2014.10.26

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「わたしの魂は主を待ち望みます」

秋葉 正二

詩編130,5-6コロサイの信徒への手紙3,16

 本日の礼拝は「宗教改革記念日・音楽礼拝」です。 改革記念日と言い方ですと、宗教改革が一回限りの出来事として捉えられますが、内実はキリスト教会の歴史の中で教会改革は絶え間なく続けられなければならないということです。 プロテスタント教会は聖書によって立ちますから、聖書を読み続ける限り、いつでもどこでも教会改革は起こるーーまずそのことを脳裏に刻んでおきたいと思います。 さて、旧約テキストの詩編130編はマルティン・ルターの「深き悩みより 我はみ名を呼ぶ」という讃美歌でおなじみの詩です。 現行讃美歌では22番と、先程歌った160番にこの詩が採用されています。 この詩の作者はどんな事情か分かりませんが、現実の中で立往生してしまった状況下で神さまを呼び求めているようです。 130編は短い詩ですし、全体の構造を理解すれば、左程難しい詩とは思えません。 神さまが人間の不義をそのまま心に留められるならば人間に立つ瀬はない、ということが前提になっています。 その上で、「赦しは、神さま、あなたのもとにあります」という点に希望をつないで詩人は必死に願い求めています。 信仰深いイスラエルの人々はおそらくこの詩人のように、苦しい時にも主なる神に信頼して、主の約束を待ち望みつつ生きたのだろう、ということが伝わってくるようです。

 パウロはロマ書の4章で創世記のアブラハムを引用しながら、『望み得ないのに、なおも望みつつ信じた』と彼の信仰を讃えていますが、その「待ち望みつつ」という生き方こそが、旧約聖書の信仰の軸になっています。 この信仰を受け継いで、イエスさまも神の国の宣教を開始するにあたり、『時は満ちた、神の国は近づいた。 悔い改めて福音を信じなさい』 とおっしゃっているわけで、神の国の福音は、神の約束を信じて待ち望みつつ生きた人だけが聞くことができる文字通り「よきおとずれ」です。 ですから、やはり旧約と新約はつながっています。 コロサイ書はパウロの獄中書簡の一つですが、パウロの死後弟子の一人が書き記したものであろうと見られています。 この手紙の背景には当時の教会がその波をかぶっていた外部の信仰思想の影響という問題があります。 コロサイの教会の信徒たちがグノーシス思想の影響を受けていたのです。 その結果、霊的にのみキリストを理解する信仰に傾いていた状況を心配しながら、「そうじゃないですよ、キリストは霊の世界に納まってしまうお方ではありません。歴史の出来事として私たち一人ひとりに関わってくださるお方なのですよ」 ということを理解してもらいたいというコロサイ書記者の必死な姿勢が伝わってきます。

 テキストでは、『キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい』 と勧めています。 宿るように、即ち[住まわせなさい]という言葉ですが、この動詞の名詞形が「家」とか「家族」、あるいは「民族」とか「世界」とか訳されるオイコスという言葉です。 NCCのロゴを思い出してください。波と舟ですか、あの上に十字のマークがあって、オイクメネーという語がくっついています。 そのオイクメネーも同じ語源です。 NCCのオイクメネーは誰でも一緒に住むことができるキリストの世界を表現していますが、エキュメニカルという英語の語源でもあります。 つまりこの書簡の記者は、この言葉を用いて、「私たちのキリストは、霊的にだけ理解されるお方ではないですよ、私たちの日々の生活の中に入って来られて、共に住んでくださるお方なのですよ」 と一生懸命伝えようとしているのです。 歴史の主イエス・キリストを私たちの唯一の主として、大胆に自分の中に迎え入れることが信仰なのだ、という主張です。 もしこれを拒否して、共に住まうことから逃げてしまえば、私たちはいつまで経っても約束の成就を喜ぶことができません。

