2014.2.2

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「あなたの神を愛しなさい」

秋葉 正二

申命記6,1-9; マタイによる福音書4,10-11

 先日は、日本古来の多神教こそ包容力がある教えで、唯一神教は狭く排他的だとする主張がこの国で目立つようになっている、というお話しをしました。きょうの話も少しこれに関わります。申命記のテキストの小見出しは「唯一の神」となっていまして、聖書の神さまが唯一神であることが再確認されています。神さまが命じる戒めと掟と法をしっかり守って生きて行くならば、乳と蜜の流れる土地で祝福されますよ、ということが3節までに書かれています。続く4節5節にはイエスさまも引用された有名な言葉があります。イスラエルの神は唯一の主であることと、この神さまを誠心誠意愛しなさいという命令です。「主」と訳されているへブル語はヤーウェです。ですから「私たちの神ヤーウェ」とか、「ヤーウェは唯一です」、と訳してくれれば、ここで言及されている神さまはヤーウェというお方なのだな、ということがはっきり分かります。

 人間関係では、直接相手に名前を呼びかければ、その人との距離がぐっと近づいたように感じますが、相手が神さまでもその点は同じなのではないでしょうか。私たちがイエス・キリストに親近感を抱くのは、「イエスさま」と気さくに呼びかけることができるからです。しかし、旧約の世界の神さまはちょっと厳かな存在で、気楽に神の名を口にすることは憚られました。ヘブル語の聖書には神さまの名前を表わす神聖4文字と呼ばれるアルファベットがあります。しかしイスラエルの人たちはその神名が出て来ると、それをそのまま発音しませんでした。アドナイ(我が主)と読み替えたのです。ずっとそうしてきたために、いつの間にか本来の発音が分からなくなってしまいました。後世の学者はエホバという発音だろうと推測しました。文語訳聖書などではエホバです。今ではこれは間違いであるとされ、ヤーウェあるいはヤハウェと読まれます。僕の神学校時代の恩師であり、砧教会の2代目の牧師で、旧約学会の会長を務められた西村俊昭先生は、原書講読ではきちんとアドナイと発音されておられました。とにかく4節ではこのヤーウェの神さまが唯一だと強調されています。

 カナンの先住民はじめ、古代オリエントの宗教はほとんどが多神教ですが、なぜイスラエルだけが自分たちの信じる神さまは唯一だと強調したのでしょうか。これは神さまの認識の仕方、神さまに向き合う自分の在り方に関係しています。イスラエルの人たちは徹底的に己の信じる神さまの前で、自分の在り方を追求しました。5節に「主を愛しなさい」とあるのですが、この愛するという語は本来契約関係の用語です。つまり契約の神さまに対する自分の忠誠度・信頼度が問題にされています。大勢の神さまに向き合っているとどうでしょうか、私たちはきっと「この神さまにはこれくらいでいいや」とか「この神さまならばこのくらいは見過ごしてくれるだろう」とか、いろいろ自分の都合に合わせて、それぞれの神さまに向かい合うだろうと思うのです。向き合う神さまがいろいろだと、どうしても明確な神様像は定まりません。そこで自分を軸にして、それぞれの神さまに対処するということになります。ヤーウェの神さまは違うのですね。 ひとりの神さまとじっくり向かい合うわけですから、自分の在り方がすべて見られてしまう、ごまかしてさらけ出せる部分だけさらけ出せばいいというわけにはいかなくなります。

 6節7節を見ると、このことを日常生活の中で徹底しなさいと命じられています。「心に留めて」というのは、片時も忘れず、書いたり語ったりしながら、繰り返し覚えなさい、ということでしょう。しかもそれを子供たちにも教えなさいと言っています。なぜこれほど一人の神さまにこだわって、魂を尽くすほど愛しなさいと言うのでしょうか。その答えは、2節3節にあります。イスラエルの民が約束の地で栄えて長く生きるためです。そこには出エジプト、荒野の厳しい生活を振り返る視点があります。イスラエルの民は荒野の生活で唯一の神さまと出会い、契約を結んだからだと言うのです。約束の土地は乳と蜜が流れる豊潤な土地ですから、これまでの荒野における厳しい生活環境とはまったく異なります。これから乳と蜜の流れる土地に入るということは、まず生活環境が百八十度変わるということです。これは単なる環境の変化ではなくて、イスラエルの人たちにとっては、新しい文明の世界に飛び込んで行くという意味がありました。つまり新しい農耕文化の中で生きていくようになっても、これまでと同じようにひとりの神さまを愛し続けていくことが出来るかどうかの分かれ目だったわけです。農耕文明は日々の生活の安定を意味していますから、イスラエルの民にとっては有難いことです。しかし、そうした恵まれた環境になっても、これまでと同じ姿勢でひとりの神さまを求めて歩むという信仰生活は大丈夫なのか、という問題が提起されています。荒野という厳しい自然の中でひとりの神さまを求めたと同じ姿勢で、農耕文化の中でも信仰生活を続けていけるのかどうか、ということを確かめようとしているわけです。十分に食べていけるということが人間にどういう影響を及ぼすようになるのか、そこに不安はないのか、そういう問題です。

 ところで、先の大戦が終わった後、日本は食べることに精一杯でした。その時、多くの人は、もう二度と戦争は嫌だと決心して、平和憲法を受け入れたはずです。当時の文部省が発行した「あたらしい憲法の話」という小冊子があります。復刻版が出たので、僕も読みましたが、そこには平和に向けての希望が溢れています。戦後の食糧難の時代に抱かれた平和への希求が、今70年後、十分に食べられる時代にどうなっているかと言えば、特定秘密保護法や改憲志向です。申命記記者が心配しているのは、現代に置き換えれば、そういうことです。農耕と言う先進文明を受け入れたとして、じゃあそこで神さまを愛し抜くことはどうなっていくの? と心配しているのです。

 ですからくどいほどに、「心を尽くして主を愛しなさい」という警告が出されるのです。申命記の信仰者がここで確認していることは、自分たちの神は荒野から農耕に生活の場が移ろうとも、つまり歴史に様々な変動が起きても、それを貫いて唯一の神で在り続け、歴史を導いて行かれる神さまなのだ、ということです。時代のより政治的・社会的状況は変わります。そこで世界の潮流の変化を抜け目なく追いかけることが出来たとしても、自分の信仰の存在証明が出来るとは限らないのです。だから、神々を時代に合わせて乗り換えていくのではなく、人間として一貫性を誠実に尊重できるかが問われているのです。イエスさまは毅然とサタンの誘惑を退けられました。私たちはそのイエスさまの人間解放の福音を聞いているのですから、多神教という古い神々の復活を図るようなやり方には巻き込まれまいと思います。次々と新しい時代の状況が巡って来ますが、それに向き合いながら、唯一の神さまを信じる真実を貫いて行きたいと願っています。

 

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