2013.1.27

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「花婿の時」

廣石 望

イザヤ書61,1-11 ; マルコによる福音書2,18-20

I

 あらゆる宗教には、祝祭や巡礼などの定期的な行事と並んで、日々の実践があります。例えば仏教の場合、毎朝お仏壇に供え物をし、お線香をあげて、お経を唱えたりすることがそうです。

 イエスの時代のユダヤ教では、定期的な巡礼祭と並んで、安息日の遵守や十分の一税の納入あるいは清浄規定などがあり、とくに重要な日々の宗教的実践として「施し」「祈り」そして「断食」が励行されていました。そして、そうしたことを日々行っていることが、その人を神の前で折り目正しく暮らしていると社会が認知する上で、重要なメルクマールだったのです。

 近代日本のプロテスタント教会では、とりわけ日曜日の礼拝参加や献金がそれに当たると思います。もちろん定期的に礼拝に参加できるのは、たいへんありがたいことです。それでも例えば、礼拝出席の頻度や献金額の多寡によって信仰の「度合い」が測定されて、それが当該の信徒さんの教会社会における評価に直結するとしたらどうでしょうか?

 じっさい、そのような指導がなされる教会もあります。しかし私たちが信じる神は、私たちを「平常点」で段階評価するような、ケチな神さまなのでしょうか? 神を畏れつつ歩むことは、始終ビクビクしていることとどう違うのでしょう? あるいは自分だけは神の前で正しくありたいと願うのは、ひょっとするとエリート主義のエゴイズムなのではないか?

「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。」(ルカ福音書18,11-12

 これは、〈ファリサイ人と徴税人〉と呼ばれるイエスの譬え話に登場する、ファリサイ人の神殿での祈りです。たぶん、宗教的なエリート主義の偽善に対するカリカチュアです。他方でイエスが「神の国」の福音を真っ先に告げてまわったのは、当時の社会で、信仰的には死んだも同然と扱われていた「罪人」たちでした。

 私たちは日常的な宗教信条の実践とイエスに従うことの関係を、どのように考えればよいでしょう?

 

II

 本日の聖書テキストのテーマは「断食」です。

 現代日本のプロテスタント教会は、ほぼ断食の習慣をもちません。しかし例えばカトリック教会には、現在もその習慣があります。スイス留学時代、ふだんはまったくミサに参加しないカトリックの友人家族が、受苦日にアルコールを控えていたのを覚えています。「私たちも以前は、本当に断食していた。今はそこまではしないけれど、さすがに今日だけはアルコールはダメ」と言って。習慣の力は大きいですね。

 

 旧約聖書によれば、「断食」とは宗教的な理由から、飲食を部分的にあるいは全面的に停止することです。そのきっかけは蝗の被害といった天災を遠ざけるため、敗戦を悲しむため、国家の滅亡を記念するためなどの公的なものから、子どもの病気のため、喪に服すためといった個人的なものまでいろいろありました。神との出会いを前に、人が自らを低くするために行なう場合もありました。

 例えばルカ福音書の誕生物語に登場する女預言者アンナについて、次のように言われています(ルカ2,36-37)。

(彼女は)非常に年をとっていて、若い時嫁いでから七年間夫と共に暮らしたが、夫に死に別れ、八十四歳になっていた。彼女は神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていた。

 これは宗教的に非常に敬虔な人の姿で、断食はそうした姿を構成する一要素なのです。

 

 原始キリスト教にも「断食」はあります。例えばアンティオキア教会は、パウロとバルナバを宣教に派遣する前に断食しています(使徒言行録13,2-3)。長老の任命に際しても同じです(同14,23)。紀元2世紀の初め、シリアで成立した『十二使徒の教訓』というキリスト教文書では、火曜日と木曜日に断食するユダヤ人から自分たちを区別するために、水曜日と金曜日に断食するよう勧告されています(同8,1)。洗礼候補者も、洗礼式に先立って断食しました(同7,1)。――ようするに原始キリスト教で、「断食」はふつうに行われていました。

 

III

 では、イエスはどうだったのか? ――じつはイエスが断食したと読める伝承と、しなかったと読める伝承の二種類が残されています。

 まず断食したと読めるものから見ると、〈荒れ野の誘惑〉のイエスは「四十日間、昼も夜も断食した」(マタイ4,2ルカ4,2も参照)とあります。さらに〈山上の説教〉でイエスは、断食するときは偽善者のように陰気な顔つきをするな。身なりを整え、すました顔をしてやれと教えています(マタイ6,16-18)。

