2013.5.19

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「エルサレムを離れず」

関田寛雄

創世記11,1-9 ; 使徒言行録2,1-11

 本日は聖霊降臨祭という、キリスト教会の三つの大切な祝日の一つです。またこれは教会の出発の日だとも言われております。そのような日にあたり、与えられた聖書の箇所を通してみ言葉を学んでまいりたいと思います。

 初めに読んで頂いた創世記の有名なバベルの塔の物語は、聖霊降臨日に非常に関係があると言われています。そのころ世界中は一つの言葉に立っていた。そしてそれゆえに、力を合わせて天にまで届く塔を作ろうと、煉瓦の技術を覚えた人間どもが、神様の場所に乗り換わるという傲慢な企てをもって建設を続けたわけですが、神さまはそれを裁かれまして、一つなる言葉はばらばらにされた。そのようにして塔の建設は終わってしまった、というお話です。

 ここには今日の人類の文明についての批判が現れているように思います。ばらばらの国々がそれぞれ力を尽くして、世界一の権力を所有するべくがんばろうという風潮が、今のこの世界にもゆきわたっています。そのような中にあって日本の政府もまた「世界に勝つ」というモットーを見いだし、世界に冠たるかつての大日本帝国を再建しようという裏が見えるような話をしています。「世界に勝つ」という発想ではなく、どうして「世界と共に」という発想に立てないのか。そのあたりに、戦争の悲惨を知らない政治家どもの傲慢が表れているように思います。権力を中心に世界に冠たる帝国を完成しようというような試みは、必ずや神さまによって打ち砕かれることでありましょう。

 人間の罪のゆえに、言葉がばらばらにされた人類。しかし、今日の新約聖書の箇所は、異なった言葉が、すべて人類の救いの言葉を語る器として用いられる、というまことに驚くべき、喜ばしきメッセージを伝えています。

 ペンテコステという出来事には、前史がございます。聖霊降臨に先立つ出来事がある。この「先立つ出来事」に、とても大事なことがらがあると思うのです。したがいまして、まず今日の聖書の箇所の前のところ、使徒言行録の1章をふり返ってみたいと思います。

 イエスさまが復活され、弟子たちと40日間出会われまして、神の国についてさまざまな教えをのべられました。その時に、これはルカによる福音書の24章のイエスさまの最後のお言いつけに重なるのですが、イエスさまはここで、「エルサレムを離れずに」と言われました。ルカの方では「都を離れず」(24章49節)という表現になっておりますけれども、同じ意味のお言葉です。

 「エルサレムを離れず」ということは、実は弟子たちにとって、とてもつらいことだったのではないでしょうか。エルサレムという都で恩師イエスさまが十字架に架けられて亡くなられた。復活されたというお知らせは聞いていても、その実感がまだ湧かない。いやむしろ、エルサレムに居続けるということは彼らにとっては苦痛であった。イエスさまが処刑された場所であるということだけでなく、イエスさまを死に追いやったファリサイ派あるいは律法学者たち、エルサレム神殿体制の人々が、イエスの残党どもを狙って迫害を加える、恐ろしい場所でもある。結局イエスの教えは葬り去られたではないかという人々のまなざしもある。恥ずかしい。くやしい。恥辱の場所です。できればここから逃げ出したい。そういう思いの弟子たちに、イエスさまは「エルサレムを離れないで」と言われたのです。

 弟子たちにとっては不可解であり、辛いことであり、どこかに逃げて行きたいという思いがあったでありましょう。なぜイエスさまはエルサレムを離れないようにと言われたのでしょうか。それは、そこで父が約束されたものがやがて与えられる。真理の霊が与えられる。この真理の霊、なぐさめの霊がやってくるときに、あなたたちは「力を得る」。そして新しい力を得た上で、イエスさまの証人として活躍するだろうという約束なのです。弟子たちはその約束を信じて、このエルサレムにとどまったのだと思います。

