2014.4.20

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「新しい命が始まる」

秋葉 正二

エゼキエル書37,1-6; マルコによる福音書16,1-8

 マルコ福音書の復活の朝の描写は、「安息日が終わると」という書き出しで始まっています。ユダヤ教の律法では安息日には何もしてはいけないわけですから、十字架刑によって死んだイエス様の遺体をアリマタヤのヨセフは忙しく墓に納めたことでしょう。安息日の間は誰も何もしません。そして週の初めの日、即ち日曜日の早朝、待ちかねたようにイエス様に最後まで従い通した女性たちが遺体に香料を塗るという処置のために墓に向かいました。マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、そしてサロメという3人の女性たちです。彼女たちはこの時だけ主イエスのお世話をしようとしたのではなく、十字架上で主が息絶える時にもそれを見守っていた人たちですから、イエス様に対する敬慕の情は中途半端ではありません。

 福音書記者ヨハネは特にマグダラのマリアにスポットライトをあてていますが、事情がどうであるにせよ、男性の弟子たちが肝心な時に見当たりません。そこには、聖書が現代の私たちに訴える事柄の重要な鍵があるように思えます。ご存知のように、福音書のイエス様の公生涯と呼ばれる活動では、いつも12弟子と呼ばれる男性グループが中核として登場します。この流れに従えば、当然、12人全員とは言わないまでも、ペテロかヤコブぐらいはこの場面に出て来てもよさそうなものです。しかし、出てきません。これは福音書を読む者に戸惑いを与えます。当然ペテロやヨハネはいるだろうという読者の予想を裏切っているからです。そういう意味では聖書は私たちの予想通りには展開しません。それはもしかすると、人間が常識的に物事を考えるようなところに神様の真理はないよ、ということなのかも知れません。墓に向かう女性たちが何を考えていたかは3節から分かります。“誰が墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか"。女性が3人合わさったところでその腕力は知れていますから、墓の入り口に置かれている大石をどうどけたらいいのか心配だったのです。3節のこの会話は明らかに女性のものだと思います。足かけ三日を経た遺体に油を塗っていまさらどうなるのだ、という意見もあったと思いますが、彼女たちのイエス様に向けた想いは尋常ではありませんから、安息日が明けるのを待ちかねて墓に急いだのです。安息日が明けるのを待ちかねて墓に急ぐ心情というのは、当の彼女たちにしか分からない感覚でしょう。

 とにかく、私たちは弟子集団の中核であった男性たちがこの大事な場面にまったく記録されていないということを忘れてはなりません。それは私たちの思いをはるかに超えたところで神様のみ業はなされるということかも知れません。さて、女性たちが墓に到着してみると、どんなことが起こっていたかが4節以下に書かれています。既に石がどけてあって、墓の中に白い長い衣を着た若者が右手に座っていたとあります。この若者が誰なのかは分かりません。天使であったとか、神様の使いであったとか言われています。5節の終わりにありますが、彼女たちは「ひどく驚いた」わけです。若者の存在にも驚いたかも知れませんが、もっと驚いたことは若者が告げた内容であったことが8節から分かります。それは復活の使信でした。この告知に彼女たちは震え上がりました。私たちにはちょっと不思議ですが、キリストの復活がどのように起きたかという点については、何も語られていません。語られたことは、イエス様は既に復活されてここにはいないこと、そしてガリラヤで再び会えるということだけです。復活されたということを聞いて驚くのは、この場面の女性たちも現代の私たちも同じでしょう。死んだ人間が再び蘇生することなどあり得ないという常識的な判断がそこにあります。この部分はとても重要です。

