2014.1.26

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「権威ある者」

廣石 望

エレミヤ書1,4-10; マルコによる福音書1,21-28

I

 権威とは何でしょうか?――ある辞典には、「自発的に同意・服従を促すような能力や関係のこと。威嚇や武力によって強制的に同意・服従させる能力・関係である権力とは区別される」とあります(日本語wikipediaより)。

 1970年代の学生たちの反乱、1990年代以降のグローバリゼイションの進展とともに進んだ価値の多様化の中で、現在ではあらゆる「権威」に――しばしば「権力」と混同されるかたちで――疑いの眼差しが向けられています。

 他方で、他人から羨ましがられる存在という意味の「人気者」ならば、テレビや政治の世界にたくさんいます。例えば学校のクラスには苦労せずによい成績をとり、仲間たちや教師から一目置かれ、皆を笑わせることが巧みで、それだけに決して逆らってはならない一部の生徒たちがいて、そうでない生徒たちの間には厳然たるランクの違いのようなものがあるそうです。この不可思議なクラス内階級制度は、「スクールカースト」と呼ばれます。――まるで「いじめ」の背景説明のようですね。

 あるいは大学の教職員向けの研修で、パワーハラスメントが典型的に起こりやすい領域は「教育」「スポーツ」そして「宗教」だと聞いたことがあります。「権威」にもとづく上下関係が生じやすい場所だからです。

 ことほどさように権威とは胡散臭い物でもあります。――イエスは「権威ある者」として教えた、とマルコ福音書にあります。イエスの権威とは、いったい何なのでしょうか? それは私たちに何を意味するのでしょう?

 

II

 文脈を見てみましょう。

 私たちのテキストは、マルコ福音書のまだ最初の方です。プロローグでは、イエスの出現が洗礼者ヨハネによって預言され、ヨハネから洗礼を受けたイエスに向かって、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が天から下ります。そして、この神の息子イエスはサタンの誘惑を受け、おそらくそれをもちこたえました。ここまでが、福音書の主人公であるイエスを紹介するプロローグです。

 物語の本体は、イエスがガリラヤで「時は満ち、神の国は近づいた」と宣言して、宣教活動を開始するところから始まります。イエスが最初にしたのは、漁師たちを弟子へと召すことでした。続いて私たちの物語では、イエスはガリラヤ河畔の村カファルナウムの会堂で安息日に教え、同時に悪霊祓いの奇跡を行ったとあります。そしてこの教えと奇跡を指して「権威」という表現が使われます。すなわち「イエスは権威ある者としてお教えになった」(22節)、あるいは「これは…権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く」(27節)。

 

III

 続いて私たちのテキストの特徴を見てみましょう。

 ここでは悪霊祓いの奇跡物語(23-27節)が中心にあり、その前後をイエスの教え(21-22節)と彼についての評判(28節)が取り囲んでいます。「教え」の具体的な内容は、明記されていません。

 そのさい「権威」という語は、先に述べたように〈教え〉と〈奇跡〉の両方を指して現れます。しかも奇跡については「権威ある新しい教え」(26節)と、つまり奇跡を指して「教え」という言葉が使われています。汚れた霊につかれた男は、イエスの正体を見抜いて「神の聖者」と呼んでいますが、これも権威に関わる発言であると言えるでしょう。

 イエスの「教え」の内容が、まだ「悔い改めて福音を信じなさい」(1,15)としか言われていない段階で、またカファルナウムの会堂での教えの内容について何も紹介されていない段階で、マルコによる福音書はイエスの治癒ないし悪霊祓いの奇跡について語り、これを「権威ある教え」と呼んでいるわけです。

 いったい教えと奇跡は、どのような関係にあるのでしょうか?――ひとつのありうる理解は、イエスの教えの正しさを奇跡行為が証明するというつながりです。しかしどうやら、イエスの教えには、彼の奇跡行為が重要な構成要素として含まれると見るのがよさそうです。私たちの物語以降、4章で「種蒔き」の譬えが始まるで、マルコ福音書がイエスについて物語るのは、ひたすら奇跡物語、具体的には治癒奇跡と悪霊祓いばかりです。

