2015.10.25

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「敵を愛すること」

秋葉正二

出エジプト記23,4-5; マタイによる福音書5,38-48

 紀元4世紀、キリスト教は国教の地位を獲得しました。 このことは平和に関する教会の態度に重大な変更をもたらすことになりました。 3世紀までのキリスト教は言わば絶対平和の立場です。 「異端反駁」を著したローマ人司祭ヒッポリソスは、教会の秩序として信徒がついてはならない職業として兵士を挙げています。 これは兵士になれば敵を殺すことがあり、殺すなという戒めを破ることになるからでしょう。 けれども国教になれば状況は一変します。 国家に忠誠を尽くすこともキリスト教の任務になりますから、ローマ帝国という武力で相手を征服してきた国の軍事力を承認しなくてはなりません。

 国教になって以降のキリスト教の歩みを振り返れば、武力行使は当たり前となっていきました。 中世の十字軍然り、宗教改革も教派の対立から幾つもの戦争を引き起こしています。 そうした場合、聖書が引き合いに出されて戦争の後押しをすることになります。 この流れは今に至るまで続いていると言ってもいいかも知れません。 きょうのテキストを読んでいますと、何だかキリスト教も平和に関してはフラフラした態度を取ってきたのだな、と思わされます。 イエスさまの言われたことをちっとも守って来なかったではないか、と思うのです。 しかし私たちは平和の問題を過去の教会の態度を批判することだけではなく、私たち自身の問題として受けとめなければ、主体的に信仰生活を歩んでいるとは言えないでしょう。 過去のキリスト教会が戦争に加担してきたことを理由に軍事力を肯定するだけであれば、あまりに情けないことです。 

 とりわけ日本基督教団が先の大戦中にとった態度を反省すれば、一層厳しい目をもって平和の問題に向き合う必要があります。 とは言っても、過去のキリスト教をすべてマイナスイメージで捉える必要もありません。 中世以来、細々とした流れには違いありませんが、平和のために努力してきたグループもあります。 ボヘミヤ兄弟団とかワルド派とか、メノナイトやクウェーカーなどです。 いわゆる宗教改革左派の流れです。 彼らが平和をつくりだそうと努力してきた大きな拠り所が、きょう取り上げている「山上の説教」でした。 39節に『悪人に手向かってはならない』とあり、44節には『敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい』とありますが、これを一体守ることができるだろうか、と思ってしまうような厳しいイエスさまの言葉が並んでいます。 右の頬を打たれたら左の頬も差し出せなんて言われたら、元気な人はそんなこと出来るか、と言うに違いありません。 しかし「山上の説教」と真正面から向き合わなければ、イエス・キリストの平和に触れることはできません。

 私はイエスさまの言葉を自分の心の中の問題として、個人的な領域に限定してはならないと思っています。 キリスト者の政治的責任をこの教えを軸として、社会的な視野をもって捉えることが大切だと考えます。 イエスさまの厳しい物言いには、私たちを平和に向けて動かしていくエネルギーが込められているのではないでしょうか。 イエスさまの言葉を単なる個人的倫理として片付けてしまったら、イエスさまの精神を受け継ぐことはできないに違いありません。 

 そこで「山上の説教」の読み方が問題となります。 教会内で学ぶ場合、イエスさまの教えはまず倫理的になりやすいという点が挙げられるでしょう。 教会では普段から、一人一人の在り方として謙遜であれというような教えが論じられていますから、平和を追求する場合でも、世間一般のこととしてよりは、自分が所属する教会内で通用する観念的な理想としての平和になりやすいのではないでしょうか。

 そうでなくても、教会には政治的思想的にいろいろな人たちがいますから、全体に通用するような、誰に対しても齟齬を来たさないような結論になりやすいと思うのです。 制度としての教会が一旦成立すると、倫理は教会内的なものとして処理されやすいのです。 平和に関する関心が高まったとしても、関心全体が教会内に限定されるような方向に向かいやすいのです。 それでも代々木上原教会は平和を目指す政治的スタンスも創立以来かなりはっきり出ていると思いますから、そんなに心配はしていません。 しかし教会によっては、右の傾向も左の傾向もまったく出さないように配慮するところがかなりあります。 右翼も左翼も仲良く共存するような教会がいいのか、それとも旗色をある程度鮮明にする方がいいのか、悩んでいる方もおられるかもしれませんが、私ならば後者を選びます。 少なくとも平和に関する態度は、はっきりしなければならないと考えます。 そうしなければならないと考える理由は、イエスさまの生き方に求められるのではないでしょうか。

 イエスさまの周囲には大勢の人たちが集まりましたが、12弟子たちをはじめとして、とてもオープンです。 何せその中から裏切り者が出てしまう程オープンなのです。 熱心党であろうと誰であろうと出入り自由です。 ですからイエスさまの意識は、その出入り自由な集団の一人ひとりに向けられているわけで、特定の入会規則を備えたような集団の個人を対象にはされていないと思います。 まあそうは言いましても、山上の説教は聖書学の立場から言えば、マタイが属する教会で編集されたものということになりますから、ある程度の教会の枠組みは影響しているでしょう。 しかしそれでも、ここに記されているイエスさまの言葉には生き生きとした力がみなぎっていることを私は感じます。 