 先日陶山先生から上原教会史を貸して頂いたのですが、その中に椎名麟三さんが上原教会を離れていった理由がしるされている箇所がありました。それによると、どうも椎名さんは復活をそのまま信仰的に受け入れたかったようです。しかし当時赤岩先生は信仰のキリストと歴史のイエスを明確に分離して理解され始めていたので、両者は袂を分かつことにならざるを得なかったようです。まァ、その辺りの事情は後で陶山先生からお聞きください。もう30数年前になりますが、私は新潟市にある敬和学園高等学校の寮監をしながら、聖書科の授業を担当していました。あの頃生徒達から度々受けた質問は「復活なんておかしい」というものでした。この疑問を私は否定しませんでした。誰でも復活の記事を最初に読んだ時はそうだろうと思ったからです。しかし今理解できなくてもあきらめないで欲しいとだけは言いました。やがて信仰を持った時に、分かる時が来るかも知れないから、と付け加えました。復活の使信を理解するというのは、他人から説明を受けて納得できるものではありません。自分自身で、もしかして自分にも関わりがあるかも知れないと思って少しずつ理解しようとする努力をし続けるしかないのです。高校生の場合、彼らは「科学的じゃない」という理由を持ち出していました。まァ、それは当然で、彼らは科学を前提として勉強しているからです。高校生の理科実験はカリキュラムに従って行うだけですけど、一般の科学者は実験を繰り返してよく観察し、そこから一つの法則性を見出します。ですから復活の出来事はそういう意味では科学の対象になりえないことは明らかです。

 では、聖書は何を言っているのだということになりますが、聖書が伝える復活は過去において起こった一回限りの出来事だということです。一回限りの出来事というのは歴史の問題です。実験を繰り返して真理を発見する科学とはちょっと違います。歴史学でも「歴史は繰り返す」という言葉がある通り、歴史から様々な教訓を学べますが、聖書が告げているのは一回限りの歴史です。自然科学で実験を繰り返すように、イエス様の復活を繰り返して学ぶわけにはいきません。それでは一体歴史におけるこの一回性の出来事で、科学の実験に相当するものは何だろうかと思いました。それは歴史におけるその一回性の出来事に立ち会った人たちの証言ではないでしょうか。聖書で復活の記事に出会う時、そこに残された証言がとても重いのです。信仰者はその証言に導かれて復活を理解するのではないでしょうか。だからこそ、すぐには信じられずに驚きと恐れ、疑いと不安にかられた3人の女性たちをしっかり見つめることが一層重要になって来ます。すぐには理解できなかったけれども、薄皮が剥がれていくように、少しずつ少しずつ、イエス・キリストの真理が、最後の十字架まで従い続けた女性たちに明かされて行く様子を、現代の私たちは聖書を通じて見させていただいているのだと思います。そこに本来居るべき12人の男性たちが居なかったということは、そもそも常識を覆す聖書の不思議な出来事の序章だったのです。人間の常識を覆すような出来事の展開を通して、その不思議さの中に深い真理が隠されていることを思わざるを得ません。

 考えてみれば、教会が2千年もの間、途切れることなく毎週日曜日の朝に礼拝を守り続けてきたのは、実はこの3人の女性たちが体験した出来事に由来しているわけです。「土曜日の礼拝じゃダメなのですか?」という質問も受けたことがありますが、やっぱりこれは変えられないと思います。なぜなら、礼拝の業そのものが、復活体験の上に成り立っているからです。私たちが毎週礼拝を守るのは、復活を記念するためです。2千年前のある週の初めの日の早朝に起きたこと、それは新しい歴史、新しい時のスタートでした。女性たちはガリラヤでイエス様に再会できるという約束の言葉を与えられます。ガリラヤはこの3人の女性たちをはじめとする弟子たちの故郷であり、日常的な生活の場です。女性たちに与えられた約束の言葉が、時を超えて今、私たちにも告げられているのです。私たちは3人の女性程信仰熱心ではないかも知れませんが、ガリラヤで男性の弟子たちにも顕れてくださったイエス様ですから、きっと私たちにも復活信仰の力を授けてくださると信じています。ですから復活を科学的に証明しようなどということではなく、復活の告知を私たち一人ひとりがどう聞くかが問題です。イエス・キリストの復活は、人間を縛りつけている死に対する勝利です。

 聖書において死は生の断絶ではありません。連続です。もう一点、パウロが語ってくれたように、死が人間の罪と密接に関係することも忘れてはなりません。「人はどうして神の前に正しくありえようか」あるいは「罪の支払う報酬は死である」という言葉も忘れないようにしたいと思います。主イエス・キリストが今も私たちと共に生きておられることを信じて、日々の歩みを進めましょう。復活の希望の福音にこそ、キリスト者の力と命があり、それは私たちを励まし支え、生かします。

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