2016.7.10

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「パン五つと魚二匹」

秋葉 正二

申命記18,15-18 ヨハネによる福音書6,1-15

  イエスさまが5千人に食べ物を与える記事は、4福音書すべてに記されています。  ということは、背後にこの話に関わる元になった伝承があったということでしょう。  物語の舞台はガリラヤ湖です。  時節は過越祭が近づきつつある頃とあります。  イエスさまが湖の向こう岸へ渡られると、大勢の群衆が後を追った、とありますが、群衆がそうした行動に出た理由は、イエスさまが病人たちを癒された奇跡を見たからでした。  私は、群衆がぞろぞろとイエスさまの後を追う姿を想像すると、ガリラヤの民衆は本当に貧しくてどこかに救いを求めていたのだなあ、と思うのです。  当時の貧しい人々には、日々の暮らしの中に楽しいことがあるわけじゃなし、救われそうな匂いのするものへは何にでも食らいついていったのだと思います。  イエスさまもガリラヤの貧しい家庭に育たれたのですから、その辺のことは実際の生活感覚として分かっておられたはずです。  共観福音書の平行記事によれば、イエスさまは後について来る人たちに神の国の福音を語ったり、癒しのわざを施されたりしていたようです。

 ガリラヤの人々はただ貧しかっただけではありませんでした。  ガリラヤ人は、イスラエル全体から見て、たとえば、南のユダの人たちにとってみればサマリア人と同様、辺境人であって、いろいろな点で蔑みの対象だったのです。  ガリラヤの人々が群がってぞろぞろイエスさまの後を追う情景には、南の人々からは差別され、貧しさに喘いで、なりふり構わず救いを求めている人々の姿を垣間見ているような気がします。  どの時代でもどの国でも差別は起こります。  人間というのは生まれつきそうした性向を持っているのかと思わざるを得ません。  そうした差別と闘うには、普段から相当な意識を養っておく必要があります。

 しかし、イエスさまは神の子ですから、本来差別に無縁なお方なのです。  差別など突き抜けた世界に存在の根源を持っておられるからです。  けれどもイエスさまの目にはその群衆の姿がいつも焼き付いていたのでしょう。  その人たちに神の国の話をしたり、病気や怪我を癒したりという旅から旅への生活に明け暮れておられたのでしょう。  イエスさまは、徴税人や地の民と呼ばれてもっと露骨に差別されていた人たちの輪の中に入っても、何の抵抗もなしに一緒に食事したり、交わっておられました。  ユダヤ人の中に生まれ育った以上、イエスさまも子どもの時から幾度となく差別的な出来事に遭遇する体験もされたはずです。  福音書を読んでいますと、イエスさまのスタンスは少しもブレずに、常にハッキリしていたことが伝わってきます。

 イエスさまの視点は、いつでも差別される側に置かれていました。  そして言葉と行いをもって、人間に差別行動を起こさせる心の根源にメスを入れられます。  イエスさまの時代のガリラヤ人に対する差別事象も、現代の私たちの周囲にある差別事象も根源は同じでしょう。  この差別という人間が引き起こす事態を、聖書を読む際も、実生活の中でも、私たちはいつも意識しておくべきです。   さて、5節でイエスさまは、群衆の食事のことを心配される一言をもらされます。 『この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか』 。  6節によればフィリポを試みる言葉であったようです。  共観福音書ならばペトロかヨハネかヤコブあたりが出てきそうですが、ヨハネではフィリポが登場します。

 フィリポはおそらく戸惑ったことでしょう。   何しろ5千人の群衆ですから、いきなり食事のことを心配されたら、誰だって戸惑います。  それでもフィリポはとっさに頭を巡らせたようです。   『めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう』 。   彼は急いで群衆の数を目算して、必要であろうパンの値段を割り出したのです。  一デナリオンは当時の労働者の1日の賃金ですから、二百デナリオンという額は相当なものです。  今で言えば、数十万から百万円くらいの金額を提示したのだと思います。  10節に五千人という具体的な数字が出てきますから、フィリポの計算はそんなに見当はずれではなかったでしょう。  すると今度はペトロの兄弟アンデレがイエスさまに言葉を添えました。  『ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう』。

 ヨハネはわざわざ少年の持っていたパンは「大麦のパン」であった、とこだわっています。  まあ、パンといえば普通は小麦のパンです。  今でこそ米でもライ麦でも何でも、いろいろな種類の穀類からできるパンが売られていますが、当時のパンの主流原料は小麦です。  それをわざわざ大麦パンと言っているのは、おそらくヨハネは群衆の背後にある貧しい生活状況に触れたのでしょう。  アンデレがわざわざ少年をイエスさまに紹介しているのは、もしかすると事前に少年の方から、  「これをイエスさまに食べてもらってください」と差し出されていたのかもしれません。  とにかくイエスさまは、人々を座らせると、少年が持っていたパンを取って、感謝の祈りを唱えてから、分け与えられました。  『また、魚も同じようにして欲しいだけ分け与えられた』 とあります。  それに続いて12節には、『人々が満腹したとき』 とありますから、人間には理解できないような奇跡が起こったのです。

