2013.1.20

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「すぐに従う」

関田寛雄

エレミヤ書1,4-10 ; マタイによる福音書4,18-25

 本日は、日本基督教団の聖書日課に従いまして、マタイの福音書4章18節以下を選ばせていただきました。三つのことを申し上げたいと思います。まず一つは、イエス様がガリラヤで伝道を始められた、その前段階のことです。

 

I

 今日の聖書の箇所の少し前ですが、マタイによる福音書4章12節に、「イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた」とあります。ここからイエス様のガリラヤ伝道が始まるのです。

 イエス様がバプテスマのヨハネから洗礼をお受けになったことは、疑うことのない事実でしたが、そのことは初代教会にとっては都合の悪いことでした。ヨハネの集団からイエスの集団に対して「おまえたちの先生は、私たちの先生ヨハネから洗礼を受けておられるのだ。我々から離れていったイエスよりも、私たちの先生であるヨハネ先生の方が優れているんだ」というような非難があって、ヨハネ集団とイエス集団の間には緊張関係があったのでしょう。

 そこでイエスの弟子たちから、ヨハネがその弟子たちに教えたように、私たちにも祈ることを教えてくださいという要望が出されます。それによってイエス様は「主の祈り」を教えられた(ルカ11章)と記されています。

 ヨハネ集団からイエス様が離れたということについて、どういう経過があったのでしょうか。

 ヨハネ集団というのは、ものの書物によりますと、エッセネ派という集団に近かったと言われます。エッセネ派とはエルサレムの祭司集団と対立し、ユダヤの荒れ野に退いてそこで共同生活を送りました。厳しい律法遵守を続けながら、斎戒沐浴(さいかいもくよく)、日々に清めの儀式を行いながら、終わりの日には我々こそが救われるのだという、非常に厳しい禁欲的な生活と閉鎖的なエリート意識をもっていたようです。

 激しい悔い改めを求めるそのヨハネの運動に、主イエスは最初惹かれて、そしてヨハネから洗礼をお受けになったことは事実です。しかし、イエス様はヨハネ集団に属しながらも、ある悩みを持っておられたのではないか。自分たちこそが救われるのだという、非常に禁欲的な、律法に厳しい生活を続けているその集団の中にあって、イエス様はある疑問を持っておられた。

 ですから、その次に続く荒野の誘惑の物語(マタイ4章)は、イエス様の使命を巡る苦悩を表現しているものではないかと思うのです。そのことを経て、ヘロデによってヨハネが逮捕された時、ヨハネの弟子たちは恩師が捕まったわけですから、何とか先生を解放してもらいたいと、ヘロデに対する抵抗とか、あるいは恩師の身柄を取り戻すという動きに出たのだろうと思います。

 けれどもイエス様は、そのことをきっかけにヨハネ集団から離れて行かれたのです。

 それでどこに行かれたか。荒野にとどまるわけでもなく、宗教集団の中心であるエルサレムに行くわけでもなく、ガリラヤに行かれた。ガリラヤというのはユダヤ社会においては被差別の地域です。4章の続きのところのイザヤの引用を見ましても、「ゼブルンの地とナフタリの地、湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、異邦人のガリラヤ」(15節)と言われています。ユダヤ人から見れば被差別の地域であるガリラヤに、イエス様は行かれたのです。その時からイエスは「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた(17節)。この言葉は、マタイ3章にありますバプテスマのヨハネの宣言の言葉と全く同じです。

「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。(3章2節

 ヨハネの宣教活動を受け継ぎ、「悔い改めよ。天の国は近づいた」という同じメッセージを語りながらも、イエス様は全く異なった内容を、その言葉の中に含めておられたと思います。荒野における自己完結的な、自閉的な集団ではなく、ガリラヤの町々、村々を経巡り歩き、民衆と出会い、そして異邦人を含むガリラヤの人々に対して、普遍的な神の福音を伝える。そこにイエス様の宣教の方向性があったのです。そのことのために、ヨハネとの訣別も起こったのだろうと思います。このようにしてイエス様が、ガリラヤを選んで宣教を始められたということに、私は今日の宣教というものの方向性が示されていると思います。

 

 話は飛躍しますが、マーティン・ルーサー・キング先生がボストン大学でPh.D.の資格をお取りになったその後、豊かな北部の二つの大学から招聘があったのですけれども、コレッタ夫人と話し合った末に「自分たちは南の貧しい教会の方々の祈りによって支えられてきた。もし私たちが選ぶとするならば南を選ぼう」と、北の二つの大学の招聘を断って、デクスターのバプテスト教会にご夫婦で赴任されたのです。そしてその半年後に、ご存じのように公民権運動の火が爆発いたしました。バスボイコット運動が始まったのがその年の12月でした。