 となると、「福音を信じよ」というときの「福音」とは、言葉でなされる教示という以前に、何よりも病いを癒し、悪霊の支配からの解放を告げるできごとを指している、という印象が浮かんできます。すると福音とは病気を癒す力のことなのです。

 

IV

 イエスが生きた時代のユダヤ教の伝統にあって、「伝統的な権威」にはどのようなものがあったでしょうか? イエスの教えが「新しい」と形容されるのは、どうしてなのでしょうか?

 例えば「教師(ラビ)」たちは、先人の教えを権威として引用しながら、自らの主張を展開しました。例えば「ラビ誰それは、ラビ誰それの名によってこう言った」というスタイルで。つまり引用される碩学の権威によりつつ――その権威ある学者も先行する権威を引用するのですが――語るのが〈権威ある教え〉でした。

 教師たちは、そのさい教室で教えるのが通常でした。彼らの教授活動は社会規範を保ち、社会のモラルを安定化させる役割を果たしたことでしょう。

 次に「預言者(ナービー)」たちは、どのように語ったでしょうか? 彼らに特徴的な発話は「ヤハウェは言う」です。これは「私」ではなく、イスラエルの民族神「ヤハウェ」が言うという意味ですから、再び形式的には引用です。しかし現象としては〈憑依現象〉、つまりある神格が預言者の人格に〈乗り移り〉、その人格を通してあるメッセージを伝えるものと見てよいでしょう。こうした預言者の発話活動は民衆を引きつけ、社会や政治の現状を批判し、社会に流動化をもたらす働きを発揮しました。

 そして最後に「メシア」は最終決定的な神の使者でした。メシアに期待されたのは「王国」の樹立です。外国支配からの解放をもたらし、平和な王国を実現し、その王権は未来永劫に持続すると期待されていました。

 

V

 以上のような伝統的な権威と比較して、イエスの特徴はどこにあるでしょうか?

 第一にイエスは、しばしば「(アーメン)私は君たちに言う」という表現で、彼の発話を始めます(新共同訳では「はっきり言っておく」と意訳されます)。これは権威ある者としての発言でしょうか? 神の子イエスの権威的な断言を、人はありがたく押し戴くより他ないという意味なのでしょうか?

 おそらく違います。「私は君たちに言う」とは、〈私はおよそいかなる権威によっても言わない〉という意味です。つまり偉大な教師の名によっても、預言者の名によっても、神の名によっても、メシアの名によっても言わない。むしろ、ただの私として言う。

 「アーメン」は――現在の教会におけるのと同様に――祈りの結びにその内容に同意する会衆の応答表現で、「まことに」という意味の言葉です。ときにイエスは「私は君たちに言う」の直前に「アーメン」ないし「アーメン、アーメン」と言います。これはとても奇妙です。いろんな解釈がありますが、やはり「本心から言う」が原義であろうと思います。つまり人が言葉を使うときは、何の権威にもよらず、ただ心から真理を言うためにこそ使う、という態度の表れです。――すると「アーメン、私は君たちに言う」とは〈私は本心から言うから、聞いて下さい〉という意味になるのではないでしょうか。

 第二にイエスは、しばしば譬えを用いて人々に語りかけました。ラビも譬えを用いますが、それは聖書箇所を解釈するためであり、きっちりしたお作法があります。これに対してイエスの譬えはもっと自由です。イエスは律法を解釈するためではなく、神の前で生きるということが何であるかを理解させるために譬えを語ります。そして彼の譬えは、そのお話しを聞いた人が「閃いた!」と感じたとき、つまり聞く人が自分の生き方を新しく理解できたときに初めて〈成功した〉と言えます。言い換えるならイエスの譬えは、語る者の身分や地位ではなく、語られる内容の明らかさや真実さに重きを置いた話法です。

