2015.7.5

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「わたしは罪深い者なのです」

秋葉 正二

創世記35,9-15; ルカによる福音書5,1-11

 多くの皆さまが幾度となく読まれてきたテキストだと思います。ガリラヤ湖畔に立たれたイエスさまの目に映った情景が描かれています。イエスさまの話を聴こうとして、群衆が押し寄せて来ました。その時、イエスさまの意識は群衆にではなく、岸にあった二艘の舟に向けられています。そこでは漁から帰った漁師たちが舟から上がって網を洗っていました。

 漁師と言いますと、いつも舟の上で魚を獲っているイメージが脳裏に浮かぶと思いますが、それは漁師の仕事の一部分に過ぎません。私が以前牧会しておりました南九州の志布志という町は、漁師町でもありました。町の一画に漁港がありまして、魚の水揚げがあり、セリが行われる建物があります。その付近には、漁師町特有の風景が見られました。あちこちに天日干しの魚などが干してあるのです。また漁師たちがよく小さな椅子に座って網を繕っていました。私はそんな風景を見ながら、「ああ、こうした準備があって初めて漁に出られるのだな」と思ったものです。

 イエスさまも普段からそうした風景をご覧になっていたことでしょう。その日、もう漁は終わっており、次の出漁に備えて漁師たちは網を洗っていました。二艘の舟のうち一艘はシモンの持ち船であったと書いてあります。シモンはもちろん使徒ペトロの本名です。イエスさまはそのシモンの舟に乗り込まれて、少し岸から漕ぎ出すようにと頼まれています。おそらく押し寄せた群衆に向かって話をするには、その方が都合がよかったからだと思います。群衆に取り囲まれてしまっては、どの方向を向き、誰に向き合って話したらよいのか決めにくくなります。湖上の舟からならば、岸の群衆全体に向かって話ができます。

 やがて、話し終えるとイエスさまはシモンに向かって『沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい』と言われました。シモンはプロの漁師としてその言葉には抵抗があったと思います。彼は素直に言葉を返しています。『先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした』。当然でしょう。漁師は風を読み、天候を予測し、潮を読んで仕事をしますから、その土台は経験です。

 志布志教会には漁師の青年がおりました。彼はまだまだ経験が未熟でしたが、同じ漁師の親父さんはベテランで、その青年が言うには「親父の天気予報はほとんどはずれない」ということでした。ですからシモンもイエスさまの言葉に対して、プロの漁師としてのプライドを示したのです。それでも漁は自然相手の仕事ですから、経験がモノを言うと言っても万能ではありません。天候や潮の読みがはずれたら、不漁ということになりますし、海上が時化れば舟は出せなくなります。ですから漁師たちは基本的に自然に対しては感謝こそすれ、謙虚だと思います。

 きっとシモンもそうだったのでしょう。プライドを持って仕事をしているけれども、時には読みがはずれることもある、そう自覚していたようです。ですからイエスさまのお言葉に反発だけではなく、『しかし、お言葉ですから』と言って、疲れた体に鞭打って沖に漕ぎ出しました。イエスさまは漁師たちが昨夜の不漁で失望と疲労困憊の重い心を引きずっていたことをご存知だったようです。他の物語でもそうですが、イエスさまというお方は、人が落胆してやり切れない思いでいるような時、慈しみの眼差しをジッと注いでおられます。そして、イエスさまがジッとご覧になるその時から、既に何かが始まっているのです。

 シモンたちはまったく気づいていないのですが、イエスさまの思いが既にその場に伝わり始めていました。その時イエスさまはシモンに言われます。『沖へ漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい』。この言葉は、自分の経験と勘をたよりに生きているシモンにとって、「そんなプライドは放棄しなさい」という意味にも等しかったはずです。

 しかしシモンは渋々だったとは思いますが、イエスさまの言葉に従いました。『しかし、お言葉ですから』。この一言はシモンという人物を表現する重要な一言です。ベテランの漁師と言えば大抵は頑固で意地っ張りというのが相場です。しかしシモンはそれだけではありませんでした。ちょっと立ち止まって、イエスさまの言葉を受け止める感性を持っていたのです。イエスさまにはちゃんと分かっていたのでしょう。自分の言葉をこの男は受け止める……。

 ペテロの中にある柔らかな心を生かすように、イエスさまは言葉をかけられたのです。シモンが、やがてシモン・ペテロとして筆頭弟子として立つことになる秘密が、既にこの物語には顔を覗かせています。 私たちもイエスさまのお言葉を頂いた時に、ちゃんと立ち止まってその言葉の意味を噛みしめるように反芻する感性を身に付けたいものだと思います。そうすることが出来れば、たとえイエスさまの短い一言であっても、自分のために語られている意味に気づくことができるのではないでしょうか。

 さて、6,7節はいわゆる奇跡と呼ばれるシーンです。『おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。そこで、もう一艘の舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼んだ。彼らは来て、二艘の舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった』。福音書には奇跡物語がたくさんありますが、どの奇跡にもイエスさまご自身の言葉がセットになってつながっています。奇跡はイエスさまが発せられた言葉と切り離せません。このシーンでは、イエスさまの言葉によって起こった出来事のシンボルになっているのは「魚」です。