 私はここに、イエスに従うということの、イエスの方向性と自らの方向を一つにすることの大切さを思います。少なくとも志においてイエス様の方向性を受け止めるということが、キリスト教会にとって、とても大切な課題ではないでしょうか。

 

II

 次に、イエス様が弟子を招かれたということについてお話します。昔、この教会の牧師であった赤岩栄先生が『イエス伝』(月陽書房、1950年)という書物を著しておられます。私も若い青春の頃に、どんなにか深く赤岩先生の書物に影響を受けたことでしょうか。その中に、忘れられない場面がございます。

普通の師弟関係においては、弟子が師を選ぶ。つまり自分の人生上の意図、こうなりたい、ああなりたい、そのことに即してどの先生が良いだろうか? と、その先生の業績、人格、見識、それらをながめて評価しながら、私はあの先生についていこう、と、弟子が先生を選ぶものだ。ところがここでは、イエスさまが弟子を選んでおいでになる。全く逆だ。そこに何があるか。弟子の意図の延長線上に恩師がいるという世間通常の関係ではなく、イエスさまご自身の独特な意図、計画、そのことのために必要なパートナーを、イエスは選ばれたのだ。

 イエスの意図に、弟子たちが参加するべく招かれている。弟子たちの意図はそこでは遮断される。そういう関係を赤岩先生は注目しておられ、私は非常に印象深くその場面を読みました。

 

 実は私も、選ばれて川崎に遣わされました。50年以上も前に遡りますが、私の恩師の浅野順一という美竹教会の牧師であられた先生が、戦後の新しい教会の宣教の課題として、都会の真ん中の美竹町ではなく、農村と労働者の町をお考えになりました。 農村伝道に一つの拠点を設け、これは今日、牛久教会として成長しました。労働者の町にも拠点を作るというので、私が選ばれたのです。

 浅野順一先生が戦後の伝道において、農村と労働者の町をお考えになったのは、伝道者のビジョンとして大変結構なことですけれども、選ばれた私自身は、必ずしも浅野順一先生のビジョンを共にしていたわけではありませんでした。その頃たった一年間だけ青山学院教会で伝道師の仕事をいたしましたけれども、非常に大きな限界を感じまして、一年で辞任していました。

 青山学院教会というのは、学院の教職員が礼拝においでになるのです。私の学んだ恩師の先生方もその教会に属しておいでになる。ところが伝道師として就任したものの、私どもの恩師の先生方の教会生活は、必ずしも順調ではない。よくお休みになられる。そういうとき伝道師として、恩師に対して「礼拝を守ってください」などと言いに行くというのは大変苦痛でした。これはもう限界だ、と思いまして、一年で辞めさせてもらったのです。

 

 その後どうするか、と思ったとき、自分のインテンション(意図・計画)を実現するために3人の先生を考えました。私は新約学の専攻でしたので、新約聖書の指導者・権威者である小塩力おしお つとむ先生の教会に行こうか、青山学院の神学部の大先輩である鈴木正久先生の教会に行こうか、それとも神学科の学科主任である浅野先生のところに行こうか、迷っておりました。

 私はなんとしても神学の道を深めたいという自分の意図がありました。自分の意図にふさわしく先生を選びたい、と思っていたのです。そんな時にたまたま浅野先生から声がかかりまして、川崎に開拓伝道を始めるから来ないか、ということでしたので、数人の神学生と一緒に行きはじめたわけです。

 そのうちに先生のお働きが広がっていき、誰がその後の責任を負うかという話になり、私が大学院を出たときに、浅野先生から桜本の開拓伝道をよろしく頼むと言われたのです。私は自分なりに学問の道を志しておりましたので、その範囲においてはお助けできるかと思って引き受けたのですけれど、浅野先生の労働者伝道のビジョンを引き継いだわけではありません。そういう立場でしばらく川崎に住み込んだのですが、やがて開拓伝道という泥臭い仕事と、研究室に残って続けている新約学の専門的な研究との「二足の草鞋」がどうにも矛盾してきて、我慢できなくなりました。

