2013.10.27

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「信ずる者を義とする」

廣石 望

創世記15,1-6; ローマの信徒への手紙3,21-26

I

 「神の義」に二つの意味があると言われています。

 ひとつめは神が悪を罰して、バランスを回復するという意味の正義です。悪とは「律法」に反する人間の行為です。パウロによれば、この意味で機能する「律法」は、私に罪の自覚を生じさせます。「私は罪人だ」という自覚です。そして正義の回復とは「私の死」のみを意味します。

 もうひとつの「神の義」とはプレゼントとしての赦し、神から与えられる関係の回復です。この義は、罪の自覚の有無を根拠としません。むしろ神の側からの自発的な赦しに基づく救いです。人はこれを自分の力で作り出すことはできません。人にできるのは提示された恵みを感謝して受けとるか、あるいはこれを拒絶することだけです。

 前者から後者への移行がイエスにおいて明らかになったというのがパウロのポイントです。ルターはそのことを再発見しました。

 そのさいパウロは、このポイントを明確にするために、当時のユダヤ教の律法神学と対決しました。ルターもまた、彼なりの再発見のポイントを明らかにするために、当時のキリスト教の神学と対決しました。私たちにとって、パウロに開けた認識とルターが再発見したポイントは何を意味するでしょうか?

 まず何を意味しないか――あるいは何を意味しなくてもかまわないか――という点からいえば、たとえば〈旧約聖書の神は悪を罰する厳しい神だが、新約聖書の神、イエスの父は愛の神である〉、〈ユダヤ教は律法主義の宗教だが、キリスト教は恵みの宗教である〉、あるいは〈カトリック教会は贖宥状を販売するなどする堕落したキリスト教だが、プロテスタント教会は信仰を重んじる純粋なキリスト教である〉などの図式的な理解は、おしなべてまったくの見当違いです。イエスの父なる神が旧約聖書の神であること、ルターが闘ったのが当時のキリスト教であること、プロテスタント教会の倒錯的な倫理主義の伝統などを思い出していただければ十分です。

 こうした誤解は、じつは本物の「律法」理解からもほど遠い、単なる自民族中心主義です。「我が家」に自信があるのはたいへん結構なことですが、それを余所の家との優劣で根拠づける必要はさらさらありません。

 

II

 今日の箇所の冒頭に「律法とは関係なく」、しかし同時に「律法と預言者によって立証されて」とあります(21節)。これはどういう意味でしょうか?

 一見すると相矛盾している、この奇妙な発言の組み合わせは、〈神の義はイエスのできごとを通して明らかになった〉という理解の表れです。

 すなわち一方で「律法とは関係なく」とあるのは、イエスの死が律法の定めるところに従えば、決して救済を意味しないからです。律法から見れば十字架の死は呪いでこそあれ、救いではありません。

 他方で、それにもかかわらず「律法と預言者によって立証されて」とあるのは、イエスの死と復活から見れば、律法の定めのより深い意味が新しく明らかになるからです。律法のキリスト教的解釈により、〈キリスト証言〉という新しい意味地平が律法解釈に開けます。

 

III

 そのことを考える前に、「イエスの信」という独特の表現にふれておきたいと思います。

 以前にもお話ししたことがありますが、新共同訳聖書はパウロが「イエスの信」(ギリシア語で「ピスティス・イエスー」)と記している箇所を、ほぼ一貫して「イエスを信じる」という意味に翻訳します。今日の箇所でいえば、22節「イエス・キリストを信じることにより」と訳されている箇所の原文は「イエス・キリストの信を介して」、 25節「信じる者のために」の原文は「信を介して」、そして26節末「イエスを信じる者を義とする」の原文は「イエスの信から〔生きる〕者を義とする」。――この翻訳はプロテスタント教会、とりわけルター派教会に代表される信仰義認論を強く反映したものです。

 しかし「イエス(・キリスト)の信」という表現そのものはひじょうに多様な理解が可能で、世界中の研究者たちもこの点について大いに議論しています。

 第一に「イエスの信」は〈イエスがもっていた神への信仰〉と理解できます。イエスの行為としての神への信頼という意味です。そう理解すれば、この文言は、イエスが命をかけて示した神に対する忠実で従順な生き方を通して、救いが生じるという意味になります。

 第二に「イエスの信」は〈信仰者がイエスに向ける信頼〉、〈イエスへの信仰〉と理解できます。先ほど申し上げたように新共同訳が採用している理解がこれです。その場合、人間である信仰者の行為が問題になっていることになります。〈律法の業によらず、イエス・キリストを信じる信仰による救い〉というつながりがそこから生まれます。

 では「律法の業」という行為と「信仰」という行為は、相互にどう区別されるのか、という古典的な問いがあります。この問いに対する古典的な答えは、〈律法が命じるよい行いは無限になされるべきである一方で、それが私の救済の根拠になるわけではない。神とキリストへの信頼のみが私を救う〉というものです。