 私たち日本人は昔から海の幸をたくさん頂いて生きてきましたから、シモンたちガリラヤ湖周辺の民衆が、どれだけその食生活を魚によって支えられていたかが感覚的に理解できます。魚がたくさん獲れたということが何を意味しているか? それはまず喜びであったにはちがいありません。しかし、イエスさまの言葉は人間の心を支えるだけでなく、民衆の生活そのもの、生活全体を支える力でもあったことに気づきたいと思います。

 この物語の特徴の一つは、漁師であったシモンたちの生活が生き生きと浮かび上がっている点です。もちろん大漁であった、それによって生活が潤ったというレベルで話は終わりません。8節のシモンの言葉は重要な意味をもっています。『主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです』。イエス・キリストに出会うことは、何かしらの利益を得られるということだけではないのです。人間は弱い存在ですから、何か利得を得られれば舞い上がって喜びます。

 この物語では漁師たちの利得は魚です。しかし喜びが醒めると、人間という存在は、今度は徐々に打算や傲慢に傾いていくのではないでしょうか。ここでもしシモンが、「よしよし、こんなに大漁なのだから売りさばいたら儲けはどのくらいになるだろうか」などとやっていたらシモンは平凡なただの漁師で終わってしまいます。しかしシモンという人間の柔らかい心、誠実さは、彼に正しい判断力と行動力を与えました。彼は目前に起こった出来事に対して、恵みと祝福に満ちた神さまの業に触れていることに直感的に気づき、圧倒されて、ひれ伏したのです。これは私たちが礼拝と呼んでいる行為の原点でしょう。教会は毎週礼拝を守っていますが、弱い人間の業ですから、ともすればマンネリに陥ります。

 心では毎週礼拝を捧げることをもってスタートしようと思っても、いつしかマンネリに流されていきます。圧倒的な神さまの存在の前にへりくだる、思わずひれ伏してしまう、それが真実の礼拝なのに、いつしか感動が薄れていくのです。シモンはそうではなく、心から神さまに頭を垂れる礼拝をささげることのできた人物としてここに登場しているのです。彼はやがてカトリック教会の初代教皇に位置付けられていくのですが、そこにはそれなりの理由があります。彼には目の前に起こった出来事に圧倒された時、自分には何のいさおしもないのだ、イエスさまというこのお方を前にして、自分の生き方はあまりにもちっぽけなものだ、ということを瞬間的に感じ取れる感性がありました。それは宗教的能力とでも呼ぶべきものです。それに加えて、人間の品性と言いますか、神さまに用いられる人間としての質の高さがありました。

 シモン・ペトロとて人間的な欠陥はたくさん持っていたろうと思いますが、この物語のように、イエス・キリストの真実に触れた時にすぐに反応できる心の柔軟さを彼は持っていたのです。自分で自分の人間的限界を理屈でなく感じ取り、すぐに『主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い人間なのです』と素直に告白できる心がペトロには備わっていました。パウロもすごい人だと思いますが、やっぱりペトロもすごい人です。

 少なくとも私たちは、この舟の上でのイエスさまとのやりとりを読みつつ、神さまに出会うとはどういうことか、礼拝を捧げるとはどういうことかを、ペトロから教えられます。真実の礼拝は、人間は誰しもそのままでは何のいさおしも無いことを明らかにします。ペトロの告白が持っている力は、周りにも伝わっていきました。一緒に仕事をしていたゼベダイの子ヤコブ、そしてヨハネ……彼らも伝わったのです。

 イエスさまはそうした漁師たちの姿を見て、間髪を入れずにこうおっしゃっています。『恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる』。イエスさまの言葉も単刀直入ですごい一言です。イエスさまにはガリラヤにおける神の国の宣教活動に、弟子が必要でした。その最初の弟子たちをイエスさまはここで選んだのです。魚を獲って生業とする漁師を、人間をとる漁師に変えてしまいました。

「人間をとる漁師」とは実に分かりやすい表現です。人間をとると訳された言葉(ゾーグレオー)は、「生け捕りにする」という意味ですから、人間をとる時には、あくまでも生け捕りにしなくてはなりません。生け捕られた人間は生きたまま、今度は神さまによって宣教の働き人に変えられます。私たちは使徒ペトロの誕生物語を見ているだけではありません。ペトロから始まった人間の生け捕り漁が今でも続いていることを見ているのです。私たちも、神さまから生け捕られた存在として、教会に集められているということになるでしょう。

 人を生け捕る漁師ですから、私たちは自分は救われた、これですべて良し、で終わるわけにはいきません。自分だけが神さまの恵みに与って新しい生き方に進ませて頂いた時、その恵みを自分の中だけに囲ったままでいることは御心ではないと思います。自分の救いだけで終わってしまってはならないのです。今度は私たちが、周囲の人たちを生け捕りにして、その方たちがイエスさまワールドの恵みの中で生きて頂けるように働くことこそが、イエスさまの召しに具体的に答えることになると思います。私たちはもしかすると疲れているかもしれません。夜通し網を下ろし続けたペトロたちのように、疲れて意気消沈しているかもしれません。でもそういう私たちに、イエスさまは声をかけられています。『沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい』。網を降ろしてみましょう。祈ります。


 
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