2016.5.1

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「神のみ心が行われる社会」

秋葉 正二

イザヤ書42,1-4; マルコによる福音書1,14-15

 イエスさまの宣教活動は、共観福音書によれば洗礼者ヨハネ逮捕後に開始されています。ヨハネの洗礼運動は相当激しかったようで、人々を眠りから覚まさせました。続々と人々が集まる様子を見て、最も怖れたのは時の権力者だったでしょう。権力者という存在は、権力掌握の絶頂期には誰よりも強く安泰だという意識の中で安坐しますが、少し時が経てばやがて自らの力が失われていくことを感じ始めるものです。歴史が証明するように、権力は必ず翳りを迎えるからです。2010年から2012年にかけてアラブ世界において発生した、前例にない大規模反政府デモを主とした「アラブの春」と呼ばれた騒乱がありました。チュニジアから始まって、またたく間にアラブ世界に波及しました。時の政権に対する抗議・デモ活動はその他の地域にも広がりを見せ、リビアで長年独裁を築いていたカダフィ大佐が殺された時には、「ああ、やっぱり」と思ったものです。民衆の決起もその場限り的要素がありますが、結局、権力は終焉の時を迎えます。

 さて、洗礼者ヨハネが活動していた時の地域権力者はヘロデ・アンティパスというガリラヤとペレアの領主でした。ヘロデ大王の息子の一人です。この人は評判のよくない人物で、その在任期間がほぼイエスさまの生涯と重なります。洗礼者ヨハネはこのヘロデ・アンティパスの結婚の不義を糾弾して首をはねられました。その話は6章に出てきます。とにかく、自らの命をかけて権力者を批判したというのはヨハネの凄さでしょう。オスカー・ワイルドの戯曲サロメやリヒャルト・シュトラウスのオペラの題材になっていますから、皆さんもご存知だと思います。洗礼者ヨハネのように正しいことを指摘した人が捕らえられて殺されてしまう世界は、闇の世界です。人の世にはどの時代にもサタンが支配する闇の世界が存在します。人間の数え切れない罪が大手を振って歩いている時代に、やはりイエスさまも生きられたのです。

 イエス・キリストはそうした闇の世に登場されました。14節に「ヨハネが捕らえられた後」と明記されていますので、福音書記者マルコは「洗礼者ヨハネとヘロデ・アンティパスの時」が同時に「イエス・キリストの時」であることを意識したと思います。マルコは両者にくっきりと境界を設けてそのコントラストを強調しました。もちろん、イエスさまの登場をこの時代に設定されたのは神さまに他なりません。権力の闇が支配するその世に、闇を引き裂く力として神さまは洗礼者ヨハネとイエスさまを登場させたということになります。しかし洗礼者ヨハネの登場だけでは充分に始まらなかった新しい力が、イエス・キリストによって始まり、闇が完全に引き裂かれたことをマルコは宣言したのです。2節にあるように、洗礼者ヨハネは荒野で叫ぶ激しい偉大な声でした。だからこそ多くの人々がその声に共鳴し、彼の運動に参加したのです。

 けれども結果的にヨハネの運動は連続したものにはなりませんでした。ヨハネが逮捕されたことにより、運動はストップしてしまったからです。マルコはその時を捉えて、「ヨハネの時」と「イエスの時」の線引きをしています。「イエスの時」からはまったく新しい時が始まる、というのが記者マルコの主張です。考えてみますと、聖書の物語の流れ方というのは、何と言いますか、ある時点に一線を画して、エポック・メイキング的な出来事を浮き出させているなと思わせます。例えば、モーセによる荒れ野の40年の物語などもそうではないでしょうか。

 モーセは苦難の40年を導いた偉大な人物ですが、約束の地を目の前にして、民を導く責任はハッキリとヨシュアに委譲されていきました。それは「メリバの水」の出来事などで、既に主なる神さまは伏線を引かれています。申命記の結末はモーセの死で終わっていますが、「メリバの水」も「モーセの死も」実は神さまがそれぞれの出来事に一線を引かれて実現させたエポックであったという気がします。私などは、あれだけ苦労して偉大な業をやり遂げたリーダーが、約束の地を目の前にして天に上げられてしまう結末は、道理に合わない無理無体だ、と思ってしまいます。しかし、あのようなモーセの死に方と、きょうのテキストの背後にある洗礼者ヨハネの死に方とに何か共通点があるように思うのです。神さまがある時点に一線を引かれると、そこは何事か重要な事柄のエポックとなるのです。

 洗礼者ヨハネは残念な死に方をしましたが、それは神さまが引かれた一線のエポックだったはずです。「そこで洗礼者ヨハネの活動はまっとうされた」と、神さまは時の流れに一線を画されたのです。そこを境にして、イエスさまのそれまでにはなかった活動がスタートしました。それはまた、神さまの時の支配と呼んでもいいと思います。時を支配するのは人間ではない、これを聖書は要所要所で確かめるように宣言しています。時の支配をどこに感じるか、これは私たちにとって非常に重要です。今私たちが生きる日本社会の時は、おそらく天皇制による支配と言えましょう。平成なる元号が幅を利かせています。

 元々元号は中国の時の刻み方ですが、日本に伝わって来て天皇制と結びつきました。元号法が成立した時の総理大臣は大平正芳さんでした。教団の高松教会で受洗したキリスト者です。彼は党内勢力を相手に苦労したはずです。国会答弁などでも、決して協調などはせず、使うも使わないも自由だと答弁していましたが、彼の思いとは裏腹に、徐々に公文書は元号で統制されるようになっていきました。私はキリスト者として天皇制に支配されたくないので、普段元号をできる限り使いません。結構不便なことがあります。平成何年かとっさに出て来ないので、書類を書いている時に「あれっ、平成何年だっけ?」と役所の係員などを戸惑わせたりしています。とにかく私は、自分が歩む人生の時を神さま以外に支配されたくないので、極力使わないようにしています。

