2012.11.18

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「失われた羊」

廣石 望

エゼキエル書34,1-16 ; ルカによる福音書15,1-7

I

 衆議院が解散しました。やがて選挙です。選挙は民主主義政治を支える根幹制度ですが、いくつか弱点もあります。勝つか負けるかの競争になりますので、とくにネガティヴキャンペーンの応酬は社会の統合よりも、分裂を促進しかねません。そして多数決による決着は、しばしばたくさんの「死票」を生みます。そして勝った方の多数派は、しばしばその後は「数の暴力」と呼ばれる現象を引き起こします。

 戦後の西ドイツで生まれた政治思想に「討論の倫理Diskursethik」と呼ばれるコンセプトがあります。民主主義の基礎的手続きは合意を目指して行なわれる討論にあるのだから、歪みのない討論を達成するにはどうすればよいかを考えたものです。

 そこで討論の真偽を判断する物差しとして考案されたのが、「理想的発話状況」という理想形です。その規準は三つあります。第一は「相互性」、すなわち対話関係にある両者が自分の言い分を主張でき、他方はそれに耳を傾けること。第二は「平等性」、すなわち対話関係にある当事者の誰もが発言権を有すること。そして第三は「合理性」、すなわちよりよい論拠によって基礎づけられた提案のみが採用されることです。

 この構想は実現するにはあまりに理想的で、じっさいに達成された合意のほとんどに何がしかの歪みが見出されるだろう、という批判があります。しかしもっと大きな批判は、討論への参加そのものを拒否する人、つまり「なぜ私は君たちに向かって、自分の論拠をあげて論じなければならないのか?」と問う者に対して無力であることです。

 参加拒否という態度は、選挙であれば棄権して投票行為を行わないことに似ています。もっとも実社会では、棄権もひとつの責任をともなう行動に当たります。後になって「私は投票に行かなかったのだから、選挙結果は無効である」と主張することはできません。社会制度としては、ひとまずこれでよいのだろうと思います。

 しかし広い意味での民主主義的な討論に参加しない人々とは、どのような人々なのでしょうか? 「忙しかった」「忘れていた」という人も、「今の政治には何も期待できない」という人もいるでしょう。しかしこう考える人もいるのではないでしょうか、「どうせ私は社会の決定プロセスから排除されているのだから、そもそも参加する理由がない」と。

 日本には「選挙権」を与えられていない人も住んでいます。典型的には未成年や外国籍の人々などです。スイス留学時代、移民政策をめぐる直接投票がありましたが、外国人であった私には当然ながら投票権はなく、何だか淋しいような思いをしたことでした。

 さて、イエスの羊のたとえは、「99を棄てて1をとる」よう主張しているように見えます。しかもそれがイエスの行動原理であり、彼が信じた神の行動原理でもあるようです。それは一見すると、多数決の原理と正面から対立するような視点でもあります。いったいイエスのたとえは、何を意味するのでしょうか?

I

>II

 この有名な羊のたとえは、三通りのヴァージョンで伝えられています。ルカ福音書とマタイ福音書、そして正典に入らなかったトマス福音書です。それぞれのヴァージョンには個性的な演出が見られます。

 先ほど朗読したルカ福音書によれば、イエスは「ファリサイ派の人々や律法学者」が彼に向ける批判、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」(ルカ15,1)に再反論するかたちでたとえを語ります。

 そのとき、「悔改める一人の罪人」(7節)とは、イエスの招きに応じる「罪人」を、また「悔改める必要のない九十九人の義人」――この表現はおそらく〈偽ってそう言い張る〉という意味の皮肉です――とは、イエスの批判者たち(1節)をそれぞれ暗示しています。

 次にマタイ福音書では、イエスは弟子たちに、「私を信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる」(マタイ18,6)、あるいは「これらの小さな者が一人でも滅びること」(14節)のないよう教えるために、たとえを語ります。

 「迷い出る羊」として描かれる「小さな者」とは、マタイの「教会」(17節)の中の〈信仰の薄い者〉を、また九十九匹の羊は、信仰に踏みとどまっている他の信徒たちをさします。彼らが残される「山」とは、聖なる教会共同体を暗示しているかもしれません。

 こうしてルカとマタイでは、「99匹」が象徴するものが対照的です。ルカでは外部の批判者を、他方マタイでは教会内部の信仰の「強い」人々を指すからです。同じイエスのたとえが、文脈に応じてさまざまに解釈されていることが分かりますね。

