2013.9.8

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「初めに赦しあり」

関田寛雄

エゼキエル書33,10-11; マタイによる福音書18,21-35

 本日は「初めに赦しあり」という題でお話をさせていただきます。この題は言うまでもなく、ヨハネによる福音書の冒頭にあります「初めに言あり」ということになぞらえてつけた題です。初めにあったその言の中身は何であったか、ということにもつながっています。

 主イエスの弟子たちの間にも様々なトラブルがあったのでしょう。前の部分(15節〜)でそのようなお話が出ておりますけれども、それを受けてペテロがイエスさまに尋ねました。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」当時ユダヤ教のラビの教えでは、三回まで赦すということが通例であったようです。日本でも「仏の顔も三度まで」という言葉がありますし、そのくらいが良識的な限界かもしれません。けれどもペテロは「七回までですか」と尋ねています。おそらくはイエスさまのいつくしみ深いお教えを思いながら、あえてそう言ったのでしょう。ところがイエスさまは「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」これは7×70で490回まで赦せばよろしいという意味ではありません。7という数字の完全数としての意味を考えると、「限りなく」「無限に」「どこまでも」赦しなさいという意味です。

 昔、「491」というタイトルの映画がありました。490回赦されても、なおそれを一つ越える罪がある。そういう意味でつけられたタイトルだと思います。デンマークの、少年たちの非常にすさんだ生活を描いた映画でした。番長格の少年が学校の教師に辱められ、それがきっかけでどんどんグレて、あらゆる事柄に反抗し破壊し尽くすというすさみきった生活を描いたストーリーでした。

 そのグループの中に一人の女の子がいるのですが、その少女が信頼していた仲間たちから輪姦されるという事件でこの映画は終わるのです。最後に、番長格の少年が言った言葉が非常に印象的でした。「あの子は、我々の全てをあがなったんだ」という言葉です。この映画には、デンマークという国の歴史の中に流れているイエス・キリストの思い、キリスト教文化が反映されていると言えるかもしれません。490回という数の意味は、「限りなく赦しなさい」ということなのです。

 

 その後に続けて、イエスさまは「天の国は次のようにたとえられる」と言われまして、このたとえ話をなさるのです。1万タラントンの借金していた家来が、悲痛な思いで返済の猶予を懇願します。厳しい主人は「自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた」とあります。「自分も妻も子も」ということは、家族全員が奴隷になれということです。奴隷となることで支払われるその身代金も、持ち物をすべて売りはらった代金も、全部充てて借金を支払え、と迫ります。家来はひれ伏して、どうか待ってください、きっと全部お返ししますと懇願します。

 この1万タラントンという金額がどれほどのものか、ちょっと調べたのですけれども、タラントンというのはギリシャの貨幣の単位です。タラントンはドラクメの六千倍にあたる、とされています。ドラクメというのはローマの通貨で1デナリオンに相当する金額だそうです。1デナリオンは労働者の一日の賃金です(マタイ20:2)。そうすると1タラントンというのは、労働者の賃金の六千日分にあたるわけですね。その一万倍というわけですからもう天文学的数字です。とても返せるはずはない。

 この主人は「深く憐れんで」―ギリシャ語で「はらわたがちぎれるほど」つき動かされて、という意味の言葉です― そのような思いで、この主人は家来の借金を全部ゆるしてしまった。究極的・根源的なゆるしと言えるでしょう。

 

 私が今日申し上げたいことは、誰もが1万タラントンの負い目を赦されているということです。私たち一人ひとりが、どれだけ大きな負い目を負っているか。アダムとエバは神の戒めに背いて罪を犯した。蛇の誘惑に負け、神さまのように賢くなれるという禁断の木の実をエバもアダムも食べてしまった。ところが神さまのように賢くなれるかというと、何のことはない、自分たちが裸であるということがわかったに過ぎない。そしてそれを恥じることになった。やむなく、いちじくの葉っぱで裸を覆っても、いちじくの葉っぱではすぐに枯れて、風が吹けば飛んでしまって、パンツの役目など果たさない。それでもとっかえひっかえ、いちじくの葉っぱで裸を隠したのでしょう。

 こうしてアダムとエバがエデンの園から追われる時、神は手ずから皮の衣を作って二人に着せられたという記事(創世記3章21節)があります。恥ずべきところを隠さなければ生きられなくなった、このアダムとエバに対して、隠しながらでも生きて行きなさいというのが、エデンの園から出て歴史を生きる人間に対する、神の憐れみであったのです。

 いちじくの葉っぱは、恥ずべきところを隠すための「自家製の」覆いです。これは言葉を変えて言えば自己義認のシンボルです。自分自身をきれいに見せよう、自分自身の恥を覆い隠そうと自力で作った覆い。それが自己義認です。神さまはそのような人間を憐れみ、風が吹けば飛ぶような自家製の覆いではなく、私の与える皮の衣を身につけて生きて行きなさい、と言われるのです。それがアダムとエバの物語の結論です。

