、人としての苦しみもリアルに体験されましたが、単なる人間ではありませんでした。 神さまと等しい者としても来られたのです。 ですからマルタがイエスさまを神の子・メシアとして受け入れたということは、イエスさまが受けられたこの世の苦しみをも自分の身に負う覚悟をしたということでもあるでしょう。 それが最も厳しい形で現れれば、この世で殉教ということになる可能性も含んでいます。

 最初の弟子であるペトロやヨハネやヤコブやアンデレたちは文字通り殉教していきました。 パウロもそうでした。 でもこの世でそういう生き方ができるのは、やはり選ばれた人たちだろうという気がします。 ボンヘッファーやコルベ神父やキング牧師には選ばれた人として、特別に聖霊が働いたとしか思えません。 それでも、たとえ私たちのように弱い信仰でも、せめてマルタやマリアのように生かしてくださいと祈り求めれば、きっと神さまはそのように生かしてくださると信じています。 きょうはこの礼拝に引き続いてカンファレンスのグループ懇談があります。 今年のカンファレンスのテーマは、〈私たちの教会〉です。 教会は主イエスをキリストと仰ぐ信仰共同体です。 教会にもさまざまな試練が訪れます。 マルタは復活の信仰を最初に口にする者として選び出されました。 彼女は愛する者を失った悲しみの中で、イエスさまの導きによりキリスト者にとって一番大事な信仰を告白しています。 カンファレンスのテーマ〈私たちの教会〉に添えられた基本聖句は「エフェソ書」の4章3節です。 『平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい』。  復活の信仰に立ち帰りながら、このみ言葉を心に留めて、カンファレンスの話し合いに臨みたいと思います。  祈ります。
 

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