2015.5.17

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「武力によらず、権力によらず」

秋葉 正二

ゼカリヤ書4,1-14フィリピの信徒への手紙4,1-9

 旧約聖書の終わりにある12の小預言書はあまり馴染みがない書物かも知れません。「ゼカリヤ書」の前後には「ハガイ書」「マラキ書」がありますが、これら3つの書物をつなげて覚えておくと整理し易いと思います。ハガイゼカリヤの前半8章までは時代が共通していまして、ペルシャ王ダレイオスの第2年に主の言葉が預言者に臨んだとありますから、紀元前522年という年代が浮かび上がります。どういう時代かと言いますと、538年にペルシャ王キュロスによりまして「ユダヤ人解放令」が出まして、ユダヤ人は「バビロン捕囚」から解放されました。この後、522年に2回目の帰国がダレイオスによって許可されていますので、520年といいますと、帰還したユダヤ人たちがエルサレム第2神殿再建を目指して活動を始めた頃と言えます。「ゼカリヤ書」ですが、この書物は二つに分けられます。前半の1章から8章までと、後半の9章から14章までです。

 預言の場所はいずれもエルサレム。預言する対象は一応イスラエルの民と見てよいでしょう。きょうのテキストは4章ですから、ゼカリヤ書の前半の一部分ということになります。この前半部分には、ゼカリヤが見た八つの幻が記されているのですが、その根底には神殿再建への願いがあり、「イスラエルの民よ、正義の神に対して真実であれ」との勧めが込められています。そういうわけで、きょうのテキストは5番目の幻ということになります。1節に『御使いが私を起こしたので、私は眠りから揺り起こされた者のようであった』とありますが、これはちょっと面白い導入の仕方です。ゼカリヤがわざわざ寝ているところを起こされたと記しているのは、「これから重要なことが告げられるよ」という布石でしょうか。

 そして続く2,3節にはゼカリヤが見た幻は金の燭台であったことが詳しく説明されています。一応訳されてはいますが、原文のヘブル語の意味はかなり取りづらいようで、聖書学者にとっても燭台の構造を正確に描くことは困難なようですが、学者を信頼することにいたしましょう。とにかく燭台ですから、火が灯されて周りを明るく照らし出す道具であることは分かります。そこで、この燭台は神さまの現存を表しているとか、神さまからの光によって照らし出されるイスラエルの民を表しているとかいろいろ解釈されています。さらにもう少し突っ込んだ解釈を求めますと、それは3節以下を読み進んで行くことによって少しづつ明かされていきます。まず3節には、燭台の左右に2本のオリーブの木が立っていた、とあります。この2本のオリーブの木が何を意味するかということは、すぐには直接示されず、もっと後の12節に説明されるのですが、その説明までの間に、つまり4節から10節までの間に、ゼカリヤと御使いとの間のやりとりを経て、ゼルバベルという人物への言及 が登場してくるのです。

 「えっ、何だそのゼルバベルというのは?」と思われた方もおられるでしょう。かいつまんでこの人物について説明しておきます。もっともマタイ福音書の冒頭にあるイエス・キリストの系図にも「バビロンへ移住させられた後」と断わった後、その名前が出てきますから思い出された方もおられるでしょう。ゼルバベルは大祭司ヨシュアと共に、バビロン捕囚から解放されてイスラエルの民が故国へ帰還する際、先頭に立った人物で、ヨシュアと一緒にエルサレム第二神殿を再建しました。「エズラ記」(2,24,2-3等)などにそのことは書かれています。きょうのテキストでは、イスラエルの民がゼルバベルをメシアとして待望しているのです。

 エズラ記の記述(4,135,5)によれば、ダレイオス王の小姓として活躍した人でもあります。ゼルバベルの人物像は少しご理解いただけたでしょうか。ということで、テキストの4節に戻ります。ゼカリヤは御使いに尋ねています。『主よ、これは何でしょうか』。幻として示された燭台について聞いているわけです。この質問に対して、御使いは『これが何か分からないのか』と言っています。ゼカリヤは正直に『主よ、分かりません』と答えたので、御使いは説明を始めます。6節から10節まではこの御使いの説明なのです。この説明の部分のテーマはゼルバベルに集中しています。大祭司ヨシュアは出てきません。6節には『これがゼルバベルに向けた主の言葉である』とありますが、これは神殿再建事業に関する神さまの言葉です。6節の後半にあるその言葉がきょうのテキストで最も大切な部分だと思います。曰く、『武力によらず、権力によらずただわが霊によって……』。