 そして第三にイエスが行う典型的な象徴行為は、罪人といっしょに食事をしたり、病気を癒したり悪霊を追い祓ったりすることです。そのさい罪人との共同の食事は「罪の赦し」に関する預言ではなく、その宣言および実践でした。治癒奇跡や悪霊祓いは、悪魔の支配からの解放についての預言ではなく、じっさいの治癒そのものでした。つまり救いはそこに到来したのです。

 「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、らい病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。」(マタイ11,4-5)――しかもイエスはそのさいに、自分という人格そのものよりも、むしろ自分を通して生じている現実の方に注目するよう促しています。自分ではなく、自分を通して働く神が重要だからです。

 他方、メシアに期待されていたのは支配権を確立することでしたが、病気治癒や悪霊祓いはとくに期待されていませんでした。

 

VI

 以上のようなイエスらしい特徴は、私たちの物語以降、マルコ福音書の3章末尾までを見ても一貫しています。

 イエスは、およそいかなる権威づけも自分については行いません。それでも彼は、人を支配することを悪霊に禁じ、その人から出てゆくことを命じます。

 その権威ある行動の受益者とは、何よりも「病人」です。そこにはレプラ患者もおり、驚愕すべきことにイエスはその人に触れて治します(1,41)。さらに「悪霊憑き」がいます。悪霊はイエスの正体を知っており、イエスに従います(1,243,11)。こうしてイエスの行動の受益者は社会の弱者、被差別者です。この人々を社会的かつ宗教的に排除することで、当時の社会秩序は文化的宗教的に成り立っていたのですから。そしてイエスは当時の社会における清さと穢れの境界線をかき乱したのです。

 これに対しては肯定的な反応と否定的なそれとがありました。肯定的なものから見るなら、「人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったから」(1,22)と言われます。イエスが悪霊に対して行使する命令権を見た人々は、「これはいったいどいうことなのだ」(1,27)と驚きました。「町中の人が、戸口に集まった」(1,33)とあります。あっという間に、「みんなが(あなたを)探しています」(1,37)という状態になり、癒されたレプラ罹患者は「立ち去ると、おおいにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた」(1,45)とあります。肢体不自由者の癒しを見た人々は「このようなことは、今まで見たことがない」(2,12)と叫びます。――こうしてガリラヤ、エルサレム、イドマヤ、ヨルダン川の向こう側、ティルスやシドンの辺りから「おびただしい群集が、イエスのしておられることを残らず聞いて、そばに集まってきた」(3,7-8)。つまりユダヤ人ばかりか、周辺の外国人までがイエスのもとにやってきた、というのです。

 他方で同時に、イエスの行動は周囲の人々の、とりわけ宗教的に〈まっとう〉な人々から大きな非難と反発を受けました。「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」(2,16)。「この人は…神を冒涜している」(2,7)。「なぜ、…安息日にしてはならないことをするのか」(2,24)。ファリサイ派とヘロデ党の人々は、「どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた」(3,6)。あるいはイエスは「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」(3,22)、つまりある種の黒魔術のようなものだ、という誹謗中傷がありました。たしかにイエスと悪霊はやたら話しがよく通じています。悪霊はイエスの正体をすぐに理解し、「出ていけ」と言われれば素直に従うのですから。

 

VII

 さて、イエスの権威とは何であったでしょうか? それはマルコ福音書によれば、およそ権威なるものをカサに着ることをしない人の自由な態度を意味します。具体的にはそれは、何よりもまず弱者のための癒しの力でした。イエスの権威は悪霊を支配し、人を悪霊の支配から解放するためのものでした。

 私たちにとってこの権威は何を意味するでしょうか? 第一にそれは、私たちもまたイエスや神に向かって「私を癒してください」「私を穢れと血迷いごとから解放してください」と願ってかまわない、ということを意味します。そして治していただけたならば、既存の文化や民族、宗教などの境界線を超えて、それを分かち合うことが大切です。イエスの権威はボーダーレスな反応を呼び起こしました。

 これが、マルコ福音書の語る「新しい権威ある教え」の中身です。

 

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