2013.12.8

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「お言葉どおり」

廣石 望

創世記21,1-8; ルカによる福音書1,26-38

I

 新約聖書の中心はイエス・キリストへの信仰です。それでもアドヴェントの季節には、イエスの母マリアについて語られます。新約聖書が彼女について伝えることは、後のマリア崇拝の伝統の大きさと比較すると、たいへん断片的で、驚くほど少しのことしか分かりません。それでも彼女についての伝承をつなぎ合わせると、歴史的に本当らしいものとして、およそ次のような輪郭が浮かび上がります。

 彼女はイエスの母で、その名はヘブライ語に言う「ミリアム」、出身はガリラヤ地方のナザレ村です(ルカ1,26)。木材ないし石材加工を生業とする夫ヨセフとの間に(マタ1,16ルカ1,27その他)、長子イエスをはじめ複数の息子たち、娘たちをもうけています(マコ6,3)。イエスが家を出て「神の国」の宣教活動を開始したとき、最初は親族と共にイエスに対して距離をとっていました(マコ3,21.33)。しかしやがて息子の同志たちのエルサレム巡礼に同行し、イエスの十字架刑を目撃しました(マコ15,40)。後に彼女は息子たちと共にエルサレムに移住し、原始教会に参加しています(使1,14)。――これだけです。

 今日のテキストであるルカ福音書の受胎告知の場面が、歴史的な事実に遡るチャンスはたいへん少ないと思います。

 

II

 私たちのテキストで、マリアは「おとめ/パルテノス」と紹介されます(27節)。性体験のない自分に子どもが生まれるわけがないと訝る彼女に、天使ガブリエルは「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む」(35節)と告げます。

 この「包む」という語そのものには〈処女懐胎〉という意味はありません。それでも文脈より見て、やはり処女懐胎が示唆されていると思います。ルカ福音書の誕生物語では、洗礼者ヨハネの誕生とイエスの誕生が交互に描かれます。そのさい洗礼者は聖霊の力によって老夫婦から生まれますが、イエスはより大いなる奇跡、つまり処女懐胎を通して生まれる。それが、「どうして、そのようなことがありえましょうか。私は男の人を知りませんのに」というマリアの返答(1,34)、「神にはできないことは何一つない」という天使の発言(1,37)、さらには少し先の「イエスはヨセフの子と思われていた」(3,23)という回りくどい言い方の意味だと思います。

 天使の言葉を聞いたマリアは「お言葉どおり、この身に成りますように」(1,38)と述べて、すべてを受け入れる覚悟を表明します。このマリアの言葉には、また後ほど戻ってきます。

 

III

 他方でルカ福音書のマリアは、イエスの登場を予型的に指し示す存在です。

 マリアの賛歌(1,46-56)には、神は「身分の低い、この主のはしためにも/目を留めてくださった」、彼は「権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げる」など、社会正義に関わる言葉がたくさんあります。これらは、イエスの福音宣教の社会的メッセージ(とりわけ4,18-19)の先取りです。

 さらにイエスの「両親」が神殿に詣でて長子を奉献したさい(2,22以下)、「主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない」(2,26)というお告げを受けていた老シメオンは、赤子のイエスを抱きあげて、この子こそ「異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れ」(2,32)と神を賛美した後、マリアに向かって「この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また反対を受けるしるしとして定められ・・・、あなた自身も剣で心を刺し貫かれる」(2,34-35)と預言します。――これは、後のイエスの宣教だけでなく、さらには彼の十字架の死と復活節後の異邦人伝道にまで至る道のりを、神が定めた道筋としてその母に向けて逆投影したものです。

 以上から、ルカ福音書がイエスの母マリアを、神の選びを受け入れて神の意志の実現のために自らを明け渡した存在として、肯定的に描いていることが分かります。だからルカは、彼女と弟妹たちがイエスを取り押さえにきたというマルコ福音書の叙述を削除します。ルカによれば「イエスの母と兄弟たち」は、むしろイエスの偉大な奇跡行為を「見る」(新共同訳は「会う」)ために彼のもとにきます(8,20)。

 

IV

 その一方でルカ福音書には、イエスの母マリアを他の女性たちの中に紛れ込ませて、隠す傾向があります。

 例えばナザレ村の人々がイエスに対して拒絶的な態度を示したというエピソードでは、マルコ福音書が羅列するイエスの兄弟姉妹の固有名はすべて削除され、「この人はヨセフの子ではないか」(4,22)の一言に代えられています。

 その結果、復活の朝にイエスの墓を訪ねた女性たちのリストに「マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア」(24,10)とある、その「ヤコブの母マリア」がイエスの母であることが直接的には見えなくなるのです。イエスの弟に「ヤコブ」という人物がいることは、みんな知っているに違いないのですけれど。

 同様に、イエスの十字架死を見守り、埋葬された場所を見とどけた女性たちは、イエスと一緒に「ガリラヤから従ってきた婦人たち」(23,49/23,55)と一般的に表現されるだけで、もはや個人名はありません。

