2014.8.10

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「キリストの弟子であること」

秋葉 正二

イザヤ書4,5-6マタイによる福音書5,13-16

 先週私たちは「平和聖日礼拝」を守りました。 教団の教会員である以上、日本基督教団が「平和聖日」を定めた経緯は知っておくべきです。 それは、1962年の教団総会に西中国教区が「平和聖日」制定の建議を提出したことが発端でした。 先週から今週にかけて、新聞紙上には原爆関連記事がたくさん掲載されていますが、西中国教区が建議を出したキッカケは、被爆地である広島を抱えていたことです。 キリスト教の重要なキー・ワードは「愛と赦し」ですが、原爆まで使われた第二次世界大戦という戦争が、この「愛と赦し」に背いていたと西中国教区の皆さんは考えたのです。 “アメリカはキリスト教国なのに、どうして原爆なんか落としたのだ”と言う方が時々おられます。 何教国であろうと、戦争をしている国はいつでも狂気を抱えているのです。 ですから、“アメリカはキリスト教国なのにどうして” と私たちが問えば、それは戦争の相手国である日本にも跳ね返ってくるはずです。 そこできょうは、「愛と赦し」を生み出すイエスさまの代表的な教えから学ぼうと思います。

 きょうのテキストにある「地の塩、世の光」という考えです。 戦争に関連させて言い換えると、「地の塩、世の光」の教えをきちんと捉えていないと、戦争を起こす側に人間は傾いて行くと言ってもよいと思います。 イエスさまが、あなたがたは地の塩である、また世の光である、と言われたのは、イエスさまの言葉を聴く私たちキリスト者こそが塩であり光であるということですが、私たちが塩や光の働きをするのは、自分自身のためではありません。 私たちを取り巻く人々のために塩や光として働くのです。 イエスさまが「あなたがたは」と名指しされたのは、教えを聴く私たちをある程度信仰に熟達した存在として認めてくださっているからなのでしょう。 言うなれば、求道中の未熟な段階ではなくて、イエスさまを信じる信仰に辿り着いた者として私たちに言葉をかけてくださっているのです。

 イエスさまはヨハネ福音書15章7節で、これは最後の晩餐の際の「ぶどうの木の譬え」の箇所ですが、『わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい』 と約束してくださっていますので、キリスト者のゴールというのは、〈その人の心の中にイエスさまの言葉が留まること〉に置かれていると考えてよいと思います。 そして、そうされた人は、この世では「地の塩・世の光」の役割を果たすはずだ、ということをイエスさまは指摘されておられるのです。 もっとはっきり言い切ると、キリスト者は自分のこの世での役割は「地の塩・世の光」だと徹することです。

 塩も光もある部分共通しているのですが、まず「地の塩」を考えてみましょう。 私は、「あなたがたは地の塩である」という言葉を、一種のエネルギーを神さまから頂くというふうに理解しています。 創造主である神さまが常に大本の命のエネルギーを放射してくださっていて、それが私たちの世界にも届き、それによって私たちが生き生きと活動し始める時に、私たちは「地の塩」になるのです。 食物や水を身体の活力源とするように、神さまからの命のエネルギー、つまり聖霊は私たちの心の活力源になります。 譬えていいますと、人間の心というのは、神さまからの命のエネルギーである聖霊を蓄える充電池みたいなものではないでしょうか。 問題は、人によって充電状態に差があるということです。 十分に命の糧を頂いている人もいれば、そうでない人もいます。 神さまの働きを私たちは目で見ることができませんが、聖霊を感じる感性は持っています。 ですから聖霊に満たされた、と感じることが信仰者には現実に起こります。 イエスさまは、人間のあらゆる精神活動の源が聖霊だということを明らかにされているのです。 ですから私たちは、神さまから命のエネルギーである聖霊をたくさん充電すれば充電するほど、それを他の人たちに分かち与えることができるはずです。 これをイエスさまは、命のエネルギーを十分に蓄えて、周りの人たちにも分かち与える人、「地の塩」と言われたのではないでしょうか。 「地の塩」はあくまでもイエスさまを信じる人の役割として表現されているのですが、実際にキリスト者である私たちがどういう塩の働きをするかは様々です。 イエスさまは 『塩に塩気がなくなれば云々』 と言われていますが、当時のパレスチナの人がそういう風に言われればピンと来たのです。 あちらでは塩は日本とは違い岩塩から取ります。 ところが岩塩というのは、外見上は岩塩でも中には雨によって塩分が抜け落ちているものがあるのだそうです。 塩は物を清めたり、腐るのを防いだり、溶け込んで食べ物に味をつけたりと、いろいろ重要な働きをしますが、塩気が無くなれば何の役にも立たないとイエスさまはおっしゃったのです。 生活上の一場面から引用した、実に巧みな譬えだと思います。

 キリスト者はそれこそ塩加減一つで持ち味を十二分に発揮できるということでもあるでしょう。 キリスト者が「地の塩」として働く時には、おそらく自分の見える形は失って浸透して行くのだろうと思います。 自分というエゴを出さずに、他の人の味付けをしたり、腐り止めになったり、ということです。 さて、最初に戦争の関する事柄に触れましたが、教会が戦争にハッキリと反対できないとするならば、それはおそらく普段霊的な命を充電する作業を少しおろそかにしているからではないでしょうか。 教会生活を送るというのは、神さまからの命を充電するということです。 普段意識を霊的に保っておかないと、いざという時、この世の事柄に自由に反応することができないのです。 もし私たちがイエスさまの愛と赦しの世界からズレ始めなら、私たちはこの世の論理で物を言い、実行するようになるでしょう。 この世の判断基準に際限はありませんから、「正義の戦争遂行の必要性」でも「平和を実現するための軍備拡張」でも何でもありです。 かつて積極的平和主義を唱えて戦争に突き進んだのはナチスでしたが、今どこかの国の総理も「積極的平和主義」と盛んに強調しています。 日本基督教団はかつて信仰の世界にこの世の論理を持ち込んで戦争に協力しました。 この悔い多き歴史を私たちは忘れるわけにはいきません。

 さて14節以下には光についても述べられています。 『家の中のものすべてを照らす』 とありますから、何か強力な発光力みたいなことがイメージされているのでしょう。 マタイ福音書においては普通光はイエスさまご自身を表わしますから、キリスト者がイエスさまのからの光を頂いて世をあまねく照らすという全体のイメージが語られているのだと思います。 山上の町の話と、光と燭台の話がありますが、これは元々別な話があったのでしょう。 聖書学的に言えば、福音書記者マタイによって別々な話が結びつけられたということになります。 当時日常生活の中で燭台をどう用いていたかということが現代の私たちにはよく分かりませんから、イエスさまのこの譬えに対して、ひらめき的に反応することは現代の私たちには不可能でしょう。 しかし、とにかく、イエスさまに連なっている人は、その光を反射してこの世によき影響を与えることができるということが言われているのです。 しかもイエスさまが私たちに向かって、「あなたがたは世の光だ」ともおっしゃっているのです。 私たちはキリスト者としての責任をもって、イエスさまのお言葉を受け留めるべきです。 光はこの世を明るく照らすものですから、人が殺し合う戦争という暗い世界に対して、私たちはイエスさまから頂いた明るい光を当てる行動が求められているのです。 人々の前に私たちの光を輝かすことは、具体的に言えば、この国に二度と戦争を起こさせないように行動することに繋がって行くと思います。 イエス・キリストの弟子であることは簡単なようで実はなかなか難しいことです。しかし「愛と赦し」のイエスさまから私たちはキリスト者として招かれたのですから、その道をまっとうしたいと願います。


 
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