2013.2.10

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「自分の十字架を背負う」

廣石 望

エレミヤ書20,7-13 ; マルコによる福音書8,31-38

I

 本日の聖書箇所は、イエスに従おうとする人々にとって、彼の苦難の運命がどのような意味をもつかについて述べています。少し広くとれば、この世界で数知れぬ故なき苦しみの中にある人々と神はどのように関係するか、という神義論に関わる示唆を含むと見ることもできるでしょう。

 そのことをテキストに沿って、三つのステップを踏みつつ考えたいと思います。最初はイエスとペトロの対話です(31-33節)。この部分は、ひとつの過去の出来事を報告していると見えます。第二は「群衆」に対するイエスの信従の教えです(34-37節)。この教示は内容的に、こうして福音書を読んでいる私たちもそこに含まれる〈現在〉の話しのようです。そして最後のステップが、世の終わりの最期の審判という〈未来〉に関するイエスの発言です(38節)。

 

II

 しかしその前に、今日のテキストの前後の文脈を見ておきましょう。私たちの箇所はマルコ福音書の文脈では、イエスがガリラヤでの活動を終えて、エルサレムでの受難に向かおうとする転換点にあります。

 先行する文脈(8,27以下)でイエスはガリラヤ北方のフィリポ・カイサリアにおり、弟子たちに「私は何者か?」と尋ねます。すると弟子たちは「洗礼者ヨハネ」「エリヤ」「預言者の一人」という周囲の評価と並んで、「メシア」つまりキリストであると答えます。他方で、後続する文脈(9,1以下)のイエスは、高い山の上で真っ白に輝く姿に変容し、エリヤおよびモーセと語らいます。そこに神の言葉が響きます、「これは私の愛する息子、君たちはこれに聞け」(9,7参照)。――エリヤとモーセはそれぞれ旧約預言と律法を代表します。両方を合わせると、「メシア」とは神が定めた旧約の完成者であると暗示されているようです。

 興味深いのは、その両方のユニットの末尾で、イエスが自分のことを誰にも話すなと弟子たちに命じることです(8,309,9)。しかも「人の子が死者の中から復活するまで」という期限付きで。これは、イエスがキリストであることを本当に理解するには、イエスの十字架の苦難と復活を俟たねばならないという意味だと思います。

 

III

 では、私たちの箇所の最初の段落に入りましょう。イエスとペトロの対話です(31-33節)。イエスが自分の受難および復活の運命について予告すると、ペトロはそれを拒絶し、イエスから叱責されるという内容です。まずイエスは、次のように言います。

人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活する(原文は「立ちあがる」)ことになっている。

 「〜ことになっている」と訳されたギリシア語動詞「デイ」は、〈そうなることが神の主権によって定められている〉というほどの意味です。内容はイエスの受難復活予告ですけれど、この発言は生前のイエスには遡りません。「ぼくは三日後に復活することになっているから、また会おうね!」といって処刑される人はいません。イエスの復活のできごとは、人間イエスの限界の彼方でなされた〈神の行為〉です。つまりこの受難復活予告は、イエスの死後に、その復活を信じるようになった原始キリスト教が、壮絶な死に極まるイエスの生の歩みを〈神が初めから定めた道行き〉として再発見し、その認識を物語の主人公イエスの口に入れているわけです。

 この〈受難をへて復活へ〉という神が定めた運命について、ペトロは「いさめた」とあります。これに対してイエスは、ペトロを「叱り」ました。しかも「サタン、引き下がれ!」とは尋常ならざる罵倒です。じつは「いさめる」「叱る」と訳し分けられた二つの動詞は、ギリシア語原文ではどちらも同じ「エピティーマオー」という語です。「全然違う!と反論する」というほどの意味です。つまりペトロは「とんでもない!」とイエスに反論し、イエスも「お前こそ、とんでもない!」と応じたという図柄です。