 さてトマス福音書は皆さんに馴染みがうすいと思いますので、日本語訳をお読みします(語録109)。

王国は百匹の羊を持つ羊飼のようなものである。それらの中の一匹、最大の羊が迷い出た。その人は九十九匹を残しても、それを見つけるまで、一匹を探した。彼は苦しみの果てに羊に言った、「私は九十九匹以上にお前を愛する」。

訳文は、荒井献『トマス福音書』(『ナグ・ハマディ文書II:福音書』岩波書店1998年に所収)より

 ルカやマタイのヴァージョンと比較して一番目立つのは、迷い出た一匹の羊が「最大の羊」であると特定されていることです。それが捜索の理由です。そして羊飼いは「苦しみの果てに」見出して羊に言います、「私は九十九匹以上にお前を愛する」。

 トマス福音書の最終編集は、グノーシス思想の観点から行われていると言われています。それに即して考えれば、「最大の羊」とはおそらく、物質世界や肉体によって疎外された人間の本質、すなわち霊魂のシンボルです。グノーシス主義者は、これを「苦しみの果てに」見出します。他方で「99匹」は物質的世界、ないしそれに捕らわれて霊魂の問題に無関心な世俗世界一般を示唆しているようです。

III

 これら三つの伝承は、同じ話の三つのヴァリエーションです。それはルカ、マタイそしてトマスという三人の歌手が歌う、同じ歌の三つのカヴァーヴァージョンのようなものです。それぞれに個性的な三つのパフォーマンスの基礎にある「もと歌」のようなもの、ベーシックストーリーがあるとすれば、およそ以下のようなものだったかもしれません。

あなた方のうち誰が、百匹の羊を持っていて、その一匹を失ったら、
九十九匹の羊を野に捨て置き、失った一匹のもとに歩いて行かないだろうか。
そして見つけたら、失われなかった九十九匹の羊よりも、その一匹のことで喜ぶだろう。

 つまり基本になるのは、〈ある百匹の羊を持つ人が一匹の羊を失い、それを探し、見出すと、九十九匹の羊のことよりも、それを喜ぶ〉というストーリーラインです。

 他方で失われた羊について、それが「悔い改める一人の罪人」(ルカ)、信仰が小さいために脱落してゆく教会員(マタイ)、あるいは「最大の羊」つまり人間の霊魂(トマス)であるといった、何れも羊の資質にまつわる発言は、もともとはなかっただろうと思います。

 失われた羊を探す本来の理由は、そうした羊の資質とは無関係に、それを失った羊飼いの側に、つまり「失った」という事実にあります。ただ「いなくなった」から探し、見つけたら大喜びするのです。

IV

 イエスの羊のたとえの特徴は、伝統的なイメージを従来とはちょっと違った仕方で使うところにあります。ひねりが入っているのです。三つほど指摘します。

 第一は〈羊―羊飼い〉のメタファーです。伝統的には「羊飼い」は民族の指導者、例えばモーセ、王たち、そして神をさします。他方で「羊」はイスラエル民族です。そして「よい羊飼い」は失われた羊を探し出して連れ戻す一方で、「悪い羊飼い」は羊の世話をせず散らしてしまいます。先ほど朗読したエゼキエル書では、王たちが民衆の世話をしないので、神が自らの一人称で、自分が失われたイスラエルの羊たちを探し出すと宣言します(エゼキエル34,1以下)。

これに対してイエスのたとえの特徴は、よい羊飼いがすることと悪い羊飼いがすること、つまり羊を探すことと危険にさらすことの両方を同時にしている点にあります。しかも〈誰でもそうするではないか〉という返答を期待する修辞疑問文のかたちで。

この羊飼いは、果たして本当によい羊飼いなのでしょうか?

 第二に、伝説と現実の落差があります。民族の伝説では「羊飼い」は指導者ないし神です。しかしイエスのたとえは、「あなた方の中に、百匹の羊を持っている人がいて」という導入句で始まります。つまり聞いている人の身近にいる羊飼いが思い浮かべられているようなのです。しかし実社会における職業としての羊飼いは、社会の下層に属する人々でした。あるユダヤ教の伝承では、羊飼いは「泥棒」に属すると言われています。

シドンのアッバ・ゴルヨン(AD180年ころ?)は、アッバ・シャウル(AD150年ころ)の名によって言った。何人たりとも自分の息子を、ろば追い、らくだ乗り、床屋、船乗り、羊飼い、小商売人に育ててはならない。彼らの手の業は、盗人の手の業だからである。(ミシュナ・キドゥシーン4,14)

 なぜ羊飼いが「盗人」の仲間なのか? 勝手な想像ですが、他人の土地を無断で横断する人々は、定住する人々からは「泥棒」という概念でひとくくりにされたのではないでしょうか。

 果たしてイエスのいう羊飼いは伝説の指導者と、現実の下層民のいったいどちらなのでしょうか?