 十字架と復活の主との交わりを経験した使徒たちは、信仰ゆえに迫害を受けた際、み名のために恥を加えられることをも喜びとした人たちです。 初代教会の人たちにとっては、どんなに暗い出来事も、キリストから頂く喜びを消すことはありませんでした。 「あなたはどうですか?」 とこの書簡の記者はコロサイの教会員たちに確認を求めているように思えます。 この問いは私たちにも関わってきます。 キリストに本当に出会っているのか、問われているような気がします。 詩編の作者は、「深い悩みよりみ名を呼ぶ」 と言っています。 人間の持つ深い悩みは人それぞれだろうとは思いますが、どれも自分の力では抜け出せない苦しみですから、深い悩みなのです。

 しかし神さまの裁きを真剣に捉えようとしない人にとっては、詩編130編などは実感できない詩でしょう。 人生を無責任に楽観視しながら、「どうにかなるさ」 とうそぶいている人は、多分深い悩みということが分からないはずです。 しかしこの詩編の作者にしても使徒たちにしても、「生きてはいるけれども、最早身の置き所がない」 という体験を通ってきた人にとっては、その体験が彼らをして神の国のよきおとずれを「待ち望む」信仰へ向かわせる土台となっています。 6節に『見張りが朝を待つにもまして』 と繰り返し謳われていますが、それはもう耐え難いほどの切実さだったことでしょう。

 前に少しお話しましたが、私は1980年代から90年代にかけて十数年を鹿児島で過ごしました。 鹿屋市の郊外に星塚敬愛園という国立ハンセン病療養所があって、その園内にある単立のプロテスタント教会である恵生教会で、14年間金曜日の集会で奉仕させて頂きました。 ハンセン病者の教会と言っても、もちろん人間の集まりですからぶつかり合いや様々なギクシャクもあるのですが、たった一つすごいなァと思うことがありました。 ほとんどの教会員の皆さんが凄絶な過去をお持ちなのです。 ハンセン病という病気になって家族から捨てられる体験はほとんどの人が持っておられました。 隔離されて、厳しい懲罰が定められている環境下で、人権はほとんど無視された世界でした。 そうした体験を持っている人たちがひとたびキリストの福音に触れるとどうなるか、それを恵生教会の皆さんは見せてくださったのです。 皆さん、本当に単純な、しかし神さまに委ね切った生活を送られていました。 無学の方も多く、ゆっくり勉強できるような機会に恵まれた人はほとんどおられませんでしたが、恵生教会の皆さんは、それこそコロサイ書の著者が言うように、キリストの言葉が内に豊かに宿ったような信仰を持たれているのです。 神さまがハンセン病の皆さんを特別にお選びになったとしか言いようのない信仰者の群れでした。 人間の目からすれば滅びにしか見えない世界から、神さまはある人を選ばれると、その人は心底喜びをもって生きる人生へと導かれ、変えられます。 人生の大転換という表現がありますが、文字通りその大転換を信仰によって成し遂げられた人たちを星塚敬愛園の恵生教会で見させていただきました。

 世の中には恵まれた環境と資質を与えられながらも、ただ枯れて行くような人生を送る人も多くいます。 あるいは自分の小ささに卑屈になって生きる人もいることでしょう。 とても残念です。 しかし信仰による人生の転換は、悲壮や絶望から喜びへと人間を移し替えます。詩編の詩人もコロサイ書の記者も、そのことを自分の実体験として、人生の実験として通ってきた人だと思うのです。 そこから「見張りが夜が明けるのを待つにもまして」 という表現が出てきたのだし、『詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい』 という言葉も生まれたと思います。 私たちも「キリストの言葉が内に豊かに宿る」ような人生を送りたいものです。 本日は宗教改革を記念する礼拝なのですが、プロテスタントの宗教改革を覚えるだけでなく、私たちがイエス・キリストによって今やそれこそカトリック教会も含めた「和解」という信仰の大きな流れの中に置かれていることをも忘れないようにしたいと思います。 私たちが神さまと和解できれば、次は人と人との和解へと導かれるはずです。 平和はそこから生まれます。 宗教改革運動に参与した多くの信仰の先達を覚えながら、祈りましょう。


 
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