2013.9.1

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「霊と命」

廣石 望

エゼキエル書36,25-36; ローマの信徒への手紙8,9-17

I

 キリスト者と教会は、何を頼りに日々を生きてゆくのでしょうか? 過去を想起し、未来に向かって希望を描くための支えとなるもの、私たちを導くものとはいったい何でしょうか? 新約聖書は、それを「霊」と呼んでいます。では「神の霊」とは何なのでしょうか? それは私たちの生の歩み、命とどのような関係にあるのでしょうか?

 今日のテキストであるローマの信徒への手紙の箇所でパウロは、その前半(9-11節)では霊と信仰者の関係について基本的なことを述べ、それを踏まえて後半(12-17節)ではキリスト者が生きることそのものについて述べています。順に見てみましょう。

 

II

 冒頭でパウロは、次のように言います。

君たちは肉の内にではなく、霊の内にいる、神の霊が君たちの内に住んでいるならば。しかし誰かがキリストの霊をもっていないなら、その人は彼〔=キリスト〕のものでない。(9節参照)

 神の霊が君たちに内に住んでいる。ならば君たちは霊の内にいる(肉の内でない)。この霊はキリストの霊でもあり、それをもたない者はキリストに属さない。――いくつか注目したい点があります。

 第1文は、神の霊と信仰者の〈相互内在〉について述べています。すなわち神の霊が信仰者の内側にあると同時に、信仰者は同じ神の霊の内側にある。人の中に霊があり、霊の中に人がいる。

 以前にもご紹介しましたが、新約学者であり優れた思想家でもある八木誠一氏によればパウロやヨハネ福音書には、神と人の関係を「人格」的に理解しただけではうまく説明でず、むしろ「場所」論的とも言うべき捉え方をするという特徴があります。――キリストとは私たちがおかれている「場」、磁場のこと、私たちが「キリストの内にある」とは、私たちがキリストという磁場の中で生きるという意味です。そのとき私たちは、共同体としても個人としても、キリストをうちに宿す媒体に、つまりキリストの働きが現れる「場所」になっている。

 これに即して読むならば、第3文に「キリストの霊を〈もつ〉」という言い方があり、一見すると自分の外側にある霊を、手を伸ばして所有するという意味にもとれるけれど、やはりキリストを〈内側にもつ〉と同時に〈キリストという磁場の中にある〉ということを意味するのでしょう。そのとき八木氏によれば、私とキリストは働きにおいて一つ、つまり〈作用的一〉という事態が成りたっています。

 霊と人は、ふしぎな関わり方をするのですね。世界の諸宗教では、霊ないし神の働きを人格的に表象する場合――例えば「ヤハウェ」「アッラー」「阿弥陀仏」――と、非人格的な力や法則として表現する場合――例えば「ブラフマン」――の両方があるそうです。

 「霊」という言葉は、現代日本の日常語では主にオカルト現象をさします。しかし英語で「スピリット」と言えば、ある種の生きる原理を指すことができます。「正義」「愛」「希望」「友情」「自由」「スポーツマンシップ」「職人の魂」etc。たしかにそれらに人格的な相貌はありません。

 それと同様に、どの神ないし誰の言葉であるかをまったく知らないままに、聖書の言葉が私たちの魂を打つことがあります。村上伸牧師が最初にキリスト教に接したとき、それは従兄に当たる方が、誰の言葉であるかを知らないままに引用した、「汝の敵を愛し、汝をせむる者のために祈れ」という言葉であったそうですね。「こんなに美しい言葉は聞いたことがない」。戦後の混乱期を生きる少年の魂を揺さぶったのは、この言葉の力そのものでした(同『よき力に守られて』72頁以下参照)。

 他方、過去の懐かしい人の面影が胸の内にあり、その人に心の中で語りかけたり、守られたりするように感じることがあります。もはやこの世の人ではなく、お訪ねしたり対話したりできないという意味で、その人は私のコントロールをまったく離れている。それでも、その人と心でつながっているという実感があるとき、私たちは「霊」という言葉を使うかもしれません。

 イエスが復活したという信仰はそれとまったく同じではないでしょう。生きていたときのイエスに会ったこともないのに、世界中の多くの人がキリスト教信仰をもつのですから。それでも亡くなった人と心がつながるという人間の生の特質と、復活信仰がまったく無関係とも思えません。

 復活信仰の著しい特徴は、神の霊とイエスの霊が、私たちの内に住むという働きにおいて一つである点です。それは「神の霊」と「イエス」の関係が、まさに〈場の力〉と〈その働きを発揮する具体的な場所〉であると同時に、イエスが私たちにとっては単にたくさんある場所のひとつでなく、むしろ神が選んだ唯一無比の場所となったからだろうと思います。

 

III

 続けてパウロは、霊と体の関係について次のように言います。

そのキリストが君たちの内にいれば、体は罪のゆえに死んでいるが、霊は義のゆえに命である。イエスを死者たちから起こした者の霊が君たちの内に住むなら、キリストを死者たちから起こした者は、君たちの死すべき体をも、君たちの内に住む彼の霊のゆえに、命へと創造するだろう。(10-11節参照)

 人の内に住むキリストは「霊」です。その霊の働きを現わす場所に私たちがなるとき、私たちの体、つまり私たちの存在は「罪」のゆえに死んでいても、そこに働く「霊」が神との生きた関係である「義」を生みだすがゆえに、私たちの霊もまた生きて働く命となっており、私たちという存在も新しい命をうけとる。