 ちょうど同じ研究室に机を並べて切磋琢磨しておりました相手に、荒井献あらい ささぐという人がおりました。佐竹明という人もおりました。佐竹さんは「俺は牧会はしない。教師の試験は受けているけれども、補教師で終わる」と言い、荒井さんは「自分は牧師にはならない」とおっしゃる。私だけが開拓伝道という泥臭い仕事をかぶっているわけですから、業績の面でみるみる差が出てくる。それが辛い。それで恩師の浅野先生に、なんとか「二足の草鞋」をやめさせてもらいたい、伝道一本で行くならやります。学問一本で行くならさらにありがたい。二足の草鞋を一足にしてくれ、と相談に行きました。浅野先生は黙ってしばらく私の顔を見ながら「君、私はねぇ、三足履いていますよ」と言われた。私は言葉を失いまして、恩師が三足履いているのに私は二足だ、と言葉もなく帰ってきたのです。

 

 私の意図を活かす延長線上に恩師を考えると、恩師をして、私の意図の実現のために役立ってもらうという方向になります。それではどこかで行き詰まるわけです。私は二足の草鞋を履きながら矛盾を抱えてどうしようか、迷いに迷ったのですけれども、それがどうしたことか、五十数年川崎の伝道に専心することになったわけです。なぜでしょうか。それは現場における在日韓国・朝鮮人の苦しみ、悲しみとの出会いでした。

 私が赴任いたしまして57年に現地に住み込んだその直後、大韓川崎教会に李仁夏イ・インハ牧師が赴任して来られました。着任の挨拶にいらっしゃった時「初めての挨拶でありますのに、いきなりお願いをして申し訳ないけれども」と切り出され、「自分の子どもを桜本の小学校に入れようとしたら、かつての植民地出身者については日本人の保証人を立てろ、と校長に言われたので、やむなく先生のところに来ました」とおっしゃるのです。

 私はびっくりいたしました。かつての植民地の住民という理由で、日本社会の中で正規の学校に入るときに日本人の保証人が必要だ、とは。保証人とは何の役割でしょうか。安全保障のために立てるわけですね。それが当時の日本の小学校の校長の認識だったのです。さらに仁夏さんは、自分の娘をあるキリスト教系の幼稚園に入れたいと思って、話しに行ったところ、「うちの幼稚園にはは誰もいませんので」と断られた。キリスト教主義の幼稚園ですから、何度も諦めずに話し合ったところ、まぁ牧師さんの娘さんならいいでしょう、と屈辱的な形で入園を許された、というのです。

 その仁夏牧師の、日本社会における痛みに直面させられたそのときに、私は自分の意図、研究者として生きていこうという意図を遮断されました。そこで初めて、この川崎における在日韓国・朝鮮人の方々との、共に生きる生活、伝道の営み、それらが私にとって必然性を持ってきたのです。人生にとって最も大きな課題は、偶然を必然化するということです。「これでよかったんだ」という、偶然を必然化するということに優る貴重な人生の課題はないということを、つくづく思わされました。このようにして私は、招きに応える者となったのです。

 

III

 さて今日の聖書の箇所で、ペテロとアンデレ、ヤコブとヨハネがイエス様に招かれ、「すぐに従った」とあります。この点が今日のお話しする第三の点です。

 「すぐに従った」ということはどういうことなのでしょうか。ペテロとアンデレの場合、

湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。(4:18b-20

 「わたしに学びなさい」とはおっしゃっていません。「わたしに学びなさい」と「私について来なさい」は質的に全く違うことです。「学ぶ」ということの中には、距離があります。学ぶ相手に対する距離があり、学ぶ相手に対する評価があり、観察がある。「ついて来なさい」という言葉は、観察するとか、評価するというゆとりを許さない。全存在的にその人と生活を共にする。課題を共にする。全存在的に共に生きるということ以外にはない。

 この後のヨハネとヤコブの場合もそうです。彼らは「すぐに、舟と父親とを残してイエスに従った」(4:22)。この「すぐに」とはどういうことなのでしょうか。原典を見ますと、確かに「すぐに、即刻」という意味なのですけれども、さらに厳密に調べてみますと、時間的にすぐに、瞬間的にすぐに、という意味の他に、もっと関係的な概念として、密接に、仲介者を置かない、介在物をなにも置かない、「直接性」という意味が含まれています。英語の聖書ではimmediatelyという言葉が使ってありますけれども、まさにそれは、時間的にも「すぐ」ですけれども、関係的には「直接性」、すなわち間に何も置かないという意味です。イエスの招きはそういう招きです。時間的な「すぐに」ということに加えて、生活の手段である網を捨てる、舟を去る、ましてや血のつながりのある父親を、肉親をおいて行くということが、いったいどうしてできるのでしょうか。