 そして第三に「イエスの信」は、内容的に補って〈神がイエスを通して人に示した信頼〉という意味に解釈することが可能です。ここで行為しているのは、言葉としては現れませんが神です。神は自分が信実な存在であることを、イエスのできごとを通して人々に明らかにした。つまり〈イエスという名の「神の信」のできごと〉という事態を圧縮したのが「イエスの信」という表現だというわけです。

 以上、「イエスの信」がイエスの行為・人間の行為・神の行為のいずれをも意味しうることを申しました。「信仰」という言葉は、どうしても人間の行為としての「信仰」を意味しがちで、イエスの行為としての「神への信頼」、ましてや神の行為としての「神の信実」いう意味のつながりは見えなくなってしまいます。

 

IV

 では、この「信/信頼」の特徴を、「罪を贖う供え物」(25節)という表現との関係で考えてみましょう。

 「罪を贖う供え物」と訳されているギリシア語原文は「ヒラステーリオン」という一語です。旧約聖書で、エルサレムのヤハウェ聖所の一番高いところにある神殿本体の、なおかつ最も奥まった空間「至聖所」に安置されていた「契約の箱」の黄金製の蓋をさすヘブライ語「カッポーレト」(原義は「覆い」)を、ギリシア語聖書が翻訳するときに使われる言葉です。「カッポーレト」は聖所の中で最も聖なる物体で、この語は「贖罪日」の儀礼を定めたレビ記16章に頻出します。

 「贖罪日」の犠牲に限らず、旧約聖書で贖罪の犠牲がささげられる場合、およそ以下のような手続きをとります。

 まず犠牲を献じる者が神殿に詣でて、祭儀的に清い犠牲獣を購入し、神殿本体の祭司のところに連れてゆきます。次に奉献者は、祭司の前で、犠牲獣の頭の上に手を置いて〈聖別〉します。おそらく奉献者のアイデンティティ(「罪」)の転移――罪をなすりつける――を示唆する所作です。続いて祭司が犠牲獣の頸動脈を切断し、溢れ出る血を洗面器で受けた後、その血を神殿内部にもちこんで祭壇の隅に塗りつけたり、至聖所の前のカーテンに振りかけたりします。この「血の儀式」は、奉献者の「命」の象徴である血を神と結合させるという意味だろうと言われます。その機能は、一方では人々の罪のせいで穢れてしまった聖所を清めて、その聖性を回復すること、また他方では人々が犯した罪を浄化して、これを赦すことにあります。――以上のような手続きによって〈神との一体化〉を回復するのが、旧約聖書が定める贖罪の犠牲です。

 「イエスの信」は、これと一見すると似ているようで、中身の論理はまるで異なります。贖罪の犠牲の場合、奉献者が犠牲獣を〈聖別〉するのが出発点で、目標到達点が〈神との一体化〉ですが、「イエスの信」の場合、神が自らをイエスと〈一体化〉したことが出発点です。人間が犠牲を立てるのではなく、神がイエスを「罪を贖う供え物」として立てたのですから。他方で目標点にあるのは「信じる者すべてに与えられる神の義」です。これは「罪を償う供え物」というイエスのアイデンティティが信じる者たちに転移して、信仰者たちが「聖別」されることを意味します。

 つまり「イエスの信」においては、犠牲の論理とはまったく逆に、神による〈一体化〉が信仰者の〈聖別〉に先行します。私が神に近づくより先に、私がまだ神の敵であったときに、神の側からイエスを通して交わりの回復を達成した。その交わりはイエスのできごとに対する信頼によって完成するからです。

 パウロが「律法と預言者によって立証されて」というとき、それがたいへんクリエイティヴな新しい律法解釈であることが、よく分かります。

 

V

 「信じる者は救われる」と言われます。一般には、よい未来を堅く信じる者にはじっさいそのようになるという意味であったり、あるいは――「イワシの頭も信心から」という諺にあるような意味で――キリスト教信仰に対する揶揄であったりします。「信じる者は救われる」というのはキリスト教的に見て正しいと私は思います。それでも、いくつかの点でもう少し明確化できるでしょう。

 まず〈私の信仰は応答であり、救済の根拠ではない〉という意味で。私を救うのは神であって、私の信心ではありません。そして、その救いはすでに提示されているのです。

 次に〈信じるという行為は何かを作り出す積極的な行為ではなく、提示された現実を受けとる受容的な行為である〉というポイントです。神が無償で与えたプレゼントとしての救済に対する応答は、救済を達成するための功徳とは別物です。

 そして最後に〈信じないという行為もまた応答としてのみ存在する〉という意味において。人には信じない自由があります。しかしそれによって神の赦しを破壊することは、私たちにはできません。赦しは私たちが作った現実ではないからです。さらにプレゼントをするという神の行為は未完結に終わっているわけですが、だからといって神は、ただちに恵みに代えて怒りを送り返すわけでもありません。むしろ神は信実であり続け、人の信頼を待っておられる。

 これが「イエスの信」が明らかにした「神の義」の内容です。

 

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