 パウロはそうした信仰者の体や命に関することがらを、〈神がイエスを死者たちから起こした〉という復活告白から説明しています。〈キリストが君たちの内にある〉は〈イエスを復活させた神の霊が君たちの内にある〉と並行関係あり、〈イエスの復活〉は〈私たちの内なるキリストの霊にもとづく私たちの義と命〉と対応させられています。すると〈罪ゆえの私たちの死〉は〈イエスの死〉と関係があるのでしょう。死と復活というイエスの運命に巻き込まれて生きる者に、イエスを襲った死の力と、命を作りだす神の力が共におよび、いわば反復されるのです。

 

IV

 以上を踏まえた上で、パウロはキリスト者が「生きる」とはどういうことであるかについて、こう述べます。

ならば私たちは肉に対して、肉に従って生きるという義理はないのだ。肉に従って生きるなら、君たちは死ぬだろうが、体のもろもろの働きを霊で死なしめるなら、君たちは生きるであろうから。(12-13節参照)

 しばしば「肉に従って生きる」という表現は、欲望――物欲、食欲、性欲、権力欲など――の赴くままに、あたかも獣のように生きるという意味に理解されます。それは間違いではありませんが、本来の意味はもっと広いです。

 「肉」とは〈過ぎ去るもの〉〈朽ちてゆくもの〉をさします。古代世界に冷蔵庫はなかったので、生肉は最も保存が利かないもののひとつでした。そのさい聖書の言葉遣いでは、「肉」そのものにネガティヴなニュアンスはありません。私たちは神の被造物として「肉」の側面をもっています。あちこちが痛んだり病気になったりしますし、能力や寿命にも限界があるからです。聖書が「すべて肉なる者」というとき、それは「すべての人間」という意味です。それ自体が悪いわけではありません。

 パウロが退けているのは「肉に従って生きる」こと、つまり〈過ぎ去るものを生きる根拠にする〉ことです。さらにそのように生きる義務を「肉」に対して、つまり〈過ぎゆくこの世界〉に対して私たちは負うていない、と彼は言います。

 これはたいへん解放的な言葉です。もちろんこの世では義理を果たすに超したことはありませんし、社会的に立派な業績をあげることは称賛に値します。しかし「ちゃんとしている」「立派な人だ」「使える奴だ」という評価が、私たちが生きる根拠であったり究極的な尺度、目的であったりする必要はさらさらない。そのように生きたところで、私たちはやがて死んだら、それで終わりです。しかし私たちの命を生みだす神の霊は、神が死者から起こしたキリストの霊として、この世界の限界の外側からやってきます。だから、この世界の限界内に私たちの生きる根拠を求める必然性はないのです。

 

V

 そのさいパウロによれば、「霊で体のもろもろの働きを死なしめる」ことが肝要になります。しかし、この難しい表現は何を意味しているのでしょうか? よく分からないのですが、以下のような事例が参考になるかもしれません。

 最近ある新聞で、長野県に「満蒙開拓平和祈念館」という旧満州についての資料館がオープンしたという記事を読みました。
⇒ http://www.manmoukaitaku.com/ も参照)

 およそ次のようなことが書いてありました。まず当時の日本政府は、国策として日本人の満州移民を推し進めた。そのさい市町村の代表者や学校関係者が、村民に移民を説得して回った。次に満州国が崩壊したとき、日本の軍隊は日本人移民をまったく守らず、開拓民は国家から棄てられた民となった。幸運にも帰国できた人々もさまざまな差別にさらされ、故郷から離れた場所で暮らすことを選んだ人もいた。そして国策の失敗によってもたらされた棄民問題について、公に話題にすることが憚られる雰囲気が戦後何十年も続いたというのです。「自分が故郷を失って初めて、土地を奪われた中国人の苦しみが身にしみて分かった」という趣旨の言葉もありました。

 いくつかのことを思います。戦争は「肉に従って生きる」ことの究極の姿であり、それが土地強奪や殺戮、棄民や抑留などの「死」をもたらします。福島原発の大事故もまた国策の失敗であり、それが同じように棄てられた民を生みだしていると思われてなりません。他方、そうした惨禍を具体的にもたらすのは――社会の決定プロセスにおける責任の軽重という問題はさておき――、加害への加担と被害が重なりあう中で生きる一人ひとりの「体」です。

 ならば、そうした「体のもろもろの働きを霊で死なしめる」とは、過去の過ちや罪責を乗り越えることを含んでいると考えることができるでしょう。「君たちは生きるだろう」とはかつての罪責と敵意を乗り越えて和解し、次世代に新しい世界を手渡すことができる、という意味を含んでいると。

VI

 神の霊に導かれる者たちは、みな神の息子たち・娘たちであり、そのような者として私たちは恐れることなき「息子」の身分に生きる者たちである、とパウロは言います(14-15節参照)。それが証拠に、かつてイエスが神を呼ぶときに用いた「アッバ/お父さん」という言葉を、イエスの霊を受けた信仰者たちもまた、神に向かって用いているではないかと。

 私たちが祈るとき、冒頭で「天にまします我らの父よ」という表現で神に呼びかけたり、結びに「主イエス・キリストの御名によって」という表現を用いるのは、そのことを受けています。

 パウロによれば、そのとき私たちは神の相続人、キリストとの共同相続人です(17節)。私たちが相続するのはキリストの「苦しみ」と「輝き」、すなわち彼の苦難の死と復活です。

 教会学校では、たくさんの子ども賛美歌が歌われますが、その中に神の「霊」について歌うものがあります。今朝も歌われた「スピリットソング」はその一つです。歌詞をご紹介します。

聖霊と愛とがあなたを包むとき 心もたましいも満たされ
あなたの心に主が共に住み 古い自分は過ぎ去る
Jesus, oh, Jesus ! あなたの愛で
Jesus, oh, Jesus ! 心を満たして

 短い言葉の中に、パウロが言わんとしたことが、どんぴしゃり捉えられていると感じます。

 

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