 しかしながら荒野での40日の断食は、モーセが神と共に「四十日と四十夜」シナイ山に留まり、そのとき「パンも食べず、水も飲まず」、契約の言葉を板に記したという故事(出エジプト34,28)にちなんだ伝説です。他方、〈山上の説教〉の該当箇所には、「施し」「祈り」そして「断食」というユダヤ教の日常的な宗教行為の三点セットがそのまま出ます。つまりマタイの教会は、他の原始キリスト教と同じように、ユダヤ教の伝統を継承して「断食」していたのです。アクセントは断食するかしないかでなく、そのやり方、つまり他人に見せびらかすなという点にあります。

 他方で、イエスは断食しなかったという伝承もあります。今日のテキストがその代表です。

 洗礼者ヨハネの弟子やファリサイ派の人々が断食していたのに、イエスの弟子たちはしないので、それが目立ったというのです。だから「なぜしないのか」と問われてイエスは答えます(マルコ2,19)。

花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない。

 「花婿の時」とは、「神の国」の時間的な特質を表わすイエスのイメージ言語の一つです。彼は〈自分が花婿である〉とは言いません。「花婿がいっしょにいる」とは、むしろ「神が王として支配する」というシンボルの言い換えです。イエスが神の国を「宴」のイメージで捉える例は、他にもたくさん知られていますね。

 「花婿の時」を実践に移したのが、当時の社会で「罪人」と呼ばれる人々との共同の食事でした。例えば次のような言葉が残されています(マタ11,18-19ルカ7,33-34)。

ヨハネが来て食べも飲みもしないでいると「あれは悪霊に取りつかれている」と言い、人の子が来て飲み食いすると「見よ、大食漢の大酒呑みだ。徴税人や罪人の仲間だ」と言う。

 この言葉は、「花婿の時」を生きたイエスに対する、当時の人々の違和感を表現しています。つまりイエスの先生であったヨハネも、またその弟子であるイエスも、世間の規準から見ればどちらも外れている。ヨハネは極端な禁欲主義者である一方で、イエスは「いかがわしい」連中と食事を共にしており、何とも汚らわしい…。

 ところで現在のマルコ福音書では、「花婿の時」についての言葉に続いて、次のような言葉が補われています(マルコ2,20

しかし彼らから花婿が取り去られる日々が来るだろう。そしてそのときは、かの日に彼らは断食するだろう。

 ここにいう「花婿」はキリストを指します。「花婿が取り去られる日々」とは、イエスが処刑されるか昇天するか、いずれにせよ地上の生を終えて、もはや弟子たちとともにいない時間が来ることを意味します。「かの日に彼らは断食する」は単数形です。もしかすると原始教会は、イエスの受苦日に断食したのかもしれません。ともかくこの言葉は、原始キリスト教が「花婿」という表現をキリスト論化することで、断食をめぐる習慣の変化について説明しているのです。

 逆に言えば、イエスは「断食」しませんでした。そのことは、〈花婿のとき〉というイメージで捉えられた「神の国」に関するイエスの時間理解に関係しています。

 

IV

 婚礼は、古代イスラエルの農村社会で「ハレ」の時間でした。村人の多くが、この喜びに参加しました。婚礼は一週間続いたとも言われます。

 例えばイエスの有名な〈10人の乙女〉の譬え(マタイ25,1以下)では、夜開かれる婚礼にさいして、客は花嫁の家で接待を受けながら花婿が迎えに来るのを待っています。花婿が到着すると、灯火を明るくして歓迎する。そして花婿と花嫁は、客と一緒に行列を作って花婿の父の家に行き、そこで本格的な祝宴が始まるという習慣が前提にされているようです。

 ご存知のようにヨハネ福音書は、ナザレ近郊の村カナでの婚礼にさいして、イエスが葡萄酒を増量するという奇跡を起こした経緯を伝えています(ヨハネ2,1以下)。彼のお母さんもいます。おそらく親族一同も参加していたことでしょう。

 「花婿のとき」とは喜びの交わりの時、神の臨在の時、メシアの時であり、そこでは日常的な「分離」と「秩序」が廃棄されます。洗礼者ヨハネとの違いについて、ヨハネ福音書が、次のような印象的な言葉を伝えています(ヨハネ3,29-30)。

花嫁を迎えるのは花婿だ。
花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。
だから、わたしは喜びで満たされている。
あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。