 イエスさまが天に上げられるというところがございます。ここに使徒たちは集まって「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」(1章6節)と尋ねました。この言葉はイエスさまにとってはまことに情けなく聞こえたのではないでしょうか。十字架に架けられて復活したイエスさま、そのイエスさまについて来た弟子たちが、依然として古いユダヤ帝国の再建、ダビデ・ソロモンの栄光の回復を待ち望んでいたのです。復活のイエスに巡り会ったにもかかわらず、なおかつ民族主義的な、民族解放の帝国主義的なメシアを待ち望んでいたとは、イエスさまにとって情けない言葉であったことでしょう。まだそんなことを考えているのか、と。

 イエスさまはおっしゃいました。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。」(7節)弟子たちの質問をぽーんとはじいていらっしゃる。そして、「あなたがたの上に聖霊がくだると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」(8節

 「わたしの証人となる。」殺されても殺されても神が生かしたもう命、そういう命を始められたイエスさまの証人になる。民族主義的な運動や戦いよりも、はるかにすごいメッセージであります。殺されても殺されても神によって生かされていく命、その命の証人として、イエスさまが始められた新しい命の教えを、あなた方は宣べ伝えて、ユダヤ民族はおろか、地の果てにまでこれを伝えてゆくのだよ、すべての人が、たとえ殺されて死ぬようなことがあっても、父なる神様はその命を決してお見捨てにならない。時代を超えてその命は生かされる。そういう命の証人としておまえたちは全世界に出て行くのだ、と。

 弟子たちは天に昇って行かれるイエスさまを仰ぎ見、肉体を持ったイエスさまに対する未練がましい恋恋とした思いで、天を見つめているわけです。そこへ天の使いが言います。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」(11節

 天を見上げてかつてのイエスさまを懐かしんでいる、そんな時ではないだろう。上に向かってイエスさまを懐かしむのではなく、水平に、垂直から水平に視点を変えて歴史を生きよ、と天の使いに示されているのです。

 そのようにして弟子たちはイエスさまの約束の、天からの賜物がくだるのを待ち続けていたわけであります。このとき忘れてはならないことがあります。それは「彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。」(14節)というところです。11人の弟子たちは、イエスのお母さんのマリヤさんと、その兄弟たちと一緒にいる。しかも心を合わせて祈っている。これはどういう状況なのでしょうか。

 マリヤさんにしてみれば、わが息子を見殺しにした弟子たちです。ポンテオ・ピラトのもとに送られていくイエスさまを見捨て、十字架に架けられるイエスさまを見捨て、逃げ去った弟子たちです。その弟子たちがどの面さげてマリヤさんに会うことができたのか? イエスの弟さんたちにどのような言い訳をもって再会することができたのか? これは大変な場面です。

 聖書には書かれておりませんけれども、そこには痛切な弟子たちの謝罪、悔い改めがあったはずです。弟子たちはマリヤさんの前にぬかずいてお詫びをしたのではないでしょうか。そしてマリヤさんも兄弟たちも一緒に皆が手を握り合って、ゆるしと、ゆるされることとが一つになった。心を合わせることの原点は、ゆるしと、ゆるされることです。そのことがあって初めて「一同が心を合わせて」という事態が、生まれているわけであります。

 聖霊はここにくだる。

 ペテロを初めとしての11人の弟子たちがどんな思いでマリヤさんに言葉を述べたか、お詫びをしたか、マリヤさんがどんな思いで弟子たちを赦されたか、それは想像するほかはありませんが、いずれにしてもこの一団が「心を合わせて熱心に祈っていた」という、ここにこそ、聖霊がくだる場所があったわけです。

 そしていよいよ今日のテキスト、2章の冒頭です。いつものように百二十人ほどの人々が一つになって集まっておりますそのときに、「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた」(2章2節)。この「激しい風」というイメージは、まさに神の霊を表しています。 聖書の中では「風」「息」という言葉と、「霊」という言葉には深いつながりがあります。さらに「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人ひとりの上にとどまった」(3節)。この「舌」というイメージもまた「言葉」に深く関係しています。

 罪深い世界に、一つであった人間の言葉が裁かれ、ばらばらにされた。しかし、いまこそその言葉は清められて、一人ひとりに個別の言葉を与えるために、聖なる、けがれを焼き尽くす炎のような「舌」が分かれて、一人ひとりの上にとどまった。画一の言葉ではありません。一人ひとりに個性的に、固有の言葉として、恵みの言葉が宣べられていく。そして「一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」(4節)のです。

