2014.1.25

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「人の子が復活するまで」

秋葉 正二

列王記下2,9-14マタイによる福音書17,1-9

 イエスさまの姿が変わるという変貌記事から学びます。共観福音書に共通している記事ですが、おそらく福音書成立前にイエスさま伝説集みたいなものがあって、それを元に先ずマルコがイエスさまの変貌記事を加工して福音書に入れたと見られています。さらにそのマルコの記述を元にして、マタイやルカがそれぞれに編集上の工夫をしたのでしょう。きょうのテキストはマタイですが、マタイが変貌物語で何を一番言いたかったかということを中心に据えながら読んで行きましょう。

 変貌物語ですから、イエスさまは驚くような変貌を遂げておられます。その様子が3-4節に描かれています。「ええっ」と思わず声が出そうになるような変貌の仕方なのですが、7節に来ますとイエスさまが弟子たちに手を触れて『起きなさい』と声をかけておられますから、弟子たちは眠っていたのかな、とも考えられます。だとすると、この変貌描写は夢だったという理解もできるでしょう。夢ならば何でもありですから私たちも驚きません。しかも聖書は重要なことを示すのに度々「夢」という表現方法を採用していますから、たとえ夢だとしてもこの夢は大変重要な夢であるかも知れません。

 9節では、イエスさまが3人の弟子たちに『今見たことをだれにも話してはならない』と言われているのですが、この「今見たこと」と訳されている言葉(ホラーマ)が気になります。マタイは神さまのお見せになる特別な光景を表す言葉を用いているのです。永井訳では「幻」と訳されていますが、この訳が私は一番よいと思っています。この訳語のイメージに従えば、神さまは選ばれた3人の弟子ペトロ,ヤコブ,ヨハネに幻をお見せになったのです。モーセとエリヤがそこにいるわけはないのに、神さまは彼らが実在するかのようにお見せになったというわけです。いわば弟子たちは霊的体験をしたのです。イエスさまと一緒に天上に引き上げられるような感覚だったでしょう。

 どうしてモーセとエリヤだったのかと言えば、この二人もまた旧約聖書で似たような体験をしているからです。モーセは、アロンや長老たちを連れてシナイ山に上ったという記事が「出エジプト記」24章にあります。それによれば、こうです。『モーセが山を登って行くと、雲は山を覆った。主の栄光がシナイ山の上にとどまり、‥‥主の栄光はイスラエルの人々の目には、山の頂で燃える火のように見えた』。ペテロたちもきっと小さい頃から旧約聖書のそうした話を聞いていたことでしょう。またエリヤにも共通する物語があります。あの有名な「火の戦車と火の馬」に乗って召されたという先程読んだ「列王記下」2章に書かれていました。モーセはシナイ山で十戒を授かったのですから律法の代名詞のような存在ですし、エリヤはメシア来臨の際には、先駆者としてやって来ると小預言書にありますから、これまた預言者の代名詞的存在です。イスラエルの人たちにとってモーセとエリヤは特別な存在だったと言えます。この伝説的な二人が、なんと顔が太陽のように輝き、服が光のように白くなったイエスさまと語り合っていた幻を、ペテロたちは見た、そういう霊的体験をしたとマタイは記しました。

 ペテロは余程感激したと見えて、妙に生々しい声を発しています。2節ですね。『わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、一つはエリヤのためです』。ペテロとしてみれば、尊敬してやまない3人の先生たちを目の前にして、自分に出来そうなことを思わず口にしてしまったということでしょう。その時光り輝く雲が彼らを覆って、雲の中から声が聞こえました。『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者、これに聞け』。この声はイエスさまが洗礼を受けられた時に天から聞こえてきた声と同じです。天からあるいは雲の中から聞こえてきたという表現は、天上の神さまの声ということでしょうから、こうした描写が強調して表現しているものは、何よりもイエスさまが神の子なのだという点でしょう。いわば、旧約世界で最も重要な人物像を動員して、イエス・キリストの神性を福音書が宣言していると言えます。

 皆さんはこの物語を読んでどんなことを思い浮かべたでしょうか。私はこの物語には最初に触れた9節の『今見たことをだれにも話してはならない』というイエスさまの言葉がやはり鍵を握っていると見ています。『だれにも話してはならない』という言葉はメシアの秘密として他の箇所にも出てくるのですが、ここでは『人の子が死者の中から復活するまで』という前提が付いています。「復活するまで」とありますから、イエスさまは選んだ3人の弟子たちに、あらかじめ復活の秘密を少しお見せになったということだと思うのです。この3人の弟子たちは弟子集団の中でも後に活躍する人たちですから、彼らの活躍の布石といった面もあるかも知れません。いずれにせよ、復活がイエスさまのこの世の生涯のうちで最も重要なことであることが示されていると思います。

 復活と言えば、もう3週間もすれば今年も受難節が巡ってきます。私たちとしては、その信仰的な備えの意味においても復活というキリスト教信仰の最重要事について今からいろいろと思い巡らすことには大きな意味があるでしょう。モーセもエリヤも旧約聖書の偉人たちはみな終末になると神さまの側に集まるというイメージがあるのですが、そうした旧約の流れが、今イエス・キリストによって完成しつつあるという信仰的確信を、マタイはこの物語に埋め込んだのではないでしょうか。福音書の最後はみなイエスさまの復活記事で結ばれますが、私たちは既に復活のキリストの命を福音書を読むことを通して与えられているのですから、イエスさま復活後の教会の時代を生きる一人として、メシアの秘密という沈黙命令から飛び出して、堂々と復活のイエス・キリストを宣教する責任を担っているわけです。

 私は若く元気な時、復活をいろいろな理屈を組み立てるという作業を通して理解しようとしました。実際いろいろな理屈を組み立てることが出来るのですが、それは詰まるところやっぱり理屈に過ぎませんでした。しかし復活を理屈で理解するのは見当違いだと今は思っています。特に数年前に癌の手術を受けた時、入院生活の中でそんなことをずっと考えていました。復活は信仰生活における信仰体験です。これが一番大事だよ、ということをイエスさまは特別な形で選んだ弟子たちに示されたのです。私たちもこのことを厳粛に受け止めたいと思います。ペテロやヤコブたちは、正直この体験をした時には復活の重要さが分かっていなかったのかも知れません。だからこそペテロなどは後に鶏が鳴く前に三度もイエスさまを否認してしまったのでしょう。『イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった』。これはマタイの精一杯の表現に違いありません。復活のイエス・キリストをあらかじめ示すには、イエスさま伝説は格好の材料であったと思います。ということで、もう一度心を込めてこの顕現物語を読んでみてください。きっと新たな信仰の世界を仰ぎ見ることが出来ると思います。レントを前に、復活のイエスさまに思いを致して祈りましょう。


 
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