 なぜイエスの母マリアは、イエスの誕生物語であれほど前面に押し出されているのに、とくに受難物語ではこれほど背景に退いているのでしょうか。――はっきりした理由は分かりませんが、もしかしたら「なんと幸いなことでしょう。あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は」という群集の中からある女性が叫んだ言葉に、イエスが次のように答えていることが参考になるかもしれません。すなわち「むしろ幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である」(11,27-28)。

 そしてこの点で、ルカ福音書が描くマリアの姿は一貫しています。なぜならナザレのマリアは「お言葉通り、この身に成りますように」(1,36)と答えているのですから。そして果たせるかな、使徒言行録によれば、イエス昇天後のエルサレム原始教団の群れに、「婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たち」がいます(使1,14)。

 

V

 受胎告知の物語では、天使ガブリエルがナザレ村のおとめマリアを訪れて、彼女と対話します。天使の訪問は予期せぬものだったのでマリアは戸惑いますが、ガブリエルは男子の誕生を告げます。これにマリアは反論しますが、天使は「神にできないことは何一つない」と再反論すると、マリアは最終的にそれを受け入れたというものです。

 この物語は、イエスの宣教の特徴を母マリアの懐胎に向けて再解釈したものと理解することが可能です。

 先ず、いわゆる人間の女性の処女懐胎によって神の子が誕生するという観念は、先週も申し上げた通り、本来は異教世界に由来します。それでも「父ダビデの王座」「ヤコブの家を治める」といった天使の言葉は、マリアの息子イエスがイスラエルのメシアであることをさしています。こうしてイスラエルの民族神が万物の創造者である、というイエスの宣教の根本信念と同じものが表現されています。自民族の伝統を普遍性につなげるという姿勢です。

 続いて天使ガブリエルは、思いがけず生まれてくるマリアの息子を「いと高き方の子」「神の息子」と呼んで、この小さき存在に無限の尊厳を認めています。この要素もまた、「穢れた霊」が憑いているとされた人々を癒すことで、彼らの尊厳を回復させたイエスの宣教の特徴にぴたりと一致します。

 最後にマリアは、「見よ、〔ここにいる私は〕主の女奴隷。私に生じよ、あなたの言葉の通りに」と天使に答えることで、神の全能を信じて小さな命と共に生きる決断をします。イエスもまた、一人なる神の全能を信じて、暴力を拒否しつつ、社会から排除された無力な者たちのコミュニティを作ろうとしたのでした。

 

VI

 受胎告知の物語は、イエスの母として選ばれた女性の類まれなる献身を描いている、と言われてきました。その通りです。

 それでも、〈神の母〉として選ばれるのは容易ならざることだと言わざるをえません。許嫁であるヨセフに、この思いがけない妊娠をどう説明するのかと心配になりますが、とくに言及がありません。もっと大きな問題は、先に神殿の老シメオンが「あなた自身も剣で心を刺し貫かれます」と預言したように、やがてイエスが殺されることです。マリアは、暴力によって息子を失う母となるべく、神から選ばれました。そのストーリーの始まりに、天使は「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共に!」と声をかけます。やがて虐殺によって失われることになる息子の妊娠にさいして、若い母親に向かって本当に「おめでとう」と声をかけてよいものなのでしょうか。

 イエスの母マリアをめぐる物語に特徴的なのは、いくつかの要素の共存です。第一に、これはいと小さき人々の物語です。ナザレのガリラヤの寒村です。マリアはそこで暮らすただの少女です。第二に、これは神が行う大いなる物語です。御使いガブリエルがやって来て、ダビデの王座の復権について告げています。そして第三に、これは悲惨な物語です。早すぎる妊娠、そしてこの子をやがて襲うであろう暴力と殺害について私たちは知っています。

 とりわけ、状況の悲惨さの中にあって、「お言葉どおり、この身に成りますように」というマリアの言葉の美しさが、いっそう際立つように感じます。

 同じことを、説教のあとで歌う賛美歌「闇は深まり」(『讃美歌21』243番)にも感じます。週報のコラム欄「牧師室から」にも書きましたように、作詞者ヨヘン・クレッパーは、ユダヤ系の妻とその娘が絶命収容所に移送されることが避けがたいのを知ったとき、71年前のアドヴェントの季節である1942年12月10日、共に死を選びました。

 その元の詞の第一節は、次のようです。

Die Nacht ist vorgedrungen, der Tag ist nicht mehr fern.
So sei nun Lob gesungen, dem hellen Morgenstern.
Auch wer zur Nacht geweinet, der stimme froh mit ein.
Der Morgenstern bescheinet auch deine Angst und Pein.
(試訳) 夜は更けた、日はもはや遠くない
だから今、誉め歌を歌おう、明るい朝の星に向かって
夜には泣いた者も、喜んで共に歌え
朝の星は、君の不安と痛みをも照らすのだ

 イエスの母マリアも同じような道を通ったと思います、「主があなたと共におられる」という天使の言葉と共に。

 

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