2014.7.13

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「モアブの女の血筋」

秋葉 正二

ルツ記4,18-22ヨハネによる福音書4,7-14

 ルツ記は小さな書物ですが、読む者の心を打つ、文学的にもすぐれた作品です。 皆さんの中にはルツ記が「なぜこんな場所に、つまり士師記やサムエル記のような前期預言者と呼ばれる文書群の中に置かれているのだろうか?」と思われた方がおられるかも知れません。 最初に少しだけそのことについて触れておきます。 旧約聖書の書物群はもともと三つに分けられていました。 「律法」と呼ばれるモーセ五書が一番目、二番目は「預言者」と呼ばれる文書群で前期と後期の預言書がこれに属します。 最後の三番目が「諸書」と呼ばれる言わば律法・預言者以外の雑多なグループです。 ルツ記は旧約原典では三番目の「諸書」に属します。 ところが旧約聖書がへブル語からギリシャ語に翻訳され「70人訳」と呼ばれる聖書が誕生した際、異邦人向けに、各文書を過去・現在・未来、つまり歴史書・文学書・預言書という具合に配列替えされてしまったのです。 これは便宜的配列替えですが、その影響が今日の私たちの旧約聖書の配列に残っているというわけです。

 ユダヤ人たちは本国人であろうとディアスポラであろうと、すべてヘブル語を学び、原典聖書に親しむというのが原則でしたが、実際に読みやすいギリシャ語訳聖書が出来ると、皆それに飛びつくこととなりました。 12使徒を中心にした初代教会がエルサレムに成立した時、それは文字通りユダヤ人の教会でしたが、福音はすぐにディアスポラのユダヤ人たちに広まり、やがて彼らを経由して異邦人へと拡大していき、世界宣教の始ったのですが、  ディアスポラのクリスチャンや異邦人にとっては、ギリシャ語訳聖書は最初から自分たちの日常語の聖書でしたから、これが実質的には唯一の旧約聖書となったわけです。 さてルツ記ですが、時代背景は士師の時代と呼ばれる紀元前13世紀の終わり頃から11世紀まで、イスラエル王国が成立する前の時代です。 きょうのテキストを読むためには全体の内容を把握しておく必要がありますので、かいつまんで流れを説明しておきます。

 飢饉があってエリメレクという人が妻ナオミ、二人の息子を連れて流浪し、隣国モアブに住むようになります。 エリメレクはその地で死ぬのですが、息子たちはそれぞれモアブの女性と結婚して一応の落ち着きを得ます。 ところが不幸なことに二人の息子たちも死んでしまうのです。 すっかり絶望したナオミは故郷ベツレヘムへ帰る決心をします。 故郷が飢饉から復興したからです。 二人の嫁もナオミに従おうとしますが、ナオミは嫁たちに「私はもう年とってあなたたちを幸せにしてあげることができないから、あなたたちはこの故国に留まって身を固めて幸せになりなさい」と諭すのです。 兄息子の嫁はナオミの説得に泣きながら従いますが、弟息子の嫁ルツは老いた義母を見捨てることなどできないと言い張って、ナオミについて来たのでした。 ちょうどその頃は大麦の刈り入れが始まる時期で、ルツはナオミに申し出て早速落ち穂拾いに出て行きます。 麦の落ち穂を貧しい人たちに自由に拾わせることはイスラエルの掟でしたから、それが出来たのでした。 ルツが落ち穂を拾いに行った畑はたまたまボアズという人の畑でした。 ボアズはルツが懸命に働くのを見つつ、異国人なのにその姑に尽くす姿に感心します。 そこで何くれとなくルツに便宜をはかってやりました。 大麦の収穫が終われば、今度は小麦の落ち穂拾いをさせたのです。 このボアズはナオミの亡夫エリメレクの親戚筋でした。 イスラエルにはある人が没落して土地を売らなければならなくなった時、その親戚がその土地を買い取り、神から与えられた先祖伝来の土地が赤の他人や外国人の手に渡らないように防ぐ習慣がありました。 ナオミはルツを通してボアズがその買取人の権利と義務を果たしてくれるようにはかったのです。