 いったい師匠と弟子の間で、何が問題になっていたのでしょうか?――〈神は、人の苦しみを通して自己を啓示するのか否か〉が問題だったのだと思います。常識的には、神は人間の成功と幸福を通して証明され、崇拝されます。逆に、苦しみは神から見棄てられていることの徴です。不幸に見舞われた人について、私たちは「罰が当たった」というではありませんか。

 福音書のストーリー展開の中で、イエスが正しく、ペトロが間違っていたことが証明されます。したがってこの受難復活予告は、福音書という物語に内在的な未来を予め示唆するものです。つまり読者による〈読み行為〉に、前もって正しい方向性を与えることが、この発言の機能です。同時にこの対話は、過去の出来事についての報告という性格を併せ持っています。

 

IV

 しかし、続いて現れる「十字架の信従」を主題とするユニット(34-37節)は、福音書のストーリーの枠を内容的に超えています。イエスは弟子たちとともに「群衆」を呼び寄せ、「(誰でも)わたしの後に従いたい者は…」と語り始めるからです。「イエス」と「ペトロ」という過去の人物、ないしストーリーの登場人物間のやりとりを超えて、私たちを含むマルコ福音書の読者への〈呼びかけ〉が、よりはっきり前面に出てきます。

 まずイエスは、そのような者は自分を否定しろ、そして自分の十字架を持ちあげよと命じます(34節――新共同訳の「(十字架を)背負う」は少し意訳です)。十字架は拷問と虐殺のための道具ですので、この命令はほとんどグロテスクです。〈お前は虐殺されよ!〉と言うのですから。もっとも、現在では「自分の十字架を背負う」という表現は、〈人は誰しも他人に言えない苦労がある〉というような意味に介されています。それはそれでたいへんなことなのですが、元々の言葉は途方もなく激しいのです。そこには、マルコ共同体の人々が体験したであろう環境世界からの憎悪と、それを受けとめた人々の覚悟の大きさが感じられます。

 イエスは続けて「命(魂)」と「世界」について語ります。自分の魂を救おうと願う者はそれを失い、「私と福音のゆえに」(35節)魂を滅ぼす者はそれを救う。――まるで禅問答のような言葉です。次のイエスの発言にも、同じ息吹きが感じられます(マタイ10,28)。

体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。

 神のみを畏れ、もう人間は恐れるなという勇敢な教えです。イエスの人格(私)ないし福音は、死の彼方にあって魂(命)を活かす神の力につながっているのでしょう。

 「魂(命)」について、さらにイエスは、「人が世界全体を得しても、その魂(命)にダメージを蒙るなら、何の益があるのか? 人はその魂の代価として、何を与えようと言うのか?」と言います(36-37節を参照)。――〈世界を手に入れる〉ことは、自分の利益と権力を志向するあらゆる人間の究極的な目標です。しかしパワーを求める者がしばしば支払う代価が〈魂のダメージ〉です。やがてそれをダメージとも意識しなくなり、いよいよ魂を失ってしまう…。

 

V

 最後に、かつてのイエスの弟子たちにとっても、福音書の最初の読者にとっても、そして私たちにとっても、等しく〈未来〉である最後の審判の言葉を読みましょう(38節)。

神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。

 「恥じる」とは、羞恥心を覚えてうつむくのとは少し違い、例えば醜いものを見たときに、〈しかめっ面〉をして不快感を露わにすることです。イエスと彼の言葉にしかめっ面を返す者に対して、最後の審判者である「人の子」も不快感を露わにするだろう。

 明らかにイエスは、自分と最後の審判者を重ね合わせています。イエスへの態度が、その人の最終決定的な運命に直結するのですから。これは冷静に考えれば、不遜極まりない発言です。こんなことを言うことは、本来、人には許されていません。ユダヤ人が〈イエスは神を冒涜している〉と批判したのは正しいのです。これはイエスの罪だと思います。それでもはっきりしているのは、イエスが自分を限りなく神に向かって透明にしたことです。