 ここを読んでいて私は現在連日ニュースで報じられている一連の安全保障法制関連法案のことをすぐに思い浮かべました。古代の記事を現代の事象にすぐに結びつけて考えるのはおかしい、と指摘される方もおられるかもしれませんが、私にとってはこのみ言葉がすぐつながったのです。その昔、ゼルバベルやヨシュアにとって、神殿を再建するとはどういう意味を持っていたのでしょうか。故国に帰ってみたら、目の前には破壊され尽くした旧エルサレム神殿の残骸が横たわっていたわけです。それはかつての新バビロニア帝国との戦争の結果を示すものでした。多くのリーダーたちが捕虜として敵国に連行されて辛い年月を送らねばならなかったわけですが、幸いにも新興国ペルシャによってイスラエルの民はエルサレムに戻ることができたのです。破壊され廃墟と化した神殿を再建しようとすれば、どうしても戦争をしたことを思い出さないわけにはいきません。うまく再建資金が集まって建築が完成すればそれでよし、というだけでは済まされないのです。新しく建てられる神殿がどういう目的で機能し始めるかは、これからのイスラエル民族の在り方に関わってくるのです。

 預言者ゼカリヤはゼルバベルに向けられた主の言葉として、はっきり『武力によらず、権力によらず、ただわが霊によって』という声を聞き取りました。神殿は神さまに向き合い、礼拝を捧げる場所です。イスラエルの民の生活の中軸をなす施設と言えるでしょう。そういう場所をこれからどのように位置付けるのか、その答えを神さまは預言者に賜ったのです。武力や権力が神殿の中にはびこれば、また必ず新しい神殿はいずれ瓦礫となることを神さまの声としてゼカリヤは聞きました。この神さまと預言者とのやりとりを単なる昔の一出来事として聞き流すのではなく、私たちは自分に関わることとして、すなわち私たちの現実の中で、神さまの声として聞き取る必要があるのではないでしょうか。

 今、私たちの国の政府は、アメリカとの軍事的連携を平和憲法の上位に位置づけてまで、強引に集団的自衛権の行使をはじめとする一連の安全保障法制関連法案を閣議決定し、恒久法案として法制化しようとしています。一昨日ついに国会に議案として提出されました。現行政府は、この新法案によって、日本の権益や邦人の生命・財産を守るという名目で自衛隊を紛争地域に出兵させようとしているのです。外交努力を怠り、安易に武力行使をすれば、そこからは果てしない暴力の連鎖が始まります。それはイラクやシリアの状況を見ても明らかです。紛争が拡大すれば、自衛隊による災害救助にも影響が出るでしょう。現行の平和憲法は、単にユートピア的理想を謳ったものでも、時代の要請に応えられなくなった過去の遺物でもなく、日本が歩むべき未来に即した極めて現実的な指針たり得ていると思います。私たちの国は敗戦後、その時々の政治情勢とは別に、憲法を平和の誓いとして受け継いできました。それは聖書が私たちキリスト者の共通の倫理である博愛や寛容や自由の拠り所であるように、平和憲法も日本人の倫理の経典であり続けているということに他なりません。

 あのベトナム戦争の時、アメリカから日本も参戦せよと求められてもこの憲法によって断ったのです。湾岸戦争でも巨額の軍事援助はしたものの、かろうじて武力行使や兵器の輸出はしませんでした。9条を維持さえすれば、いつでも戦争放棄の原則に私たちの国は回帰できるし、中立主義とか日米同盟の再考とか、多国間に安全保障を構築するなどの政治的選択の幅も広げられるのです。戦争は原発によく似ています。莫大な負の遺産を後世に残すのです。好戦的な政治家たちは戦争責任など取る気はさらさらないでしょう。いざとなれば、自分たちを支持した国民が悪かったのだと開き直るはずです。現政権が掲げる積極的平和主義とは、結局アメリカの軍産複合体を支えるだけでしょう。

 預言者は『武力によらず、権力によらず、ただわが霊によって』という言葉をどんな気持ちで受けとめたでしょうか。私たちも想像してみるとよいでしょう。もう二度と戦争を起こして神さまに礼拝をささげる場所を廃墟にしてはならない、と誓ったはずです。重要なことはそうした誓いは一時のものであってはならないという点です。平和をつくりだす努力は不断のものでなくてはなりません。持続することが求められるのです。第二神殿再興後のイスラエルは、イエスさまのこの世における活動にもかかわらず、武力に訴えてまたまた神殿を灰燼に帰してしまいました。

 私たちはそうした愚を繰り返してはなりません。古の預言者が向き合った主の言葉に私たちは現代人として向き合う責任があると思います。

 平和が維持されるように祈りましょう。


 
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