 第三に数の対比があります。「1対9」「1対99」あるいは「1対999」といった数の対比表現はユダヤ教に類例があります。発言内容の点でもイエスの羊のたとえに近いものに、次のようなラビの発言があります。

999人の天使がある人間を罪に定めようとして(神の前に)訴えても、(たった)一人の天使が、その人は褒美を受けるに値すると言うなら、神は褒美の方の天秤を下げる。(パレスチナ・タルムード、キドゥシーン篇1,61d,34)

 この発言で想定されているのは、おそらく最後の審判です。神は憐れみ深い裁判官です。他方、イエスは「今」に焦点を合わせています。今、神が失われた存在である私を探す。

 神は未来の憐れみ深い審判者なのでしょうか、それとも今、失われた者たちを探す者なのでしょうか?

 ――これら、ないしこれに類するさまざまな問いを、イエスのたとえは私たちに呼び覚まします。「よい羊飼い」に関する伝統的な理解は、99匹を危険にさらす可能性を認める方向で、再検討を迫られるかもしれません。また、宗教的なイメージを現実世界から遊離したかたちで理念化して使い、結果的に社会差別を温存してしまうことに、私たちは敏感になるべきでしょう。そして何よりも、人の優劣をその資質に従って判別する、あるいは――例えば選挙権の有無などの――資格に即して分類するなどの態度がもっている問題性に気づくよう、イエスのたとえは私たちを促します。

 聖書の伝統語法で「羊たち」とは神の民、これを現代風に言えば、誰も奪い去ることのできない天賦の人権と尊厳をもつ者たちという意味です。他方で「失われた羊」とは、その尊厳を実社会で剥奪された人々、当時の社会で「罪人」と呼ばれた人々のことです。イエスがこうした人々を、「神の国」の名によって再統合しようとしていることは確かです。

V

 冒頭で民主主義の選挙制度についてふれ、討論の倫理を紹介しました。そしてこの理論の問題点として、討論への参加を拒む人々の存在をあげました。例えばキリスト教を背景にもつ西欧社会で、ある人がイスラム教徒に向かって、「君の宗教的な確信を、論拠をあげて正当化してみなさい」、そして「君が私たちの前で正当化できることだけに従って生活しなさい」と求めたところで、相手の人はたぶん返答しないでしょう。むしろその人は「私は疑いの目で見られている」「私は仲間外れにされている」と感じるに違いありません。

 羊のたとえを語るイエスは、民族社会のメンバーであるにもかかわらず、そのメンバーシップを十分に承認されていなかった人々のもとに、自分の方から出かけていって「神の支配は近づいた」と告げました。これは、君たちの尊厳は回復されるというメッセージです。そこには「喜び」が溢れています。

ですから、イエスのふるまいと言葉は、〈討論に参加しないと、君はその責任を負わされることになるのだよ〉という発言とは違います。イエスは、共同討論から排除されている人々に向かって、そもそも人が共に生きることを可能にしているものが何であるかを、例えば病気を癒し、悪霊を追い払うことによって具体的に示します。

イエスの態度に特徴的なのは信頼、語りかけ、開かれた態度、寛容そして善意などです。よりキリスト教的な言葉を使えば愛、共感、憐れみ、交わりと言えるでしょうか。――これらは習慣や訓練を通して獲得される徳目でもなければ、それに欠ける場合に責任が追及される義務でもありません。むしろ、私たちを根源的に生かす「霊」に関係することがらです。

 人が生きる上で信頼や善意、愛や憐れみは根源的に重要です。しかしそれらが社会の中で必ずしも大切にされないことは、今も昔も変わりません。そのとき私たちは他人を霊的に傷つけ、自分もまた霊的に傷を受けます。このことへの認識を欠いては、どんなに民主的な制度があったところで、社会的排除という現実は、きっと目に見えないかたちで残るでしょう。

 イエスの羊のたとえは、神の霊が人を生かす、神の霊だけが失われた人間の尊厳を回復させる、そしてその働きはイエスや彼に従う者たちを通して現れることを示しています。

 
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