2015.2.15

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「高さと深さの生き方」

陶山義雄

詩編84,2-13マルコによる福音書4,26-32

 教会の暦では今週の18日水曜日から受難節に入ります。(この日は灰の水曜日と呼ばれています。)そして来週、22日の日曜日は受難節第1の主日を迎えます。今日は、受難節に入る直前の日曜日になるので、教会の暦では、受難節前第1主日と呼ばれています。受難節について若干お話ししておきますと、復活節の前の、六つの日曜日を除く、40日間が受難節にあたります。長いので、ラテン語で「長い」という言葉から「レント」とも呼ばれています。この期間に六つの日曜日が含まれない理由は、主の受難を覚える40日間ではありますが、日曜日は主の復活記念日ですから、レントの期間は粗布をまとい、懺悔をしながら主のご受難にならって慎ましく過ごす40日であっても、日曜日は喜びの日として教会は礼拝を守って来た訳です。

 イエスご受難の出来事が持つ意味を最も的確に表わしている讃美歌の一つに先ほどご一緒に歌いました、294番があります。「人よ、汝が罪の大いなるを嘆き、悔いて涙せよ」。この讃美歌を有名にしたのは、J.S・バッハが1729年(バッハ44歳)に作曲した「マタイ受難曲」(BWV244)であると思います。彼はライプツイッヒに移り、聖トーマス教会のカントール(宗教音楽監督:1723〜1750)に就任した1723年から6年経った1729年の受難週・聖金曜日(キリストの受苦日:1729年4月15日)のためにマタイ福音書26章から27章に記されたイエスの受難物語をルター訳の聖書テキストで福音史家に歌わせ、受難の持つ意味をコラールと呼ばれるプロテスタント教会の讃美歌を織り込んで合唱曲として歌い、聖書のテキストとコラールの意味を解説するために独唱を各場面の結びに置いて壮大な作品を完成させました。先ほどの讃美歌294番は、マタイ26章56節で、ペトロを含めた弟子達が全てイエスを見捨てて逃げ去ったその場面で、それはマタイ受難曲第一部の終わりである第35曲で歌われる壮大な合唱曲です。

 「おお、人よ、汝の大いなる罪に泣け」このコラールが日本の讃美歌に取り入れられたのは1967年に作られた讃美歌第二編で、その第99番に収められたのが最初でした。日本訳は深津文雄牧師(1910〜2000年)で優れた翻訳であると思います。私共の讃美歌21(―294番)でもそのまま載せられています(第二編ではホ短調 / 21では二長調)。深津先生と言えば、カニタ婦人の家を創設され、現在でも100名近くの婦人達が共同生活を千葉県館山で営んでおられます。先生は売春防止法の成立のためにご尽力され、70年前に、ある婦人を伴って厚生省へ赴き、売春防止法の成立を戦前から訴え、法律ばかりでなく、厚生施設がなければ更生は困難であることを訴え、カニタ婦人の家を創設されたのです。(明治学院神学部出身で先輩として尊敬していましたが2000年8月17日に90歳で天に召されました。)この施設では、農業、酪農、機織、手工芸などで経済的自立を図りながら、平和運動もしておられます。従軍慰安婦の出来事を書き留めた石碑が建てられ、実際に韓国や中国から被害に遭われた婦人達をお呼びして共同の生活をしておられます。先生は音楽にも造詣深くあられ、東京バッハ合唱団を設立されたり、聖書学者として聖書学研究所の設立にも携わった先生です。}

 「おお、人よ、汝の大いなる罪に泣け」はルターの宗教改革に共鳴したニュールンベルグのカントール, ゼバルト・ハイデン(1499〜1561)が作詞した歌で、これを、同じく宗教改革時代に修道士から ルターに共鳴して牧師となったマテウス・グライターが作曲して出来上がったコラールです。全部で23節まで原作にはあるのですが、現在では第1節と終わりの第23節のみを歌うよう、既にドイツの讃美歌でも改編されておりまして、深津先生も、それに倣って、先ほどご一緒に歌った通り2節に纏められています。優れた翻訳で付け加えることは殆どありませんが、翻訳は得てして原作の半分ほどのメッセージしか載せられないことが多いなかで、深津文雄先生の訳は殆ど完璧に日本語に写し変えられています。

1)おお、人よ、あなたの大きな罪に泣きなさい。  そのために、キリストは彼の父の懐から離れて、地上に来られたのだ。>  清く優しい一人の乙女から、わたしたちのために、地上でお生まれになったのです。彼は仲保者となることを望み、死者に命を得させ、あらゆる病を取り除き、時が来て、わたしたちの罪の重荷を担い、私たちのために犠牲となって、十字架を背負われたのです。
2)だから、わたしたちは彼に感謝を捧げよう。私たちのためにこのような苦難を負い、御旨に従って生き、また、わたしたちの罪を敵とされました。  神の御言葉を高く掲げ、輝かせ、昼も夜も、そのために身を惜しまず働かれ、すべての人に愛を示し、それを彼の全生涯と死をともって私たちに働かれました。  おお、人よ、神が怒りをもって罪を打ち砕いて下さったその姿を見て、この恵みを大切に守りなさい。

