2012.12.2

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「はるかなる望み」

佐伯晴郎

創世記15,4-6 ; マタイ福音書2,1-3

 かつて宮城学院女子大学YWCAの夏の修養会の折、私は「三つの不在」という題で、次のような話を致しました。

三つの不在とは、権威の不在、永遠の不在、祝福の不在です。つまり現代の私たちの生活に、何が欠けているか、と言えば、一つ、私たちの日常は、誤った平等観に支配されており、まとまりのない無駄な話や、自分勝手な行動が多いのではないか。二つ、私たちの関心は、迫った目前のことだけに向けられていないか。三つ、私たちは、自分についての不平や不満、他人に対しては潜在的反感やコンプレックスを抱いており、お互いのことを喜び合う心が欠けていないかという問いを提起し、それらをめぐる話し合いから、権威、永遠、祝福という三つの意義について、聖書を通して学び、語り合いました。

 こういう機会を再び持つとしたら、私は「望みの不在」というテーマを選びたいと思います。今日、私たちの間で最も欠けているものの一つは「望み」であると思われるからです。

 もちろん、予定とか計画とか期待と言った言葉なら、周囲に氾濫しています。私たちの手帳やカレンダーには、会合や行事などの日程が次々に書き込まれていますし、新聞を開けば、何々プロジェクト、何年度計画といった活字がすぐ眼に入ります。また、育ちゆく子どもを持つ家庭では、彼らの将来に関する親の夢や期待が、いつも話題になります。

 しかし、予定や計画や期待は、「望み」とは違います。なぜなら、それらはいずれも私たちの地上生活の営みに関するものであり、どんなに現実離れの夢がそこで語られようと、それはあくまで私たちの現実の産物にすぎません。それに対し「望み」とは、私たちの現実を超えた、いと高き真理(神)との関わりを意味する言葉であるからです。そして、このような望みの有無は、私たちが思いがけない不幸に出会う時決定的な意味を持つのです。

 そこで今日は、このような望みに生きた一人の女性の具体的例をお話しさせて頂きます。

 1932年、スイスのローザンヌでなくなったシュザンヌ・ド・ヴィスムという47歳の女性がいました。彼女はロンドンのスイス人教会の牧師夫人でしたが、突然、再起不能の難病にかかり、夫と二人の子を家に残してスイスに戻り、ふるさとの病院で闘病生活に入ります。その二年間、死ぬ直前まで夫にあてて記した手紙が、小さな書物になりました。それは、「その故は神知りたもう」という新教出版社新書版の小さな書物ですが、1961年に初版が出て以来、今日まで数十年にわたって版を重ね、多くの人々に愛読される名訳の書となっています。

 この書に収められているシュザンヌの手紙は、かぎりなく深い慰めと共に、大いなる望みを私たちに与えてくれます。重病の床に伏している人に慰めの手紙を書くことは、それ自体、非常に困難なことですが、まして重病の人から健やかな人に送られる手紙が、大きな慰めと望みの言葉になる、そういうことがあるとすれば、それは驚くべき事実ではないでしょうか。シュザンヌの手紙はまさにそのような内容であり、その一文一文は、一人の女性のたましいの、高雅な美しい奇跡としか言うより他ありません。

 東京の神学校で私たちのドイツ語の先生であった井上良雄先生の名訳で、その一部を読んでみます。

 「ここの湖と、言いようのないほど美しい山々の上には、まだ陽が輝いています。入日の色の海の中にすべてのものがひたっています。ローザンヌは比べるものもないような美しさと愛の印象を、私の心に残すことでございましょう。このように申し上げますのは、あなたがそれを喜んで下さると思うからでございます。そして私がここで親しいお友達を与えて頂いたことを感謝しているからでございます。けれども私はやはりお家に帰りとうございます。それがかなえられましたなら、どんなに感謝することでございましょう。そして、どんなに嬉しく、教会のお仕事をまた始めることでございましょう。どうぞ勇気を失わずにいて下さいませ。そして上を見上げるようにいたしましょう。多分、それは涙とともにではございましょうけれど、やはり上を見上げるように致しましょう。太陽を見ることは困難でございますけれども、それでもやはり、また太陽は昇ることでございましょう。私はそれを信じたく存じます」

 私たちが感動するのは、彼女が病気の回復を心から願い求めながらも、根本的には、すべてを上なるお方、神の導きとみこころに委ね、それを仰ぎ望んでいた、ということによります。それこそが「望み」の本質であり、彼女はこれらの手紙を通して、遥かなる、活ける望みの証人となりました。