 この発言で「花婿」とは再びイエスのこと、そして「花婿の介添え人」は洗礼者ヨハネです。〈洗礼者はイエスの登場を喜び、その脇役に回る〉という原始キリスト教の洗礼者理解が反映されています。それでも背後に、イエスが自らの活動を「花婿の時」というイメージで捉え、それが同時に洗礼者ヨハネとの違いを示すものでもあった、という歴史的な事情が透けて見えますね。

 洗礼者ヨハネによる「罪の赦しに至る悔い改めの洗礼」は、〈人間の罪〉と〈間近に迫った神の怒りの審判〉を、つまり救いの〈神の不在〉を前提していました。これに対してイエスの「神の国」では、〈罪ある者たちに救いをもたらす王なる神が共におられる〉というメッセージが中心にあります。悪霊祓い、病気治癒、死者の蘇生、「罪人」たちとの共なる食事などは、みなそのことの表現です。

 やがてイエスに対する復活信仰が生まれたとき、〈キリストこそが花婿だ〉という理解が生まれました。だから教会ないし新しい世界は「花嫁」のイメージで表現されます(ヨハネ黙示録21,2)。

わたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。

 

V

 現代に生きる私たちは、イエスが用いた「花婿の時」というメタファーをどう受け止めればよいでしょうか?

 私たちは相変わらず大量消費社会に生きています。コンサートやスポーツ観戦、お食事会や飲み会に至るまで、ある意味で毎日が娯楽やパーティだらけ。静かに落ち着いて暮らすために、いろいろなお誘いを断るのに苦労する人もいるかもしれません。

 他方で、私たちは毎日「お祭り」しながら生きることはできません。ブライダル産業に従事する人たちにとっても結婚式は業務であり、自らの祝祭ではないでしょう。

 同様にどのような宗教も、草創期のイノベイティヴな時期を過ぎれば、しだいに「安定化」を志向するようになります。そのとき非日常的な「喜び」ばかりでなく、「悲しみ」や「悔い改め」を日々の宗教行為の中に位置づける必要に迫られるでしょう。じっさい原始キリスト教がそうでした。彼らはイエスとは異なり、当然のように「断食」の習慣を継続したのです。

 しばらくすると、わたしは再び学生引率で南インドを訪問します。

 これまで、女子孤児院の少女たちとの交流を大切にしてきました。少女たちは、あらゆる面で日本の学生たちとは違います。彼女たちにはまともな「父の家」がなく、尊厳を守り育ててくれる家族がしばしば欠けており、小学校にも通わせてもらえないことがあり、文房具や教科書はおろか栄養価の高い食べ物がありません。抱き上げると、とてもほっそりしています。アウトカーストとして社会の中で宗教的にも差別されており、身分の高いヒンドゥー教徒が詣でる神殿に立ち入ることが事実上禁じられています。

 そのような少女たちと、日本の恵まれた環境で育った女子の学生たちが、言語・文化・社会身分・宗教の違いを超えて交流します。

 ある夕方の交流会で、突然、地域全体が停電したことがあります。インドでは停電は珍しくありません。カセットで音楽をかけることできないし、天上のファンも回らず、だんだん暑苦しくなってゆく部屋の中で、私たちは再び電気が来るのを待っていました。NGOの主催者は、バイクを飛ばして変電所に交渉に行きましたが、電気はなかなか来ません。

 総勢で40人くらいの私たちの手元にあったのは、たった2本のろうそくでした。子どもたちと学生たちはやがてしびれを切らして、2本のろうそくの光の下で遊び始めました。もう誰にも止められません。手遊びをしたり、ダンスをしたり、歌を歌ったり。汗をたらたら流しながら、嬉しそうな声をあげて。私には皆の白目と白い歯しか見えませんでしたが、そこには喜びが溢れていました。――そのとき思いました、「あぁ、花婿の時だ」。

 私たちは受け継がれてきた日々の宗教的習慣を、むげに否定する必要はないと思います。それでもイエスが「神の国」を宣教したとき、当時の宗教的な習慣の一部をあえて「実践しない」ことで、社会的なバリアを飛び越えて「新しい時」「喜びの時」の始まりをアピールしたことの意義は見失われてはなりません。

 私たちはイエスが再び来られることを信じます。それは花婿の不在の時を、その到来を待ち望みつつ、悲しみや分離を乗り越えて喜びに生きることです。静かな日常の中で、私たちは新しい時、花婿の時を生きるのです。神の聖なる霊が、そのことを可能にして下さると信じます。

 
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