 総じてこの讃美歌で歌われているイエスの受難と救いの出来事は、今年のレントから受難週、そして、イースターに向かって私たちが新たに与るべき最も大切な使信ではないでしょうか。罪なき方が、世の罪、人の罪を担い、その命を賭して表わした下さった生き方に現われた愛こそ、今、私たちが与り倣うべき道であることを痛感いたします。キリストは十字架によって敵意という隔ての中垣を打ち破って下さったのです(エフェソ2:16f)。ここに愛があります。

 私たちに必要なことは、レントから受難週を、ひたすらイエスが歩まれた十字架の道を辿りながら、自らの内にある隣人との隔ての中垣を打ち壊して行くことではないでしょうか。このような生き方を後藤健二さんが証して下さったことを私たちは心に刻みつけておきたいと思います。

 本日の説教題を「高さと深さの生き方」とさせて頂きました。高さを目指す生き方については、どなたもそのまま、お分かりになると思います。私たちは毎日、より豊かに、より快適に、より楽しく生活できるように、あくせく働いています。先ほどご一緒に交読しましたマタイ6章25節以下で主イエスが「食べること」、「着ること」、についてアクセクしている生き方を、例に挙げて語っておられる通り、高さを求める生き方は誰もがしている日常の営みではないでしょうか。アベノミックスとは正にそのような営みを表しています。でも、それだけでは足りない、満たされないのが私たちであることを、山上の説教でイエスは語っておられます。それが、「深さに根をはった生き方」です。「神の国と神の義を求めなさい」とは「深さに根を張った生き方」を教えています。

 「さらば、何を食らい、何を飲み、何を着んとて、思い煩うな。汝らの天の父は全てこれらの物の、汝らに必要なるを知りたもうなり。まず、神の国と神の義とを求めよ。さらばすべてこれらの物は、汝らに加えらるべし。」と文語文で読み交わしました。「まず、神の国と神の義を求めよ」とはどう言う生き方を指しているのでしょうか。この点について、ポール・テイリッヒ(1886〜1965)は、主イエスの「自ずと成長する植物の譬」から子供でも分かるような説明をしています。農夫は収穫を少しでも多く挙げようとして、汗水流して働きます。これは正に「高さを求める生き方」を表しています。しかし、この農夫は夜になると、安らかな眠りに就いています。農夫が寝ている間に、「種は芽を出して成長し、土はひとりでに実を結ばせるのである。まず、茎、次に穂、そしてその穂に豊かな実が出来る。実が結ぶと、農夫は早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」聖書ではそのように記されています。

 さて、この農夫の営みのうち、何処に「深さに根をおろした生き方」があったでしょうか。それは、夜、仕事を終えて「安らかな眠りについている」ことです。ごく、当たり前の生き方ですが、私たちには大切な命の営みが、ここにあることを忘れてはなりません。安らかな眠りは神様から頂いた大きな恵みの一つです。私は17歳・高校3年生の6月19日に突然、大喀血をして、そのあと、ほゞ1年間起き上がることが出来ない病人の生活を過ごした経験を持っています。その間、赤岩 栄先生は殆ど毎週のように私の病床を訪ねて下さいました。(本日の週報「牧師室から」には、上原教会から持ち込んでいた古い文書を自宅に持ち帰って整理していて見つかった、先生の言わば信徒各人の「閻魔帳」から感想を書かせて頂きました。先生は、全教会員の礼拝出席と祈り会出席、それに木曜日午後1時から夜9時の間に設けておられた「面会日」への出席と面会内容のメモを克明に残しておられました。思想や言動で注目されていた赤岩先生でありますが、先ずは、牧師であり、各信徒にこれだけ細かい配慮をなさっておられたことが、残されたメモを通して、今回知ることが出来ました。病める求道者であった私をこれほどまで、訪ねて下さったことは、私だけではなく、他の方々についても同様であったことを知り、感銘を新たに致した次第です。何時も100名を超える聴衆を集めた名説教者でありましたが、その陰にはキメ細かい牧会者としての積み重ねがあったからであったと思います。)

 寝込んでからまだ程ない、夏の暑い日の夕方、赤岩先生が訪ねて下さったとき、私は寝てばかりいるので、夜眠れない辛さを先生に打ち明けたところ、先生の答えは意外な忠告でした。「君は寝ようと頑張っているから、眠れなくなるのである」と言うことでした。眠りは頂くものであり、努力することではない、と言うのが先生のお言葉でした。体に任せていれば、いつの間にか眠りに就くもので、私が努力すればするほど、目が冴えて眠れなくなるものであることを私は学ぶことができました。休息を意味する英語の rest はラテン語の re+sto (stare) から来ていて、それは「元の存在に帰る」と言う意味をもっています。睡眠は正に神様から頂いた「深さ」の生き方であり、「高さ」を求めて努力するような営みではありません。私たちの努力に先立って、誰もが頂いた恵みであるからです。安らかな眠りがあるから私たちは心身共に健やかに生きることができるのです。安らかな眠りは命の土台になっているのです。