 おそらく多くの人は、こうした奇跡に出くわすと、何か嘘のように思うことでしょう。  私なども高校生の時、初めてこの物語を読んだ時、「何だこれは、そんなことあるわけないだろう」と思ったものです。  つまりどのようにしてパンが増えたのかだけに気をとられたのです。  でも今はそうではありません。   科学万能主義に私は立っていませんし、生命の神秘というものがあると思っていますので、私たちの生活と環境とには、科学的に説明できる事実とできない事実とがあると思っています。

 特に生命の神秘については説明できないと思っています。   私には分からないことがたくさんあります。  どうしてある樹木からリンゴがなると思えば、他の樹木からはミカンがなったり、桃やブドウがなったりするのか……、そういう自然界の妙があまりにもたくさんあるので、この世は生命の神秘で満ちている、と自覚しています。  遺伝子構造まで分析する時代になっても、なぜ世界中の果実の樹木がいつもバランスよく存在し続けているのか……、全世界の人口にしても、近代以降に爆発的に増えたわけですが、どうしていつの時代にも男女の比率がほぼ半数づつ保たれているのか……、そんなことも考えたりします。

 そもそもこの「五千人のパン」の話は最初に申し上げましたように、4福音書すべてに載っています。  元になった伝承があったろうと申し上げましたが、それだけでなく、このイエスさまの奇跡は、弟子たちにとってよほど印象が強かった出来事だったに違いないと思うのです。   同時にそこで彼らが受けた感動と共に、彼らの心にはいつまでも忘れられない意味深いものが残された、ということでしょう。  そもそもイエスさまー救い主イエス・キリストは、生命の根源である創造主なる神さまを示すためにこの世に誕生されたお方です。   ということは、イエスさまが地上のあらゆる物質を支配しても何の不思議もないということです。   私たちは一体どのようにパンや魚が増えたのだろう、ということのみに気をとられますけれども、本当のこの物語が示している意味をしっかりつかむことこそ大事だろうと思うのです。  なぜ弟子たちは、福音書の記者たちは揃ってこの奇跡の出来事を伝えようとしたのかを考えることが大切です。

 まあ、そうは言いましても、どうしても奇跡のことは引っかかるという方は、無理にこじつけた解釈などしないで、これはこれでそのままにしておいて、イエスさまの教えにだけ集中して聖書を読み続ければよいと思います。   そのうちきっとイエスさまの人格に触れて良き導きがあると確信しています。  その時にはイエスさまの奇跡も違った角度からその事実と意味とが分かり始めるはずです。  14節を見ると、人々はイエスさまのなさった奇跡を見て、『まさにこの人こそ、世に来られる預言者である』 と告白するに至っています。   そうなると、中にはイエスさまを自分たちの王として担ぎ上げようとする人たちも出てきます。   まあ確かに「ユダヤ人の王」が主題になって、共観福音書では「神の国の王」としての位置付けがありますし(5,19-30)、このヨハネ福音書でも理想的な意味での「イスラエルの王」(1,4912,13)ですが、しかしそれは、群衆が自分たちの何かの利益のために担ぎ上げようとする「王」ではありません。

 ここまで来ると私たちも、カナの婚礼におけるブドウ酒の話をはじめとしてたくさん記されている供食のしるしは、すべてイエスさまの十字架の贖罪を指し示すパン裂きによって果たされる過越祭の置き換えであることに気付きます。  そういう意味では、イエスさまは確かに、来たるべき神の国における食卓の主権者であり、王と言えるでしょう。  それともう一つ、私はこのテキストを読んでいて、復活のイエスさまの姿を思い出しました。  この福音書の21章には復活されたイエスさまが、弟子たちに現れる記事があります。  漁に出たペトロに向かって岸辺のイエスさまが、『子たちよ、何か食べる物があるか』 と言われると、ペトロたちは、『ありません』 と答えました。  するとイエスさまは船の右側に網を打て、と指示されます。  そして網が引き上げられないほど魚がかかった時に、初めて弟子の一人が『主だ!』 と気付くのです。  陸に上がってみると、炭火が起こしてあって、その上に「魚が載せてありパンもあった」 と書かれています。  イエスさまは、『さあ、来て、朝の食事をしなさい』 と言われて弟子たちと食事をするのですが、食後、ペトロにこう言われました。   『わたしの小羊を飼いなさい』 。  つまり、ここから弟子たちの活動、教会の建設がスタートするのです。  炭火の上のパンと魚が私たちの教会の原点であることがわかります。  イエスさまがどんな人をも差別しないで、共に食事をされたことがどれほど人間にとって大切なことか、私たちは教えられています。   たった五つのパンと二匹の魚が、五千人の人どころか、世界中の人の心を豊かにすることを、私たちはそういう奇跡を、イエスさまから示されていると思います。  祈ります。


 
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