2014.9.14

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「現代の祭司として生きる」

秋葉 正二

出エジプト記19,5-6ローマの信徒への手紙12,1-21

 先週の祈り会で「使徒言行録」2章43節以下を読みました。宣教方針にも掲げた聖句です。そこには初代教会の姿が描かれていますが、教会が誕生した時には固定化された制度や組織がなかったことが分かります。初代教会がスタートした時、特定の建物はなかったはずですから、信徒の家とか屋外とか集まれる場所ならどこででも礼拝を守ったのでしょう。

 イエスさまの言葉に、『二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる』(マタイ18,20)というのがありますが、とにかく一緒に集まって礼拝しようと願って集まった所が教会でした。専用の建物を持つようになったのは後の時代のことです。ですから初代教会という原点に帰れば、集まって礼拝を捧げるということが教会の土台です。私たちは教会といえば、すぐに制度や組織をイメージしてしまいがちですが、自覚ある人が集まって、そこで礼拝が捧げられれば、教会はそこに出来事として誕生します。

 さて、人が集められることを念頭に置いて、そこで共同のわざとして行われる礼拝の本質をいくつかの視点から考えてみたいと思います。祈り会では「恐れ」について話し合いました。神様が臨在してくださることを身体で感じる「畏敬の念」とも呼ぶべき意識です。これは礼拝を考察する際に、まず捉えなければならない要素だと思います。神様の前に額ずく心がなければ、礼拝は出来事とはならないでしょう。

 そして「畏れ」を自覚することと切り離せないものが「喜び」の感覚です。宣教方針でも触れていますが、使徒言行録2章には、信徒たちが日々心を一つにして『喜びとまごころをもって食事を共にし』というくだりがあります。礼拝を捧げようと集まる度に、信徒たちは神さまから招かれているという喜びを体験したに違いありません。ダビデは琴を奏でてほめ歌いましたが、神殿礼拝では、時にはダンスまで登場したようです。私たちも音楽礼拝を行いますが、これは文字通り神さまを礼拝する場で、踊り出してしまうくらいの喜びがあってもよいということでしょう。

 また宣教方針の礼拝の意味付けに「とりなし」ということを挙げておきました。「とりなし」とは、神様と人間の間の何らかの齟齬を取り繕って仲裁するという意味がありますが、イスラエルの歴史ではこの役目を古くから負っていたのが祭司です。祭司に関する歴史は非常に複雑多岐にわたり、時代による違いや周辺世界との関連も出てきますから、簡単なものではないのですが、ごく大雑把に言えば、祭司のわざの中心は「とりなし」ということができます。犠牲を捧げる儀式の意味も元々は人間が神様に罪を赦して頂けるように、といった願いが込められていました。祭司は、時代が下るにつれて神殿が出来て、そこで働く専門職のようになって行きますが、バビロン捕囚以降はユダヤ教そのものが一つの神殿国家みたいなものですから、そこでの祭司のわざは当然きちっと規定されるようになりました。

 私たちのプロテスタント教会は万人祭司を掲げて宗教改革をスタートしていますから、私たちは祭司の現代的な意義をきちっと捉えておく必要があります。では現代の私たちが祭司職を継承しているという意味はどこにあるのでしょうか? その具体的な一つのわざとして、私は礼拝における「とりなし」の役割を挙げたいのです。「とりなし」とは他者のために私たちが祈ることです。私たちは礼拝に集められますが、そこに出席できた人たちのためだけでなく、諸事情によって参加できなかった人たちのためにも礼拝を守るのです。教会に集うことができた人だけが恵みを頂くのではなく、来ることができなかった人たち、即ち他者のためにも恵み多かれと祈るのです。

