2015.7.26

音声を聞く(MP3, 32kbps)

「地の塩、世の光」

秋葉 正二

イザヤ書60,1-2; マタイによる福音書5,13-16

 どうやら梅雨も明けたようで、これからしばらくは暑い日々が続きそうです。 来週8月第1主日の礼拝を、日本基督教団は「平和聖日」と定めています。 その発端は、1962年の教団総会に西中国教区が「平和聖日」制定の建議を提出したことでした。 西中国教区は被爆地「広島」を抱えておりますので、原爆をもたらした戦争への反省を殊の外強く持っていたのです。 キリスト教の重要なキーワードの一つは「愛とゆるし」ですが、先の大戦がこの「愛とゆるし」に背く出来事であったことを教団も認めて、「平和聖日」制定となりました。 キリスト教にあまり好意的でない人たちからは、今だに「アメリカはキリスト教国だろう、そういう国がなぜ原爆なんか落としたのだ」と言われます。 この指摘は的外れでは済まされません。 アメリカだけでなく私たち日本のキリスト者にも向けられた批判を含んでいます。 私たちはどう答えたらよいのでしょうか。

 もう20数年前になりますが、インドネシアのチパナスで開催されたCCA(アジアキリスト教協議会)の宣教会議に出たことがあります。    分団ではアジアのいろいろな国から来た人たちと交わりや協議の時を持つのですが、当時その多くのアジアの国々からの参加者が「日本に原爆が投下されたので私たちは解放された」と語っておられたことに私は強いショックを受けました。 確かに言えることは、ひとたび戦争が起きてしまえば、政治的判断が優先されることになり、たとえアメリカがキリスト教国であっても宗教的教えは二の次にされ、政策の方向はイエスさまの教えの核心からはどんどんはずれて行くということです。

 さて、そのイエスさまの教えの代表的なものが、きょうのテキストに出てきた「地の塩、世の光」という考え方です。 キリスト者が戦争の問題に関わるとすれば、イエスさまのこの教えを守り切れるかどうかということになるでしょう。 来週は皆さんと一緒に日本基督教団の「戦責告白」を読み上げますが、その中の一節に 『「世の光」「地の塩」である教会は、あの戦争に同調すべきではありませんでした』 とあります。 そこには「世の光」「地の塩」としてしっかり地に足を着けて歩んでいれば、少なくとも積極的な戦争への協力はせずに済んだのではないか、という懺悔の思いが表明されていると思います。 イエスさまは 『あなたがたは地の塩である』 また 『あなたがたは世の光である』 とおっしゃっていますが、これはイエス・キリストの弟子である教会・キリスト者が「地の塩」とされ、「世の光」として働くことができるという意味でしょう。 塩はパンを焼くにしても薬味に使うとしても、あくまで用いるのは少量です。 多量の小麦粉にもほんの一盛です。 ですからイエスさまが塩を比喩として用いられたのは、キリスト者が人間生活において、たとえ「少量のもの」「少数者」であっても、それは「なくてはならぬもの」なのだと言われたのです。 日本社会では教会は明らかに少数者ですが、どんな小教会であっても、この国の、この社会のかけがえのない良心として働くことが教会の使命ですよ、とイエスさまは教えられたのです。

 創世記18章にあるアブラハムの「ソドムのための執り成し」の話を思い出します。 アブラハムが神さまと交わした祈りは、ソドムの町に50人から10人の正しい者が存在するゆえに、罪の町ソドムを滅ぼさないという神さまの保証を引き出しました。 たとえ少数でもこの社会に必要ならば、神さまは滅ぼさないのです。 日本の教会はそうした少数者としての意味を担いつつ存在していることをもっと私たちは自覚すべきでしょう。 「地」とか「世」という表現はいわばこの世のすべての人たちを指していると思います。 先ほど申しましたように、イエスさまは 『あなたがたは地の塩である』 また 『あなたがたは世の光である』 と言われているのです。