 そこから原罪論ということを言い始めたのがアウグスチヌスです。罪は遺伝するということを彼は告白の中で言っておりますけれども、それはアウグスチヌスが青春時代の破天荒な生き方で母モニカを悲しませた、その過去を振り返りながら、人間とは誰もが罪を負う存在だと言っているのです。原罪論とは、人間の罪責の普遍性を言い当てている言葉だと思います。

 私どもは、そういうアウグスチヌスの痛切な自分の過去に対する罪意識から生まれてくる原罪論を、そのまま受け取ることはできないかもしれませんが、神を信ずる者、信じない者いずれであっても、私たちは皆、何者かにゆるされて生きているのではないでしょうか。何ものにもゆるされずに生きてきている人は、誰もいないと思います。誰も彼もが、歳をとれば歳をとるほど、〈叩けばホコリが出る〉人生を歩んでいるのではないでしょうか。牧師をはじめ皆そうです。叩けばホコリが出る。そういうものを抱えています。

 神さまが下さった憐れみの皮衣というのは人間の現存在を言い当てています。アダムとエバの物語は「神話」ですけれども、その神話の持つ人間論的意味は実に大きく、深いのです。誰もがすでにゆるされて生きている。そのことをアダムとエバの物語の最後、皮衣のエピソードが表わしています。そのように考えますと、「初めに罪があった」と言うアウグスチヌスの原罪論よりも、「初めに赦しがあった」というのが、聖書の本当に言いたいことではないでしょうか。

 初めに赦しがあった。何ぴとも妨げることのない、無条件の赦しがあった。それは1万タラントンを無条件にゆるすような神の憐れみに他ならない。この事態が人間の原点です。そのことを気づかされて、かたじけなく、恐れ多く、感謝をもってその事態を受け止めるところに「悔い改め」が始まるのです。悔い改めてから赦される、というのではない。赦されているから悔い改めるのです。悔い改めて赦されるのなら、「悔い改める」という「わざ」が赦される条件になりますか? 悔い改めは何のわざの役割もしません。すでに赦されているから、その事実に直面した時、私たちは悔い改めざるを得ないのです。それが本当の悔い改めです。ですから悔い改めの瞬間には一番、罪の深さと赦しの恵みを感じ、認識するのです。

 

 このことをお話しする時にいつも思い起こしますのは、私の人生にとって決定的な影響を与えてくれたドストエフスキーのことです。『罪と罰』という作品があります。少し解説いたしますと、マルメラードフという本当に人の好いおやじがおりまして、あまりにも人が好いものですから、他人を押しのけて自分が先に出るということができない。仕事を求めても、いつも後手に回ってしまって仕事を失う。仕事に就けず、貧乏が深まる。ソーニャという娘がおりまして、マルメラードフは貧乏のどん底の中で再婚して、ソーニャの継母を迎えるのですが、その継母に何人も子どもが生まれ、さらに深まる貧しさのあまりに継母は「あなたも年頃の女になったんだ、がばっとお金を儲けてくるくらいのことをしなさいよ」とソーニャにぶつけるのです。

 ソーニャは、お母さん本当にそういうことをしなければいけないのでしょうか、と出て行きまして、体を売る仕事をして帰ってくる。真っ青な顔をして、涙ぐんで、スカートのポケットからざらざらっと金貨・銀貨をテーブルの上に並べ、黙って自分の寝室に入っていく。継母は、自分が腹立ちまぎれに言ったことを娘が本当にしてしまったという痛恨の思いで後を追いかけ、寝台の上で声もなくむせび泣いているソーニャの上に覆いかぶさって、どうして私たちはこんなに貧しいのだろう、と抱き合って泣くのです。

 ところがそんな時にもマルメラードフは酒場で酒を飲んでいる。周りの男たちは、あいつは自分の娘に体を売らせてその上がりでもって飲みに来てやがる、あんな奴は人間の風上にも置けない野郎だ、と聞こえよがしに噂しているわけです。マルメラードフは立ち上がりまして、旦那衆の言うとおりだ。俺のような人間がいる限りは、神様の裁きが必ずやって来る。その裁きの日には、立派なすばらしい方が次から次へと招かれて天国に入っていくんだ。最後には俺みたいな人間が残る。キリストがおっしゃる。お前は豚のような奴だ。でも、天国に入れてやるから手を出しなさい、と言って天国に入れてくださる。その時に先に天国に入った立派な方々が、イエスさま、イエスさま、何であんな男を天国へお入れになるのですか、と申し立てる。するとイエスさまはおっしゃるんだ。あの男は救われるための何の条件も備えていない。だからこそ救ってやるのだ、と。そしてマルメラードフは、「そのとおりだ。誰も彼もがその時には、どんな貧乏人でも、どんなに罪深い人間でも、納得のいく世界が開かれてゆくのだ、御国を来たらせたまえ」と叫んでテーブルに突っ伏すのです。