みそらべに みこえは聞こゆ みかおみる たのしきのぞみに こころはいそぐ

 これは葬式の8日後、彼女の手帳の中に発見された走り書きのことばですが、それは奇しくも、牧師である彼女の夫が、葬儀のために選んだ讃美歌の一節だったそうです。

 次に記す言葉は、シュザンヌが書き残した多くの手紙の、最終ページの言葉です。

 もしできることなら、わたしは自分の体を灰にしてもらいたい。そしてその灰が、わたしの大好きだったあのレマン湖のほとりにやすらうことができるなら、どんなに美しいことだろう。あのローザンヌとテリテの間に。

 先年、スイスに参りました折、私はシュザンヌ夫人の、この美しいお墓の傍を車で走り、しばし沈思瞑目しました。

「時は満ちた。神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」

 この呼びかけをもってイエスが世に現れた時、人々は、このお方こそ来たるべきメシア(救い主)であろうか、と思いました。イスラエルの民には、旧約聖書によって、末の世には神から派遣される救世主が到来し、彼らの中に、神の国を実現するという、大きな約束が 与えられていたからです。しかしイエスは、人々の大きな期待に反し、孤独で悲劇的な道を歩みました。

 ガリラヤ地方での伝道の後、イエスがエルサレムに向かって進みはじめたとき、弟子たちはついに、彼が、神の国を一挙に実現するときが来たかと喜びましたが、都に登ったイエスは、1週間もたたないうちに、逮捕されて裁判を受け、十字架の極刑を受けて、惨死してしまった。弟子たちはどんなに失望落胆したことか。

 しかし、イエスは、葬られた後、墓を破ってよみがえり、罪と悪と死の力に打ち勝ったことを弟子たちに顕示しました。

 ただその場合にも、イスラエルの民が望んでいたような神の国は、実現しませんでした。

 では、「神の国は近づいた」とか、「神の国はあなたがたのただ中にある」といったイエスの力ある発言は、なんであったのか。どうして弟子たちは、その後、全く別人になったかのような姿で、全世界に出て行き、地の果てまでもイエスの福音を宣べ伝えることができたのでしょうか。

 それは、彼ら一人一人がイエスの十字架と復活を体験することにより、人間の「望み」に関する究極的な真理を発見し、それを仰ぎ見て生きる生活を身につけたからでした。

 イエスは、ご自分が十字架につけられようとした時、弟子たちに、どんなに人間の世界が乱れようと、「まだ終りではない」という言葉を語っていました(マタイ24,6)。

 「まだ、終わりではない!」 それは、ありとあらゆる人間世界での出来事、恐怖すべき事件や悲劇の体験、光と闇、生と死、それらすべてを貫いて響きわたるイエスの宣言でした。すなわち、この地上の人間の営みにおいては、これが最後だ、もはや絶体絶命であると言えるようなものは存在しない、という最高に権威ある、イエスの宣言です。

 「まだ終わりではない。」この御言葉に信頼する人は、何者にも全く怯えることなく、絶望せず、くじけない望みを抱き続けます。

 ではそのような望みを抱く人が、地上の生を終えて天国に至るとき、その人はもはや望むことをやめるのでしょうか。つまりその望みとは、神の国、天国に至るまでの魂の杖なのか。

 そうではない。スイス出身の高名な聖書学者アドルフ・シュラッターは、86歳で世を去る前、「我らイエスを知るや」という大著を書き遺しましたが、そこで次のように述べています。

 「キリスト者の抱く望みとは、天国に至るまでのたましいの杖であるか。いや、望みは神の国においてもなお終わることがない。その時、人はいつまでも終わることのない神の恵みの富を、永遠に見つめる。そして望む。なぜなら信仰と望みと愛。この三つは限りなく続くからである」(コリント一13,13)。

 信仰とは、望むことである。永遠を信じて、待つことである。

 このシュラッターの言葉に関連して、私は、戦後に活躍した太宰治の書いた「待つ」という小文を思い起こします。

 彼はノンクリスチャンですが、無教会主義の塚本虎二の出していた「聖書知識」という月刊誌を愛読しており、イエスを深く敬愛しつつも、信仰には至らず、悲しく世を去った人です。

待つ
「省線のその小さい駅に、私は毎日、人をお迎えにまいります。誰とも、わからぬ人を迎えに。・・・いったい、私は、誰を待っているのだろう。はっきりした形のものは何もない。ただ、もやもやしている。けれども、私は待っている。・・・胸をおどらせて待っているのだ。眼の前を、ぞろぞろ人が通って行く。あれでもない、これでもない。私は買い物籠をかかえて、こまかく震えながら一心に一心に待っているのだ。私を忘れないで下さいませ。毎日、毎日、駅へお迎えに行っては、むなしく家へ帰って来る二十はたちの娘を笑わずに、どうか覚えて置いて下さいませ。」

 信仰とは、待つことである。上を仰ぎ、敢然として、望むことである。イエスの来臨アドベントによって、その望みは必ずかなえられるのです。お祈りします。

 
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