 私たちキリスト者の役割は、多くの人々の中で「塩」として働くことです。 「塩」はあくまで比喩ですからその表現にはもちろん限界があるでしょう。 そこで、「塩」に一種のエネルギーのイメージを重ねてはどうでしょうか。 創造主なる神さまが常に根源のエネルギーを放射してくださっていて、それが私たちの世界すなわち「地」にも届き、それによって私たちキリスト者が生き生きと活動し始める時、私たちは「地の塩」になります。 人間は食物や水を身体の活力源としますが、その際、少量の「塩」が必須のものとして身体に補給されるというわけです。 大本の生命のエネルギーが私たち人間の霊に充電されます。 私たちが生き生きとして、聖霊に満たされていると感じる時はきっとそういう時です。 信仰者は聖霊に満たされていることを感じることができます。 私たちは「きょうは元気です」などと挨拶を交わし合いますが、そういう時、まさに「元気」という「気」を感じているのです。 英語のスピリットは「精神」などと訳されますが、この場合、「霊・気」と訳す方が近いように思います。

 イエスさまは 『塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう』 とも言われていますが、パレスチナの人がそう言われればすぐにピンと来たのです。 日本とは異なり、あちらでは塩は岩塩から取ります。 その岩塩の中には外見は岩塩でも、雨によって塩分が抜けているものがかなりあったようです。 そうなれば「塩」は物を清めたり、腐るのを防いだり、溶けて味を付けたりすることができなくなります。 しかし本来の塩ならば、それこそ塩加減一つで持ち味を十分に発揮できます。 キリスト者が塩ならば、その塩加減一つで、言うなれば自分の見える形は失っても「地の塩」として社会のために浸透していくことができるのです。 私たちキリスト者が「塩」として「地」で働くためには、政治活動にしろ経済活動にしろ、それこそ沢山あるわけですが、イエスさまが最終的に指摘されたことは、そうした目に見える物質的な世の中の仕事を進めるにしても、神さまからいただくエネルギーを充電するという霊的な作業をおろそかにしてはならないということでしょう。 意識は常に霊的な世界に向けつつ、この世の事柄に専念しなければなりません。 教会がもし戦争に反対できないとすれば、霊的な作業を等閑にしている時でしょう。

 イエス・キリストの愛とゆるしの核心からずれて行くと、たとえキリスト者といえども、この世の論理だけで物を言い、実行するようになると思います。 「主に従わない者は俺がゆるさない」とか「私に逆らうことは主に背くことになる」とか、言い方は信仰的に装ったとしても、内実は権力の濫用となります。 不誠実な組織選挙を繰り広げた挙句、過半数をわずかに上回る議員の指示で教団という組織全体を牛耳っている人たちの姿を見ると、私は日本基督教団がどこか愛とゆるしの核心からずれてしまっているように感じます。 おそらくこんな状態では現在世を揺るがしている「戦争法案」などへも教団としてきちっと対処できないでしょう。 明確な批判声明を公にしている仏教教団などに対しても恥ずかしい限りです。 「世の光」については直接言及しませんでしたが、基本的には「地の塩」と同じことが言われているように思います。 キリスト者が「光」の働きをするのは、自分たち自身のためではありません。 私たちキリスト者を取り巻く人たちのためです。 16節にあるように、何よりも人々が 『天の父をあがめるようになるため』 です。 「ともし火」が役立つのはその光が周囲に浸透するからです。 真っ暗闇でもそのわずかな光が周囲の状況を変えるのです。 塩も光もそれが働く場所が重要です。

 最後にもう一点、「地」と「世」には伝道のモチーフも込められていることに触れておきます。 どういうことかというと、福音書を書いたマタイは新しく出発した自分も属する教会のことを考えているのです。 彼は教会に希望を託しています。 「教会はこれからの社会を変えて行くのだ、多くの人々がイエス・キリストを信じるようになり、この世の多くの理不尽が解消されて行くのだ」 と、キリスト教という信仰世界の可能性を、イエスさまの言葉の中に見出しています。 21世紀の現代、私たち教会に連なる者はどのくらいマタイが仰ぎ見たマボロシをつかんでいることでしょうか。 今世紀、キリスト教は生き残れるか、などということが議論される昨今ですが、私たちはもっと確信を持つべきです。    信仰を確信に変えるそうした力を、イエスさまの言葉一つ一つが秘めています。

祈りましょう。

 
礼拝説教集の一覧
ホームページにもどる