 ボンヘッファーは教会の本質を「他者のための教会」と言い表しました。これは教会が他者のために「とりなしの祈り」を捧げる礼拝をする共同体であることを表わしていると思います。そしてその他者のための祈りの対象を教会員だけでなく、教会とはまったく無関係に見える人たちのためにも広げていくことがイエス様のみ心に適うことなのです。イエス・キリストの贖いのわざは、すべての人のためのわざです。そのことを思う時、決して大げさにではなく、私たちの教会は世界の人々のために祈る教会でありたいと思います。

 使徒パウロはきょうのテキストで、賜物を神様から賜わっている私たちのキリスト者としての生活の在り方など、いろいろなことを教えてくれていますが、賜物を頂いている私たちが歩むべき道は「愛」だと主張しています。イエスさまによってもたらされたその愛は、私たちが向き合っている対象へのひたむきな熱意と献身に他なりません。この熱意と献身が対象に向かわずに自己満足の方向に向いてしまった時、愛は偽りになるのだ、とパウロは述べます。ですから9節以下にたくさんの勧告が並んでいますが、これは言うなれば、私たちが教会でどのように振る舞うかに言及した勧告だと思うのです。教会は、この世の人たちの苦しみや悩みに敏感になって、その方たちの重荷を共に負うことによって初めてこの世と連帯するのではないでしょうか。

 15節をご覧ください。『喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい』とあります。「とりなしの祈り」は、この意味でまさしく祭司的な行為であり、他者のための贖いのわざだと思います。世界には様々な課題がありますが、私たちが教会の枠組みを超えて他者を覚えて祈る時に、私たちの教会には全世界的な規模で様々な課題が教会の礼拝の中に持ち込まれるようになります。教会の礼拝の祈りは内向的であってはなりません。大げさに聞こえるかも知れませんが、世界に向かって私たちは「とりなしの祈り」を捧げるべきなのです。

 もう一点、「献身」ということについて触れておきます。これも宣教方針の意味付けとして掲げてありますが、きょうのテキストの1節にこうあります。『自分の身体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。』 私たちが礼拝に参加する時、何か供え物を携えるとするならば、何にするかという問題です。パウロは「あなた方の体だ」と言うのです。この体とは私たちの全生活と言い換えてもよいでしょう。私たちが自分の全生活を神様の前に差し出すことが私たちのなすべき「霊的な礼拝」だとパウロは指摘しています。

 私たちの所有物はたかが知れていますが、そういう物ではなく、私たちの全生活を神様の前に差し出せというのです。全生活ですから、それは日曜日の午前の礼拝という特定の時間帯に限られないということになります。確かに私たちは日曜日の礼拝を大切に守るのですが、この礼拝を日々の生活の中に位置づけよ、という課題がここには示されているのではないでしょうか。ウィークデーの私たちはそれぞれの仕事にそれこそ体をもって従事します。世俗の世の生活のすべての時が、神様への供え物、つまり礼拝の時なのだ、という捉え方ができるでしょう。私たちの全生活は礼拝とつながっている、と考えたらよいのではないでしょうか。ですから、日曜日は聖なる日、ウィークデーは世俗の日と分けて、ウィークデーは礼拝のことなど何も関係ない日々なのだと割り切って生活するとしたら、それは本来何のために礼拝を守るのかという問題に抵触すると思います。

 すべての教会ではないのですが、ヨーロッパのカトリック教会はその礼拝堂をいつでも開放しています。信徒は自分の好きな時に聖堂に出かけてそこで祈ります。しばらく聖堂にたたずんでいるとチラホラと祈りに来る信徒を見ることができます。最近は会堂管理の問題で扉を閉める教会も増えたそうですが、それにしてもカトリック教会の扉の開放姿勢には何か私たちが学ぶことがあるように思えます。教会は世から召し集められた神の民の共同体ですが、礼拝を通して、また神の民は世に遣わされるのです。これは伝道のためとかではなく、教会が本来世に向かって建てられた世のための存在であるという意味です。もちろんこの教会の生命は、礼拝において与えられる神のみ言葉から来ます。


 
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