 

 イエス様に従うということは、究極の関係が私たちに求められているということです。究極の関係、そこには「私」と「あなた」、「我」と「汝」、という関係しかない。直接的な、何の仲介物もない「我」と「汝」の関係が、究極的な関係として前提にされているときには、それ以外の様々な諸関係、それらはすべて相対化されます。

 イエス様は、自分よりも父、母、息子、娘、そういう者たちを愛する者は、わたしにふさわしくない(マタイ10:37)と激しい言葉でおっしゃっています。それらのものを捨て、憎む、ということでしか私に従ってくることはできないと(ルカ14:26)、非常に厳しい言葉がイエス様から出てまいります。それは言葉を変えて言うならば、イエス様と私との究極的な関係、一対一の関係が本当に確立されるときに、それ以外のものはどうでもよくなってくるということなのです。ある意味でそれは、自由になるということです。でも、自分の職業の問題、家族関係の問題――なかなかそれは相対化できない。けれども、それを相対化せざるを得ないような関係が、イエス様との関係なのです。

 

 例えば、マルティン・ルターという改革者がおりました。彼は貧しいアイスレーベンの炭坑夫の父親から期待を受けて、大学の法学部に入りました。けれども、やがてどうしても内面的な促しを抑えることができなくて、彼は法学部を辞めて修道院に入った。そのことは父親を激怒させました。父親の期待をまったく覆してしまったのですから。そこでルターと父親との間は断絶したわけです。けれども、数十年経ちまして、ルターのヨーロッパに対して行った大いなる教会改革の動き、その結果に接して父親はルターを理解した。最後には父親に対する実にうるわしい愛情のこもった、ルターの手紙が残っております。

 

 そのように究極的なイエス様との関係、それは非常に苦痛に見えますし、困難に見えるけれども、実は、本当につなぐために、福音はそれまでの関係を一旦「切る」のです。その痛み。しかしそのことによってこそ、福音的な本当の結びあい、絆が生まれる。それがイエス様と私たちとの関係にまさに当てはまるのです。

 イエス様に従うということは、ときとして、とても大事に思っていることについてこれを切る、という場面にぶつかります。しかしそれは、単に切って捨てるのではなくて、新しい次元でそれを活かすためにいったんは切る、というイエス様に対する服従であり、「すぐに」という意味は、そこにあるのです。間に何も評価とか、観察とか、そういうものを置かない、直接的な我と汝の関係。

 あのキルケゴールという人が、あの方は本当に大きな、精神的苦悩を担った方でありますし、父親の問題を引きずって生涯苦しんだ人間でありますけれども、そのキルケゴールが言っている言葉があります。「他に行くべき人を知らず、何ごとにつけても唯、彼(キリスト)のみもとに行くことを知る人は幸いである」。

 「他に行くべき人を知らず」――ここにこそ私とイエス様、イエス様と私のつながりがあるのです。そのことが私たちに自由を与え、そのことが本当に豊かな、祝福に満ちた人生をもたらしてくれる。決して日常的な諸関係を切り捨てて、独り閉鎖的な人生を生きるのではなくて、むしろ「他に行くべき人を知らず」という告白によってこそ諸関係を新しくなぐさめに満ちたつながりとして、もう一度生きることができるようにされるのです。直接的な自分の意図は遮断される、断絶させられる、それが実は恵みなのだという、遮断の恵み、断絶の恵み。そこに私たちの信仰生活の本質があります。

 

 川崎に遣わされまして五十数年、開拓伝道で二つの教会を作りました。今振り返って見ると、自分の意図が遮断された中途半端な二足の草鞋を履き続けてきてしまいましたけれども、その二足の草鞋そのものが、矛盾に満ちたままで私にとっては大きな恵みであったということを思います。神学という学問を、どこに立って、どの視点で行うのか。象牙の塔の中で行う神学ではなくて、抑圧され、差別され、痛みをもっている人たちと共に涙を流しながら、そこでなされる神学の意味深さを学ばせられる。主イエスに従うということは、時に辛いことかもしれないけれども、それを突き抜けた自由と喜びが与えられる。「」というのはそういう意味だということを、教えられたのです。

 

 ご一同それぞれ、代々木上原教会の信徒として、それぞれの場面で主イエスに従う、それがどうか「すぐに従う」という性格のものでありますように、と心から願っています。神さまご自身が、イエス様ご自身が、その「すぐに」を私たちに創ってくださる――そのことを希望として歩んでいきたいと思います。

 

 
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