2013.2.24

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「神の恵みの喜び」

下村 優

イザヤ書11,1-5 ; フィリピの信徒への手紙1,1-4

 春の訪れを感じさせるやわらかな陽射しの中、この世界を創造された神の、言い尽くせない豊かな恵みの中で、今日は「愛の書簡」「喜びの書簡」と呼ばれるフィリピの信徒への手紙をテキストに選びました。
 はじめにパウロの回心体験、次に私の体験、最後に今日のテキストの順序でお話させていただきます。

 

I

 私は、パウロの回心体験が、彼の伝道の旅を支え続けた力の泉であったろうと、考えています。パウロはこの体験のことを繰り返し思い起こし、語り、確認する度に、神に感謝し、祈り、力を得て、伝道の旅を続けたのだろうと想像いたします。私にはそう思われるのであります。
 イエスが十字架の死を遂げたのは紀元30年頃と考えられています。
 イエスがガリラヤで宣教を開始して2年、イエスは弟子たちやガリラヤの人々とともに、過越の祭に合わせてエルサレムに上りました。「神に立ち返ること」をエルサレムの神殿祭司や体制に迫るという行動は、神殿中心の体制全体を敵にまわすに等しい行為であったというしかありません。
 弟子たちやガリラヤの人々は、イエスがとらえられ十字架につけられるに及んで、イエスとの関係を否定し、その場から逃げ去りました。あの十字架の現場から逃げ去った者たち、十字架の上で死んでいくイエスを遠くから見つめていた者たちが、心に負った傷の深さや痛みを、言葉で表現することが私にはできません。
 想像を絶する、それぞれのもがき苦しみの経験を通して、三日の後、イエスに出会ったという者があらわれます。「私もイエスを見た」「私もイエスに出会った」と、彼ら・彼女らは集まるべくして集まりました。お互いの心の痛みを分かち合いながら、「十字架のイエスこそ救い主」と信じる小さな小さな集まりが生まれました。
 やがてこの小さな集まりは、エルサレムにおいて無視できない存在となります。集まりの中で奉仕をするステパノが最高法院に告発され、怒り狂った群衆たちから石を投げつけられて殺害される事件がおきます(使徒言行録5,8-8,1参照)。――使徒言行録では、このステパノ殺害の現場で、はじめてパウロが登場します。あのとき、パウロは石を投げつける群衆の側にいたと伝えています。
 パウロは誰にも負けないほど熱心に、率先してエルサレム以外の都市まで足を伸ばし、イエスを救い主と信じる人々を、男女を問わずとらえ、牢に送り、むち打ち、殺害に手を貸していたことをパウロ自身が書いています(1コリント15,9ガラテヤ1,23フィリピ3,6。さらに使徒言行録9,1以下も参照)。

 パウロの回心体験はこうした日々の中で突然訪れました。
 このときもイエスを信じる者たちの迫害のため、ダマスコに向かう旅の途中でした。彼は突然「神の声」を聴きます。誰よりも熱心に迫害をしてきたパウロに、イエスが「神の子」として現れました。自分が正しいと思ってきた迫害が過ちであったと彼は気づきます。
 そのときのパウロの葛藤も想像する以外にありません。自分がしてきたことの罪深さとその「負い目」に彼は苦しんだはずです。同時に、自分が十字架のイエスの救いの中にあることを彼は確信しました。絶望と救いを、彼は同時に体験したことになります。
 この後、洗礼を受け、イエスが救い主であることを告げ始めたと聖書は記しています(使徒言行録9,18-22参照)。ユダヤの民からは逆に裏切り者として迫害を受ける側に立って、彼の伝道は始まりました。彼が異邦人伝道の旅に出る、その約15年前の出来事です。

 パウロの場合は180度の転換でした。彼の生涯でただ1度の回心体験です。直前まで実際に熱心な迫害活動をしていたパウロに、神が直接語りかけられたのです。無条件に、神は赦しを御与えになりました。救われるに値しない者が救われる。最も罪深き者が罪許される。神の愛、神の恵みは、あまねくすべての人に注がれている――パウロにとっての十字架・復活・再臨信仰の原点はこの回心体験にあり、彼は何度もそこに立ち返ったであろうと私は考えます。

 

II

 さて、パウロの後で恐縮ですが、自分の体験をお話ししたいと思います。
 今から30年前、私が19歳のときです。清水ヶ丘教会のクリスマス礼拝、倉持牧師の説教の中で、そのときは訪れました。
 「民はイエスを拒否した」という説教題でした。馬小屋で生まれたイエスから、十字架につけられたイエスまで、この世がイエスを拒否し続けてきたこと、この世が救い主を歓迎しなかったことが語られました。倉持牧師においては、イエスの生誕と十字架とはひとつにつながっていました。
 語られる言葉に引き込まれながら、涙があふれてきました。イエスを「十字架につけよ!」「十字架につけよ!」と叫ぶ者たちの中に、私は立っていました。
 私は牧師が語る説教壇のすぐ下の最前列で毎週説教を聴いていましたから、説教は見上げるようにして聴きます。見上げると涙が膜のようになって、牧師の顔がぼんやりとしか見えなくなります。
 それでもはっきりと自分はあの場にいて、イエスを「十字架につけよ!」と叫ぶ側に立っていると感じました。受難物語の中に「自分」は群衆の一人として、あの場にいたのです。
 いくら着飾っていても、一皮むけば野獣のようなおぞましさが、私の本来の姿です。自分中心に物事を考える利己的な人間とは、まさに私のことです。

