2015.5.31

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「新たに生まれねばならない」

秋葉 正二

エゼキエル書 37,1-6ヨハネ福音書3,1-8

 教会のことをよく「礼拝共同体」とか「信仰共同体」などと表現します。共同体、つまりコミュニティーですが、教会の場合は血縁・地縁・感情的繋がりなどを第一の基盤とはしません。 教会は信仰に基づいた生活の在り方を志向する特定の目的を持った共同体です。 一般的にある共同体の性格を理解しようとすれば、「集合の核となっているものは何か」とか「誰が中心にいるのか」などを拠り所として探ることになります。 教会共同体の場合、その教会は周囲に張り巡らせた信仰的な基準というバリアによって、信仰の世界とそうでない世界を区別します。 その際、異なる世界を分ける境界線をどこに置くかということが問題になります。 境界線の周辺には次々に問題が発生しますから、これをうまく処理できるか否かがその教会の生死を決する鍵になります。

 こんなことを申し上げているのは、きょうのテキストを読んでいまして、ヨハネ福音書を奉じていたであろう教会共同体、ヨハネ教会と仮に呼びますが、この共同体がユダヤ教との間に生じた摩擦を乗り越えていくのは大変だったろうなと思ったからです。 紀元1世紀の教会はまだまだ統一されていなかったはずですから、幾つかあった教会共同体は、それぞれどういう信仰的基準を立てて周囲の異なる世界、特にユダヤ教と対立しながら並存していくかという課題に頭を悩ませたはずです。 初代教会はイエスさまをキリストとして仰ぎ、既に神の選民共同体として出来上がっていたユダヤ人組織から独立していったわけですが、初代キリスト者が仰いだイエスという人物は、神の冒涜者として最も不名誉な十字架刑に処せられてユダヤ人共同体の外へ排除された人物でした。 この点は1世紀のどの教会共同体にも共通する部分です。

 イエスさまの言動はユダヤ教世界を震撼させました。 イエスさまは言うなれば、いとも簡単に律法世界を乗り越えられていったからです。 ヨハネ福音書が書かれた時代は紀元90年頃と言われますが、その頃のヨハネ教会は、ローマ世界に生き残っていくこと自体が大変だったでしょう。 ユダヤ教は新興勢力であるキリスト教を異端として認定しましたが、それはキリスト教がローマ帝国の公認宗教ではなくなるという意味でした。 その時から教会共同体はどのグループであれ、非合法に生きていかなければならなくなったわけです。

 ヨハネ教会は、共観福音書を背景とする教会共同体とは一線を画して、教会とこの世を分ける独自の境界線を引いたと思います。 その境界線がどのように引かれたかと言えば、まず「信じる者」と「信じない者」との線引きです。 たとえば、「しるし」と呼ぶ奇跡を見て信じるか信じないか、あるいは復活したキリストを信じるか信じないか、永遠の命を信じるか信じないか、といったことです。 いろいろなレベルでの「信ずべき事柄」を提示して、それを軸にイエスさまを信じる世界と信じない世界の境界線を浮き上がらせたのです。

 きょうのテキストの主人公ファリサイ人ニコデモは、いわばその境界線上を微妙に動くキャラクターとして登場しています。 彼はローマ政府から自治権を付与されているユダヤ教最高会議の議員であり、ファリサイ派主導のユダヤ教を代表している人物の一人です。 ヨハネ福音書だけに登場する興味深い人物ですが、かつて大祭司が、逮捕したイエスさまを裁判する際に、議員として同席するような立場にいた一人です。 ですからヨハネ教会の立場からすれば、当然「信じない側・ユダヤ人側」の人間です。 そういう立場の人が、夜人目を忍んでイエスさまに会いに来たというのが、きょうのテキストで最初に設定されている構図です。

 ユダヤ教共同体の中心にいる人物が、自分たちの引いた境界線、それを越えるとユダヤ教共同体の反対側に行ってしまうという境界線にまでのこのこ出て来たという設定なのです。 ヨハネ教会サイドから見れば、自分たちの引いた境界線を越えて、向こう側の人間がやって来たわけです。 2節でニコデモは驚くべきことを口にします。 『ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています』。 「わたしども」と言っていますので、彼の仲間にも同じように考えていた人がいたことを匂わせています。 さらに『神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです』と言いました。 ヨハネ教会内部にいる人が口にするような一つの信仰告白です。