 ところで話は変わりますが、先の大戦で最後の海軍大将を務めた井上成美という人がいます。 この人は山本五十六や米内光政に近い人ですが、ずっと聖書を読み続けていた人でもあります。 山本五十六も幼い頃、姉に連れられて教会学校に通い、生涯聖書を読み続けた人ですが、井上成美の聖書の読み方は残された遺品の聖書の傍線や書き込みから見て、いい加減なものでなかったことは確かです。 彼は海軍兵学校の校長や横須賀鎮守府の参謀長などを歴任して最後は海軍大将を務めましたが、開戦には反対していますし、終戦工作を1日も早くと主張しました。 またこんな言葉を残しています。 「国軍の本質は、国家の存立を擁護するにあり。他国の戦に馳せ参じるが如きは、その本質に違反す」。 何だか「集団自衛権行使反対」にも使えそうな言辞です。

 まあ軍人には違いありませんから当然限界もあります。 しかし山本五十六も井上成美も聖書を読み続けていたので、当然「山上の説教」も読んだはずです。 このことは彼らが開戦に反対したり、三国同盟に反対したりしたことと無関係ではなかったと私は考えています。何を言いたいかと言えば、イエスさまの言葉、その生き方がそれに触れた人々に平和志向を与えるということです。 井上成美は戦後軍人恩給も辞退して、赤貧の生活を送りました。 近所の子供たちに英語を教えて貧しい生活をまっとうしました。 戦後自衛隊が発足した時、かつての教え子や後輩たちが幹部職に就いた時、「恥を知れ」と言って激しく批判しました。そういう生き方も私は聖書を読んだことと関係していると考えています。 

 ところで、イエスさまの言葉や生き方は常に周囲の人たちに肯定的に受け取られたわけではありません。 イエスさまは社会で置き去りにされていたような弱者への眼差しをもって物事を考えられましたから、社会の強者にとってイエスさまの言辞はまことに心に刺さるようなものだったに違いないのです。 ですからイエスさまの平和に関する言葉、きょうのテキストに示されているような平和に向けての厳しい言葉は、社会的地位の高い人々やリーダーと目されている人たちにとっては、はなはだ都合の悪いものだったはずです。 イエスさまの平和に関する言葉というのは、「ああ、これは教会内の平和論だ」というように、遠い所から眺めると美しい言葉として納まってしまいます。 アメリカの軍人などはそんなふうに「山上の説教」を読んでいるのではないだろうかと、つい思ってしまいます。

 しかしイエスさまの生き方に忠実に従おうとして「山上の説教」を読めば、それは自分自身に関わる厳しい言葉となります。 そこで私たちがイエスさまに促されて「平和をつくりだそう」と主張する際には、実際にそのように歩むことが決して楽なことではないということをくれぐれも自覚しておく必要があります。 きょうは宗教改革記念の礼拝なのですが、何事も神さまの前に正しいと思ったことを遂行するのは楽ではないのです。 ルターだってカルヴァンだってある状況下では命がけでした。 平和をつくりだすことも例外ではありません。 「戦争法案」反対のデモに何度も出かけると結構疲れますが、そんなことはその意味から言えば、そんなに辛いことの部類には入りません。 私はそう自分に言い聞かせながらデモに参加しました。 若い人はまだ平和への闘いを継続していますから、私もやめてしまうわけにはいきません。 せめて皆さんも11月3日の夕方5時半からの新宿西口集会くらいは参加してみてください。 若い世代の真摯な姿勢に出会うことができます。

 それにしても45節言葉は凄いものです。  『父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる』。 この言葉、皆さんどういうふうに読んで来られましたか。 これは神の子だけしか口に出来ない言葉でしょう。 私は、私たちが普段何気なく善人・悪人と分けて口にしてしまうことの恐ろしさを示される言葉だと思いました。 

 誰でも自分を善人と見なすのは楽ですし心地よいものです。 誰かを「アイツは敵だ」と見なせば、その人は自分にとって自動的に悪人の部類に入れられます。 しかし、きょう問題としている平和を考えるならば、私たち自身の平和志向が本物であるかどうか問い直すことは結構難しいことだと思うのです。 たとえば、私たちは一度自分も戦争加担者だと考えてみてはどうでしょうか。 東条英機首相が戦争責任者だと断罪して終わるのではなく、自分もその末裔だと考えてみるのです。 するといろいろなことが見えてくるような気がします。 戦争中、隣組という町内会組織がありました。 普段は何事もなく付き合っていた者同士が、ひとたび戦時体制に入るや、お互いを見張る密告者になりました。 

 今羊の顔をしていても明日は狼の顔になるかも知れないという可能性を私たち自身も持っているのだという自覚が必要です。 自分の解釈で善人・悪人を決め付けられない弱さを、すべての人間が持っていることを神さまはご存知なのです。 イエスさまはそうした人間の弱さに触れられて『悪人にも善人にも太陽を昇らせ』とおっしゃったと思うのです。

 自分を愛してくれる人を愛することを私たちは何も気づかずに普段しているのです。
「そうではないよ、神さまの下でもう一度自分の姿を見直してみなさい」、そうイエスさまは言葉をかけられているのではないでしょうか。 平和をつくりだすことは難しいことです。
 でもしっかりイエスさまの生き様を見ていれば、誰にでも出来ることでもあります。  平生からしっかり聖書を読み、イエスさまが示してくださった平和への道を進んで行きたいと願っています。 祈ります。


 
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