 譬話に登場する農夫は、日中、一所懸命に働きながら、夜には一切を恵みに委ねて安らかな眠りに就いています。夜の睡眠は被造物が神から頂いた恵みであり、私たちが毎日、帰るべき安息の時であります。睡眠が「人生の深さ」を暗示しているように、「高さ」を求める労働や仕事に先立って、神から頂いた眠りのあることを忘れてはなりません。

 テイリッヒは現代人の苦悩の原因がこの「深さの次元」を見失っているからである、と述べています。この「深さの次元(Dimension of Depth)」のことを、彼は人間に必要な「宗教的次元」と呼んでいます。「宗教的である、と言うことは、その人が自分自身の存在への関心と同時に、普遍的存在にも関心を持っている状態である(Being religious is the state of being concerned about one’s own being and being universally)」と述べています。あの「自ずと成長する植物と、より多くの収穫を求めて働く農夫の譬話」から、これ程大切な意味を引き出しているこの宗教哲学者に私は心から敬意を持っています。

 私たちがこれから、何をしようか。明日や未来がどうなるだろうか、など将来の事に心を奪われている状態では「深さの次元」への関心は失われてしまいます。こうした不安や心配があったにせよ、今、ここで、頂いている恵みに目を向け、感謝をもってその恵みを享受しているところに、宗教性が現われ、自分と他の人々と、恵みの分かち合いが始まります。先ほど、読み交わしました山上の説教のクライマックスで主イエスが語っておられることが私たちの間で実現していくのを覚えます。

「このゆえに、明日のことを思い煩うな。明日は明日みずから思い煩わん。一日の苦労は一日にて足れり。」

 「明日(将来)のことは御手に委ねて、今を精一杯、勤めなさい」と言う生き方こそ、深さに根をはった生き方を表しています。

 「高さ」と共に「深さ」を土台として生きる私たちは、たとい、途方にくれるような事態を人生において迎えたとしても、壁を乗り越える力と希望を見失うことはありません。

 このあと、ご一緒の歌う讃美歌454番は「山上の説教」結びの所に収められたイエスの譬話から歌詞が作られています。「岩を土台とする家が嵐にも耐えられるのに反して、砂の上に立てた家は、洪水や嵐がくるとたちまち倒れてしまうことを例にしながら、高さばかりでなく、深さに土台を据えた人生について語られていることに注目したいと思います。(旧讃美歌304番)

「真なる御神を 頼める者のみ 岩の上に家をば 建てし人のごと 悩みの時にも 動くことなからん」

 また、聖書の教えを基として生きる時、どんな困難に直面しても、それを乗り越える力が湧き出ることをポール・マッカートニーというビートルスの仲間が Let it be と言う歌にしています。歌詞では words of wisdom (知恵の言葉)とありますが、それは聖書の御言葉であり、人生の土台を指しています。

When I find myself in times of trouble, 私が困難な時を迎えると Mother Mary comes to me, 母さんメアリーが私の所にやって来て Speaking words of wisdom, ”Let it be”. 知恵の言葉、「お任せなさい」、と囁きます。 And in my hour of darkness, また、私が暗闇に閉ざされている時に She is standing in front of me 母さんが目の前に立ち現われて Speaking words of wisdom, “Let it be”. 「お任せなさい」と言う知恵の言葉を囁きます。 And when the broken hearted people living in the world, この世で打ちひしがれている人々が、 Agree , there will be an answer, ”Let it be” 「お任せしなさい」に同意する時、 There is still a chance that they will see また更に機会が訪れて There will be an answer, “Let it be”. 「お任せなさい」を答えてくれる。

 この「主に委ねなさい」と言う知恵の言葉こそ、山上の説教でイエスが教えている内容でありますし、何よりも十字架が避けられない状況にあることを自覚したイエス・キリストがゲッセマネの祈りでお語りになった言葉でもあります。

 マルコ14:33-34「父よ、あなたは何でもお出来になります。この杯を私から取り除いて下さい。しかし、私が願うことではなく、御心に叶うことが行われますように。」

Let it be が語られている第三の聖句は受胎告知に際してマリアが語った言の中に示されています。

 ルカ福音書1章38節「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」

 今週の半ばより、受難節に入ります。私たちは幾たびか「深さ」に根を降ろした生き方を忘れて、「高さ」だけを追い求める生き方を繰り返して来たことでしょう。そのために、主が十字架の苦しみを通して表して下さった生き方の土台に帰って、喜びと希望に満ちた残る人生を全うしたいと思います。安息日ごとに、懺悔から希望と喜びの道を新たにして、共に信仰の道を歩んで行くべく、祈りを合わせたく思います。


 
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