 時の支配者は人間ではなく、聖書の神さまです。その神さまのご計画の中で、ナザレのイエスと呼ばれた人の活動が、ガリラヤからスタートするのだ、とテキストの14,15節は宣言しています。洗礼者ヨハネはマタイ福音書3章でこう言っています。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、誰が教えたのか……斧はすでに木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」。このヨハネの叫びは人々に届きました。良心をえぐる激しい叫びであったればこそ、人々はそれに希望をつないだのです。エリヤが正しい預言の声をもってアハズ王に勝利したように、ヨハネも時の権力者に勝利するだろう、と人々は期待したのかもしれません。実現すれば、それは神さまが正義の側についていてくださる証拠になりますから。でもエリヤの時のような奇跡は起こりませんでした。この世的に言えば、バプテスマのヨハネは敗れたのです。イスラエルの希望は絶たれた、と感じた人も多かったでしょう。

 人間は自分が生きる時代の苦悩やら焦燥を他人事と考えることは出来ません。どの時代にも同じような課題があります。現代という時代の悪と退廃、教会の元気のなさ……教会は静かに孤高を保っているかもしれませんが、新しい命への希望を起こすにはこのままではダメでしょう。いささかショッキングな題ですが、今度戒能牧師が「日本基督教団は生き残れるか?」という講演をされることが決まっています。掲示板をご覧ください。私たちは自分が生きる時代の要求だけを考えますが、きょうのテキストが明らかにすることは、言わば時代を超えた要求なのです。どの時代にも、どんな要求にも根本的な知恵と力を与えてくれる真理、それがイエスさまによってガリラヤで開始されました。私たちが伝道と呼ぶ活動のルーツとも言うべき宣教活動です。目に見える単なる時代的要求だけに縛られない真理、それがイエスさまの新しい活動には満ち溢れています。「時は満ち、神の国は近づいた」。この一言がすべて、と言ってよいでしょう。

 イエスさまはこの言葉をガリラヤ活動の第一声とされました。ガリラヤはヘロデ・アンティパスのお膝元ですが、ヘロデの権力と直接対決することのためだけにガリラヤに行かれたわけではないでしょう。ガリラヤに行かなくても、どこにいてもヘロデとの対決はずっと続いていくわけですから。マタイ福音書4章の表現によれば、この第一声は「預言の成就」ということになります。イザヤ書で「異邦人のガリラヤ」と呼ばれていた地域は、蔑まれた地でした。そういう地で神の国の福音が預言通り、最初に宣言されたと、マルコも預言の成就を受けとめています。ここで言われている時は、神さまの計画のうちに定められていますが、それは少しづつ近づいて来るにつれて人間の側の準備も整っていく、という時ではありません。神さまの時は人間には隠された中で熟すのであって、状況が少しづつ変化していくといったものではないでしょう。「時が満ちる」という表現は、旧約聖書にもよく出てきます。「約束の年月が満ちた」というような言い方で出てきます。それは一定期間が過ぎることを表しています。

 時と言えば、新約ではクロノスとカイロスが出てきますが、ここで使われている時はカイロスです。ギリシャ神話ではクロノスの神とカイロスの神が登場して、その意味付けは新約聖書とは異なるのでごっちゃにしないことです。新約聖書のカイロスは、言わば聖書の神さまの計画の中で定められている終末の救いの時と言ってよいでしょう。ですから「時は満ち、神の国は近づいた」と言えば、神の国は神さまが王として支配する国なので、そこにある神さまの栄光・正義・平和・救いなどが実現するよ、あるいは既に始まりつつあるよ、ということになります。イエスさまはガリラヤ出身ですけど、当時のユダヤ人は神さまの支配を終末論的に理解していたと考えられるので、マルコもこうした表現にしたのでしょう。私たちも現代という時の中で、イエスさま時代の人々と同じように、「今という時は満期になったよ、まもなく永遠の代が始まるよ」とイエスさまから言われているのです。すぐそこに神の国はある、それを感じるか感じないかは私たちの信仰の在り方によります。

 巷のニュースに耳を傾けると何か希望のないことばかりが入ってくるような気がします。政府の改憲に向けた動きをどうお感じになっておられますか? もう戦争は嫌だ、と戦後すぐに生み出された平和憲法を今の政府はまるで大切にしようという気はないようです。国会という組織で多数を占めているのですから彼らは実際に力を持っています。与党の改憲草案が今論議されています。緊急事態条項などが決められていけば、権力者はそれを意のままに使うという気がします。どうしたらこうした動きをひっくり返せるのか、と私などはすぐにジリジリしてしまうのですが、本当はもっと根本的なところに立って物事を見ていかなくてはならないな、ときょうのテキストを読みながら思わせられました。

 キリスト者には神の国・神の支配がすぐそこに来ているのです。どんな事態が来ようが、私たちがなすべきことは、まず神さまの前に悔い改め、向きを変えて神さまに立ち帰り、イエスさまがもたらしてくださる福音・喜びの知らせに信頼して歩み続けることです。この世に平和が必要ならば、何年かかろうとも、神さまは私たちにそれを実現させてくださいます。確信を持って、やるべきことをやっていきましょう。そういう態度が、今復活されたイエスさまから私たちが示されている歩み方ではないでしょうか。キリスト者が希望を失うことはありません。祈りましょう。


 
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