 「“霊”が語らせるままに」。人間が作り出した言葉ではなく、神さまが備えられ、神さまから与えられる言葉を語るようになった。しかも散り散りばらばらになった全世界の人々に届くよう「ほかの国々の言葉で」話しだした。これは、異なったあらゆる国に、かつてバベルの塔以降ばらばらになった国々に、異なった言葉ではあるけれども一つの内容、あの命のみ言葉が、それぞれに固有な、個性的な形でもって全世界の多様な国々に伝えられてゆくということなのです。

 こういった使徒言行録の表現を、物理的に事実かどうかという視点で読みますとおかしくなってしまうのです。廣石先生がいつもおっしゃっておりますメタファーの言語というのはここなのです。メタファー(暗喩)、つまり「指し示す」言葉。象徴的な表現と言ってもいいかもしれません。そういう言葉で、実に人間の言葉では言い尽くすことのできない、含蓄のある深いメタファーで、神さまの奇跡、聖霊の降臨ということを語っているのが、この使徒言行録の記述です。

 そのようにしてこれらの言葉が、エルサレムに来ていた「天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人」(5節)に語られました。ユダヤはご存じのように国を亡くし、紀元前6世紀以来、離散の民として世界に散らされてしまいました。しかし、外国で生まれ育ったユダヤ人たちが、祭りの日に都へ帰ってきた時、自分たちの故郷の言葉がそこで語られていました。それぞれの国の言葉で、弟子たちが話す福音の言葉を聞くとはどういうことだろうか。「故郷の言葉」というここにも、また味わい深いメタファーが込められています。

 つまりふるさとの言葉というのは、地に足が着いた生活の言語なのです。懐かしい日々の生活の響きをもつ言葉として「福音」が語られている。ああその言葉は自分たちが生き、育ってきた国の言葉だ。生活そのものの言葉として、異国に住んでいる自分たちにぴったりと寄り添い、心を揺さぶる言葉として語られています。驚くべきことです。

 神から賜る新しい言葉は、それぞれのいのちに密着した言葉として、全世界のあらゆる国の人々に、多様性をもって語り告げられていくのです。そのように聖書を読んでまいりますと、今日こんにち悲しい事態が続発している東北アジアの状況を振り返って、本当にひとつなるものは何なのかを考えなければなりません。多様性の中にありながらも、それぞれがひとつなる「いのちの言葉」を指し示しているのではないでしょうか。

 様々な迫害、困難、誘惑につまずいて、死んだ方がましだと思えるようなそういう時代の中にも、生きよ、と、死んで生きたもうたイエスさまの、十字架の福音が響いています。人間にとって根本的に必要な、ひとつなる言葉が、どのように東北アジアの世界に伝えられてゆくのでしょうか。なかでも日本は、第二次世界大戦という痛切な悲劇を味わい、アジア太平洋諸国に大きな痛みを与えてきました。その日本の国が、新しい言葉をどうして語り得ないのでしょう。

 戦争責任告白をした日本基督教団も、今大きく変化しつつあるように思われてなりません。「統一」「一致」それは結構でございますけれども、沖縄教区との合同が達成されていません。「合同教会」から「公同教会」になろうという触れ込みの陰で「合同教会」さえも未だ不完全なままです。沖縄教区の痛切な叫びを日本基督教団は数の力で葬り去ってしまいました。まだ合同していない、合同しつつある日本基督教団。それが大きな統一性、画一性をめざし、力で動き始めています。

 統一とか、画一性とか、とにかく組織というものは、一色にしようとして力をかければ必ず分裂します。力でもって統一はできないのです。カナダ合同教会も、南インド合同教会も、100年の歴史を費やして祈りと話し合いを続け、合同にたどりついています。どこかを切り捨てて統一性、単一性を求めるのは、教会の姿ではありません。沖縄を切り捨て、聖餐式執行の考え方の違いによって一人の教職を切り捨てる。これではもうキリスト教会ではなくてキリステ教会です。そんなところにイエスさまはいらっしゃるのでしょうか。やがておいでになるイエスさまに対してどう顔向けするのでしょう。本当に聖霊における一致こそ我々の希望であり、喜びであり、そのことをめざして、多種多様な違いを認め合い補い合って、そして御霊の賜う一致の教会へと向かうべきではありませんか。