 続いて倉持牧師は、イエスを信じる者たちへの迫害についても語りました。イエスを救い主と信じる者をローマの闘技場でライオンと戦わせて、それをローマの市民は歓声を上げて見物していたことを話されました。――あのとき、わたしは確かにあの闘技場で喜んで見物していたのです。
 説教を通して自分の本来の姿がはっきりとしました。涙の中で自分が崩おれていくのを感じたときに、幻の中でイエスが抱きとめてくださいました。「そのままのお前でよい」というメッセージを私は受け止めました。このような人間のままでイエスは受け止めてくださったのです。
 この日、私は洗礼を志願し、翌年のイースターに洗礼を受けました。

 あれから30年が経ちました。「愛する」という行為において私に成長があったかと問われれば、なかったと答えるのが正直であろうかと思います。しかし神が私たちを愛されている――そのことはいささかも変わっていません。試練の中にあっても、いや試練の中にあるときこそ、私は神がそば近く、共にいてくださることを強く感じて生きてきました。
 私たちの神は、苦しみを共に担ってくださる神、であります。

 

III

 さて、今日のフィリピの信徒への手紙に戻ります。当時の繁栄を誇ったフィリピの町も今は廃墟です。

 1節の「キリスト・イエスに結ばれているすべての聖なる者たち」。これはギリシア語原文では、「エン・クリストゥー・イエスー」です。冒頭の「エン」は、英語でいう前置詞のINです。そこではシンプルに大いなるキリスト・イエスと、その中にあるすべての聖なる者たちの関係が示されています。
 シンプルに「キリスト・イエスの中にあるすべての聖なる者たち」という訳で良いのではないかと私には思われます。

 パウロは書いています。

あなたがたのことを思い起こす度、
神に感謝し、喜びをもって祈っています。

 この言葉は、素直にパウロの気持ちを述べていると私たちは読むことができます。しかし、単なる感情の表現でないことは明らかです。この後もパウロは繰り返し「喜びなさい」と促します。
 この書簡には「喜び」という言葉が16回も繰り返されます。誰でも喜びあふれた人生を送りたいと思いながら、喜びたくても喜べない現実に直面するものです。また誰もが予測できない困難な現実に直面することが、人生の中で何度でもあるはずです。
 私自身も出口の見えない苦しみの前では、ただ苦しさや悲しさをありのまま訴えて、神に祈り、一日一日を過ごすこと以外に、なすすべが無かった経験があります。それでも「生きる」ことを支えられ、神の恵みの中で、支えられます。
 むしろ苦難の中でこそ、神の豊かな恵みを私たちは知るのではないでしょうか。パウロは獄中にありましたが、祈りにおいては自由でした。十字架のイエスに出会ったパウロは、「悲しみ」も「喜び」も、どちらも神の恩寵の中にあっての出来事であり、苦しみの中、弱さの底には必ずイエスがそば近くにいましたもうことを確信しています。
 パウロが「喜んで祈る」「喜びなさい」と言いきるとき、人生における喜びと神の恵みの喜びとが、ひとつであると思います。

 2000年の時を得た今も、この言葉の輝きは失われていません。輝きを放っています。それは、私たちはどうこの時代を生きるのか、そう問いかけてもいます。
 それはこの言葉が個人の中で完結するものではなく、他者 Others を思い起こして祈る方向へと、はっきり向けられているからです。
 他者とともに喜びに生きる道を、私は探していきたいと思います。ともに喜ぶ道は、自分を生かし他者をも生かす道であろうと思います。そこでは私たちに意志の持ちよう、他者への意識の向けようが問われます。神の恩寵の中にあるこの世界の中で、助け合い、支え合い、わかち合い、祈り合うことで、イエスが再び来たりたもうときまで、この世界でともに生きる喜びを追求して参りたいと願っています。

 

祈ります。
 神様、この小さき者、弱き者をあなたの教会の御用のために用いてくださったことに感謝いたします。至らぬ点を、どうぞあなたが補ってくださいますように。会衆一人一人の心の中の祈りに応えて、あなたが慰めと平安とを与えてくださいますように。人生の様々な困難や試練に直面している者の傍らにあなたがおられ、あなたが支えてくださいますように。私たちの愛が豊かにされますように。廣石先生、陶山先生、村上先生、関田先生の御健康が守られ、ご家族の上にあなたからの豊かな恵みと平安とがございますように。教会員お一人お一人の大切なお働きの上に、豊かな祝福がありますように。御教会の切なる祈りに応えて、あなたが御教会を導いてくださいますように。この小さき祈りを私たちの救い主である主イエス・キリストの御名によって、御前にお捧げいたします。

 
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