 ボアズはナオミやルツの誠実さに打たれて正規の手続きを経てルツを妻とし、その家と財産を守ったというのが話の結末です。 話の展開自体に心を打つものがあり、確かに文学的にも価値ある作品だと思うのですが、この書物は最後の部分でもっと重要なメッセージを発信しています。 それこそがきょうの礼拝テーマに関わっています。 それは何かと言えば、書物のまとめを系図で結論づけたことです。 22節にはこうあります。 『オベドにはエッサイが生まれ、エッサイにはダビデが生まれた。』  オベドはボアズとルツとの間に生まれた男の子です。 そのオベドにダビデの父エッサイが生まれた、というのです。 つまりオベドはダビデのお祖父さんになり、ルツは曾祖母、ひいおばあちゃんになるわけです。 ダビデは誰もが知っている通り、イスラエル民族の理想の王です。 そのダビデが異国人であるモアブの血筋を引いていると最後に結論しているのがルツ記なのです。

 エズラの宗教改革というのをご存知でしょうか? エズラと言う人物については諸説紛々ですが、捕囚期後の宗教改革者です。 エズラは書記官としてペルシャ宮廷でユダヤ人の諸問題を担当した官吏でした。 彼はペルシャ王から、律法に従ってユダヤ人共同体の諸問題を整理する任務を認可され、一隊の帰還者を引き連れてエルサレムに帰ることができたのですが、その時彼は集まった会衆に律法を読み聞かせ、仮庵の祭を祝わせました。 これはネヘミヤ記8章に書かれています。 その結果として、異邦人との結婚が禁じられたことがエズラ記9、10章に記されています。 つまりエズラは、祭儀法規をも含めた全律法に対する忠誠をもととして、捕囚から解放されたユダヤ人の新しい信仰集団に律法への服従に規定された新しい生き方を示したと言えます。 エズラは異邦人の妻とその子供たちを強制的に離縁させましたから、この改革に則れば、ルツのような女性がボアズの妻になることはあり得ません。 また申命記23章2節以下には主の会衆に加わる資格が書かれていますが、そこではアンモン人、モアブ人を永久に閉め出すことが述べられています。

 ルツ記の凄さにお気づきでしょうか。 つまりルツ記はエズラの宗教改革や申命記律法に真っ向から抗議しているのです。 きょうの礼拝は〈外国人の人権擁護のために祈り、民族主義と平和を考える〉とテーマを掲げています。 ルツ記はまさに他民族との平和共存は可能なのかという難題に、ダビデの系図を掲げて応えているのです。 自民族を中心にして物事を考えていく在り方から、もっと自由な広い世界観へと抜け出していくヒントをルツ記は与えてくれていると思います。 預言者たちも徐々に自民族だけのシャロームだけではなく、他民族をも視野に入れたシャロームへとその信仰を高めて行きました。 旧約聖書の凄いところは、律法中心に凝り固まっていたユダヤ人たちが預言者を中心にして、自分達の在り方を顧みることから始めて、新しい世界観を展望するようになっていく点です。 排他的民族主義をひっくり返すような預言をアモスがしていますし、イザヤは先ほど「交読文」で読み合せたように軍備ではなく神の支配によってのみ実現される平和を謳っています。 そうしてこのような旧約の信仰思想の流れを、イエス様がサマリア人女性との出会いで見事に完成させていくのです。 歴史的な事情もあって、長い間敵対してきたサマリア人と、しかも一段低く差別されていた女性と、いとも簡単にイエス様は民族的垣根を越えてしまわれました。 ヨハネ福音書のこの記事を読む度に、私は聖書を読むようになってよかった、イエス・キリストを信じる信仰を与えられてよかった、とつくづく思います。 私たちキリスト者が聖書を持っているということはどんな宝物よりも優れたものを神様から与えられているということです。 ですから聖書に導かれて歩まなかったら、神様を悲しませることになります。 私たちも聖書に導かれて、狭い民族主義から抜け出しましょう。 今や世界は全地球的に繋がっています。 インターネットのみならず、民族や国の枠を超えて、世界の人々が手をつながなくてはいけません。 この信仰の幻を仰ぎつつ私たちキリスト者は進みます。


 
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