 

 すこし話が飛びますけれども、私は説教の合間に「フーテンの寅次郎」のことが浮かんでくるものですから、聖霊を受けて生かされるというのがどういうことなのか、そこから少しお話します。

 「男はつらいよ」のシリーズの中で「浪花の恋の寅次郎」というのがございまして、これは松坂慶子さんがマドンナなのですが、瀬戸内海のある島で寅さんが岩の上に腰掛けてお弁当を食べている。寅さんの弁当はいつもあんパンと牛乳なんですけれども、その後ろを美しい女性が通り過ぎまして、丘の上の方へ上がっていく。そういうことはすぐ気になる寅さんでございますから、後を追いかけて行きます。松坂慶子さん、この人はおふみさんという芸者さんなんですけれども、お墓に深々と頭を下げている。近づきました寅さんは、いきなりトランクをぶら下げたまま、あの変な帽子をかぶったまま深々と頭を下げまして「ご主人様がお亡くなりになりましてご愁傷様でございます」と言うわけです。松坂慶子さんは立ち上がりましてケラケラ笑いながら「私は結婚しておりませんの。今日はおばあちゃんのお墓参りに来たのです」「ああ、そうですか、そりゃまぁ結構なことで」何が結構だかわかりませんけれども。二人はそこから話が始まりまして、例によって軽妙な寅さんの語り口におふみさんは心をひらいてゆく。やがて船着き場から寅が船に乗って去っていく時、「お兄さんこれからどうするの?」「うーん、まぁ、風の吹くまま気の向くままよ!」このセリフはこのシリーズのあちこちに出てくるんですけれども、私は非常に心惹かれるのです。この「風の吹くまま、気の向くままよ」というセリフは、ヨハネ3章のニコデモの物語を思いおこさせます。

 ニコデモが夜こっそりとイエスさまを訪ねました。ファリサイ派のニコデモでございますけれども、イエスさまに教えを乞う。イエスさまはニコデモにいろいろお話をされます。「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。」(ヨハネ3章6-7節)「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」(9節)文語訳では「風は己が好むところに吹く、汝その聲を聞けども、何處より來り何處へ往くを知らず。すべて靈によりて生るる者も斯くのごとし」。この言葉ですね。「風の吹くまま、気の向くままよ」という寅さんの言葉は、まさに聖霊によって生かされる者の姿ではなかろうかと思うのです。

 「風の吹くまま」は「風」という客観的な神からの力。「気の向くまま」はそれに応答して動き出す人間の側の思い。客観的な神からの風に対して、主観的な人間の思いが動き出す。「主観客観合一の世界」と言われるのですけれども、これが聖書における「風の吹くまま、気の向くままよ」です。

 歴史のイエスさまを慕い求めて恋恋と未練がましく天を眺めている弟子たちに対して、天を眺めるな、これから水平に、世界に向かって出て行く課題があるじゃないか、そんなふうに天使が言っておられるところを思い出します。そのようにして、聖霊によって生かされる人間は、イエスさまなきあとの自立的信仰生活を歩みます。おんぶにだっこのイエスさまとの生活から自立していく。見えない霊に信頼して生きるということは、自立するということです。聖霊は自立の霊なのです。その聖霊によって、この世のあらゆる毀誉褒貶きよほうへん、この世の評価・評判にこだわらないで、ひたすら神さまから与えられる、十字架から発出する、否定を経ての肯定の命、すなわち復活の命をいきいきと生きるというところに、聖霊によって生かされる者の姿があるように思います。

 この日本基督教団も、代々木上原教会も、否定をさらに否定していく復活の力、否定をくぐり抜けて生き抜いてやまないみ言葉の命の力を信じて、聖霊に導かれつつ、自由に、そして共に生きる世界をつくるために遣わされているということを、今日ペンテコステにあたりましてあらためて確認していただきたい。そう思うのです。お祈りをいたします。

 

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