 しかしイエスさまはニコデモという人物を見切っておられたのでしょう。 彼の言葉に対して3節でこう答えられています。 『はっきり言っておく。人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない』。 イエスさまのこの言葉に対するニコデモの反応は、何と言うか、とてもファリサイ派の指導者とは思えない幼稚な物言いです。 曰く、『年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母の胎に入って生まれることができるでしょうか』。 律法学者で最高議会の議員がこんなレベルの問答をするのかと首をひねってしまいますが、ヨハネ福音書はそう描くのです。 イエスさまも10節でちょっと皮肉っぽくニコデモを「イスラエルの教師」と呼ばれているのですが、イエスさまにはニコデモの本質が分かっていたのでしょう。

 そんなこんなで、ある意味何とも奇妙な問答がずっと続いていきます。 きょうは8節までを読みましたが、後の12節ではその問答の流れが要約されています。 それによれば、「あなたはイスラエルの教師であるけれど、……天上のことを話したところでどうして信じるだろう」ということなのです。 さらにもっと後の18節では結論的な言い方がなされています。 『御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている』。 結局、ニコデモはイエスさまを信じることができなかった人間として、境界線の向こう側、ユダヤ教側に戻って行くのです。

 ニコデモが個人的にどうなったとは書かれていませんから断定はできませんが、文脈から判断すれば、明らかにニコデモは教会側からは排除されています。 ヨハネ教会から見れば、せっかく境界線上にまでやって来た人を、またずっと遠い向こう側に追いやってしまうという結果になっています。 もしかするとニコデモのモデルとなった人物を、ヨハネ福音書の記者は具体的に知っていたのかもしれません。 もしそうだとすると、困難な中で新しくスタートしているヨハネ教会にとって、「私たちの引いた境界線まであの人は近づいてくれた」と未練が残っていたとも考えられます。 しかしヨハネ教会という教会共同体としては、結局「信じない者」は境界線を越えることなど出来ない、と強い原則を示さざるを得なかったのでしょう。 教会共同体が引いた境界線を、もう一歩で越えられたかもしれない人物を、向こう側に帰してしまう結果になったのは残念であった勿体なかった、と言っているようにも聞こえます。 もしニコデモを上手にこちら側に招くことが出来ていたら、つまりヨハネ教会の枠組みを決める輪郭線をもう少し広げていたならば、教会の在り方も少しは違っていたかもしれない、とヨハネ福音書の記者は思ったのではないでしょうか。 しかしまだまだキリスト教の発展成立途上のことですから、教会共同体の線引きをこの世のどこまで広げるかは手探りの状態だったでしょう。 このニコデモの物語は、後世の教会共同体に属して生きる私たちに、「では、現代の教会の境界線をあなたはどう引きますか?」という問いを発しているように思います。 私たちは教会の頭であるイエスさまに誠実に応えていきたいと思うのですが、 私たちがその問いに応えようとすれば、信仰の内容が問われるでしょうし、教会共同体が外の世界とどのように共存したらよいかも当然問われるはずです。 そんなことを考えていると、ヨハネ福音書はさもないニコデモという一人物を登場させることによって、とてつもない大きな信仰的問題提起を現代の私たちキリスト者にしているのではないか、と思いました。 私たちはヨハネ福音書記者に遅れをとらないように、歩みたいと思います。

 話は変わりますが、先週は東京教区総会がありました。 例によってあるセクトを中心にした組織選挙が行われました。 そんな選挙をしてはいけないという発言もあったのですが、議場では十分に取り上げられず、代わり映えのしない選挙結果となりました。 とても残念です。 そのセクトの人たちには自分たちの引いた境界線が絶対的基準として出来上がっているように見えます。 本当は自分たちが引いた境界線は相対的なものに過ぎないのですが、それが絶対的なものとして認識されてしまっているところに東京教区の根本問題があるのではないでしょうか。 教会と外の世界の狭間の問題ではなく、教会共同体内部に対立の構図が出来てしまっていて、教会共同体内部で向こう側の者を排除してしまおうという境界線が機能しているのです。 これは何とも悲しい状況です。 信仰者として私たち一人一人が神さまから試されているのでしょう。 自ら引いた境界線の向こう側に、本来は共に歩むべき人たちを追いやってしまっている構図です。

 かつて福音派か社会派かという線引きがありましたが、どうもその影響を私たちの共同体は残滓として引きずっているようです。 このまま成り行きに任せるのは無責任です。 こうした状況を打開していく何らかの努力が必要です。 現代の私たちにとって「新しく生まれる」とはそういうことであるような気がします。 イエスさまがニコデモに『はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない』とおっしゃったことは意味が深いのです。 宗教的な意味で信じるとか信じないとかだけではなく、私たちがどんな課題にどんな姿勢で取り組んでいるかを問う、言わば生き方を言葉なのです。 教会共同体に属する者に惰眠は許されません。

 祈りましょう。


 
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