 最後の審判では、私たち一人ひとりの運命と同時に、このイエスの生き方が真実なものであったかどうかも明らかになるでしょう。そして、やがて「人の子」という存在もまたイエスその人に他ならない、と信じられるようになってゆきました。「羊を右に、山羊を左に」分ける審判者は、イエスその人です(マタイ25,31以下参照)。

 

VI

 こうして「福音」そして「人の子」などの概念は、最終的には等しくイエスの人格(私)に結び合わされます。いったいイエスの人格とは、福音とは何なのでしょう?

 とりあえず次のように考えることができるのではないでしょうか。すなわち福音とは、故なき苦しみの中にある人間に端的に現れる、神だけが与えることのできる尊厳のことであると。

 登場人物ペトロは、イエスの苦難を神が現れる場所として否定しますが、イエスはそれを指して「サタン」と呼びました。また(福音書の読者を含む)群衆に向かってイエスは、自分に従いたいのであればその人は自分を否定し、自分の十字架を背負えと言います。本当に自分の魂(命)を救いたいのであれば、「私と福音のゆえに」それをいったん捨てろと。また私たちすべてに向かってイエスは、自分に対する態度がその人の運命を決すると言います。

 ――これらの発言すべては、「神だけが王として支配する」という宣教のゆえに、人として最も悲惨な死を受けた、つまり魂(命)を失ってしまったイエスに、神が新しい命を与えた。つまり苦難の中で魂を失ったイエスこそが、神が万人に与える大きな尊厳の証し人になった、ということを示しています。

 

VII

 先週の礼拝後、皆さんの多くが、日本キリスト教海外医療協力会(JOCS)の海外派遣ワーカーとして、タンザニアのタボラ州で子どもたちの健康向上のために活動してきた倉辻忠俊シニアワーカー(小児科医)の報告を聞かれましたね。私は残念ながら不在でしたので、教会のHPで後から内容を拝見しました。

 この地域では、衛生的で安全な飲み水を確保することが難しいこと、また栄養不良の子どもが多くて病院に収容されても簡単に落命すること、またしばしば大人たちの身勝手な行動がその原因であることなどが報告されています。

 20年ほど前に死去した作家の中上健次さんが、当時高校生だった娘・菜穂さんに宛てた手紙があります。その一部を引用します(高山文彦『エレクトラ 中上健次の生涯』文芸春秋社、2007年、412-413頁より)。

お父さんは、おまえの名前を菜穂と名づけるとき、この子と、この子の生きる世界に、稲穂と野菜があまねく生き渡りますように、天に祈って、名付けた。…
菜穂は飢えてはいない。ではどうして、他から飢えた子供の泣き声が聞こえるのか。…もし不正義があり、そのためだというなら、不正義と戦って欲しい。
しかし戦いは、暴力を振うことだろうか? 違う。人間の存在の尊厳を示すことだ。そのためには、英知が要る。豊かな感受性が要る。菜穂が、この学校で学ぼうとしていたことは、不正義と戦う本当の武器、つまり人間の存在の尊厳を示す方法だったのだ。

 中上氏が「不正義と戦う本当の武器、つまり人間の存在の尊厳を示す方法」と呼ぶもの、これは福音のことではないでしょうか。――飢えた子どもたちの存在は、私たちの魂(命)にダメージを与えているではありませんか。そんなとき、全世界の富を手に入れてみたところで、いったい何になるでしょう? そして不正義と戦おうとする者が、「神のことでなく、人のことを思う」人々から嫌われ、迫害され、名誉を奪われ、場合によっては命までとられることは、今も変わりません。

 〈自分の十字架を背負う〉とは、神だけが与える人間の尊厳のために自らの魂(命)を失ったイエスに従うこと、そうして彼の苦難の運命に参入することで、イエスが神から受けた新しい命を自らも渇望しつつ生きることです。

 
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