 この場面で、何の条件も持たないからこそ救ってやるんだという、その言葉にアダムとエバに神が与えて下さった皮衣の意味があると思うのです。1万タラントンをはるかに上回るような負い目が無条件に赦されている。この赦しに直面する時に、私たちは悔い改めざるを得ない。この究極の赦し、1万タラントン以上の赦しを受けた目的は何か。それは共に生きるためです。100デナリしか借金していない友人を激しく責めたて、首を絞めて牢につなぐというような生き方の私たちに対し、これだけ大きく赦してあげたのだから、あなたは共に生きるべきではなかったか、と問うのがこの物語の結論です。どんなに大きな負い目があっても、すでに赦されている私たちは、共に生きるという課題に向かわなければならない。それを目指すからこその赦しであったと思うのです。

 

 話は飛びますが、安倍晋三総理大臣が経済の発展を目指して、「世界に勝つ日本」をつくろうということを叫んでおりますけれども、どうして「世界と共に歩もう」という発想が出てこないのか。そのあたりに、恐ろしいナショナリズムの戦前返りがじわじわと始められていく危険を感じます。今日における新しい変革のキーワードは何かと問われるとするならば、私は「共に生きる」ということに尽きると思います。「汝の敵を愛せよ」とまで主イエスは申されたのです。それほどまでに「共に生きる世界」は私たちの課題なのです。

 マーティン・ルーサー・キング牧師の『汝の敵を愛せよ』という説教集を読みますと、あの激しい公民権運動の活動の中でキング牧師は「黒人の兄弟姉妹よ、我々の運動の目的は、白人に勝つことではない。そうではなくて、白人の中にある誤った敵意をなくすことにある。敵意をなくすために敵意をもってしたのでは、報復の悪循環に陥るばかりだ。敵意をなくすためには愛するしかない」と語っています。主イエスの「汝の敵を愛せよ」という言葉は、自分は個人間の倫理として受け取っていたけれども、それだけではない。民族間の対立、階級間の対立、そのことのためにも、「汝の敵を愛せよ」は最も具体的で、最も効果のある提言であるとキング牧師は言っているのです。そして「黒人の兄弟姉妹よ、我々の運命は白人の運命と深く結びついている。白人が救われなければ黒人も救われないのだ。白人が救われるために、黒人の兄弟姉妹よ、白人を愛そうではないか。我々の運動の目的は勝つことではなくて共に生きることだ」と結んでいます。

 

 今日のイエスさまのお話で天国のたとえ話が出てまいりましたけれど、天国の話とこの世の話とどうつながるのか、時には理解が難しい。イエスさまのお言葉には飛躍があるのではなかろうか、という気さえ致します。「天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」(マタイ5:48)などと聞きますと、いや神さまみたいに完全になれるかしら、と仰天してしまいます。けれどもそこにあるのは「できません」と言って、天国の論理は天国の論理、この世の論理はこの世の論理、とぷつんと切ってしまう関係ではなく、また天国の論理をそのまま文字通り、とても厳しいけれどその通りにやっていこうという厳格な態度でもなく、そこには類比という関係があるのです。

 天国の父が完全であられるように、あなたも人として完全でありなさい。「神の完全」と「人の完全」は、一致するのではない。分離するのでもない。そこには「神の完全」を指し示すような「人の完全」が求められている。そこには類比という、切れていてつながっている、そういうつながりがあるのです。一万タラントンの負債をゆるされた巨大な赦しに触発されて、あなた方の共に生きる生活が始まる。その根拠には大きなおおきな赦しがあるのだよ、だからこそ主の祈りで教えたではないか。「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」と。共に神に赦されあって生きていくのが人間ではないか。そこにイエスさまの目指したもう趣旨があるのです。

 

 天国のたとえとこの世の論理は、直接つながりはしないけれども、天の国の恵み深い姿を指し示すような、この世の姿を作って行こうじゃないか、天国を指し示すような、この世の国を作って行こうじゃないか、というのが神の国の喩えの意味だと思います。

 初めに赦しがあった。その出発点から、共に生きる平和の世界、助け合う世界を創っていきたいと思います。オバマ大統領も、またもや力を持って制するというような動きに出ておりますけれど、差別と格差がなくならない限りテロはなくなりません。まずもって差別と格差をなくすという、共に協働する国際的な努力がない限り、どんなに力でもってぶっ叩いてもテロは終わりません。そのことをこそ、イエスさまは示しておいでになります。初めに赦しがあった。それを私どもの出発点と致しましょう。

 

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