2012.10.14

音声を聞く(MP3, 32kbps)

「共同の相続人」

廣石 望

創世記6,1-7 ; ローマの信徒への手紙8,1-17

I

 私たちは「キリストと共同の相続人」であるという発言が、今日の聖書箇所の最後に出ます(17節)。「相続人」とは何のことでしょうか? またキリストと「共同」で相続人になるとは、どういうことなのでしょう?

 導入(1-2節)では、「キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則」が、キリストにある者を「罪と死との法則」から解放したとあります。「罪と死との法則」とは、先行する7章で描かれた「人間/アダム」のあり方を指しているようです。つまり「貪るな!」という戒めは、正しい聖なる戒めであるのに、私の中に却って「貪り」を引き起こし、それを止めることのできない私を、この戒めが殺すという事態です。

「内なる人」としては神の律法を喜んでいますが、私の五体にはもうひとつの法則があって心の法則と闘い、私を五体のうちにある罪の法則のとりこにしている…。私はなんとみじめな人間なのでしょう。死に定められたこの身体から、誰が私を救ってくれるでしょう!(7,23-24参照)

 これは、律法への熱意によって神の前に義とされることを求める「敬虔」な人間の、自己追求がもたらす分裂状態のことだと思います。パウロは、「キリストにおける命の霊」の法則が、この状態からの解放をもたらすと言います。どういうことなのでしょうか?

 

II

 これに続く箇所では、「肉」と「霊」が互いに相容れないことが強調されています(3-8節)。

 出だしの3節は、じつは破格構文です。つまり言い始めた文章が途中でストップし、別の新しい文章が続くのです。それに続く部分も含めて原文を直訳すると、

律法の不可能性――その点で律法は、肉を通して、弱くなっていた。
神は自らの息子を、罪の肉の似姿において、また罪のゆえに(/について)遣わし、肉において罪を断罪した。肉にではなく霊に従って歩む私たちの間で、律法の要求が満たされるために。

 新共同訳は「(律法がなしえなかったことを)神はしてくださった」と訳しますが、「神はしてくださった」は原文にありません。前半は「罪と死の法則」にあって、律法が無力であることを述べています。そしてその文章は、ぶっつり切れる。他方で後半は「キリストにおける命の霊の法則」を描きます。二つの法則は、文章の点でも〈ひとつながり〉になっていないのがたいへん印象的です。

 その「命の霊の法則」は、さらに詳しく説明されます。まずキリストの派遣は「罪の肉の似姿」におけるものであったとあります。これは、キリストの無罪性うんぬんというより、「肉」つまり「罪」の支配が現実的である場所に、直接ふれるかたちでキリストが到来した、という意味でしょう。

 さらに神は、キリストを遣わすことで「肉において罪を断罪した」(新共同訳「その肉において罪を罪として処断された」)。この断罪が、生前のイエスの活動をさすのか、あるいは彼の十字架の死をさすのかは不明です。しかし何れにせよ、キリストが人間の自己分裂としての「罪」にストップをかけたという意味でしょう。

 最後に「霊に従って歩む」者たちの間で「律法の要求」が満たされるとパウロは言います。「肉において罪を断罪する」ことが「霊に従って歩む」ことを初めて可能にした。そしてそのとき初めて、律法の戒めは満たされる。ならば「霊に従って歩む」とは、敬虔な人間が功徳を積むことで神の前に正しいと認められるのとは、まったく違う生き方をさしているに違いありません。

 そのことを一連の「肉」と「霊」の対比が強調しています(5-8節)。「肉」は否定的に、他方で「霊」は肯定的に描かれているように見えます。しかし物質性を否定する一方で、精神性を肯定し、物質界を離脱して精神(霊)の世界に飛翔することを讃える古代思想とは違い、旧約聖書の伝統では〈人は肉である〉と言われます。「肉」とは物質性ではなく、神の被造物という意味で、それ自体が悪いものではありません。さらにパウロのいう「霊」は、イエスを復活させた神の力のことです。

 したがって「肉」と「霊」の対比は、一般的な霊肉二元論とは別のものです。それは、復活信仰の視点から捉えられています。復活信仰に立つならば、人の命は「被造物」としての限界を超えます。被造物である人間は、その被造性と有限性を根拠として、自らの力で神の戒めを達成し、それによって救済に到達しようとしても、それは自己分裂に終わる。むしろいったん死んで、神から新しい命をもらうことで、人は真に生きる者にされるのです。

 ちなみにキリスト教会では、自分を「霊」の側に分類する一方で、非キリスト教的な周辺世界や――場合によっては、自分とは考えの違うキリスト教徒を――「肉」に分類し、後者の人々の考えを「肉の思い」と呼んで貶めるという、悪しき習慣がときに見られます。ご本人たちは大まじめです。しかしこの態度は、キリスト教に回心する以前のパウロが追及した生き方によく似ていますね。

 

III

 「神の霊があなた方の内に宿っている限り、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます」(9節)――これまでの考察をまとめつつ、以下の段落でパウロは、霊によって生きることについて語ります(9-11節)。

 ちなみに新共同訳の「支配下にいます」は意訳で、原文は「肉ではなく、霊のうちにある」という場所の指示、つまり「〜においてある」生の対比です。興味深いのは、神の霊が人の「内に宿る」(原語「〜の内に住まう」)とき、その人が霊の「内にある」ことです。人が神の働きを表現ないし発揮する器になるとき、神の霊はその人の内側で働き、その人は神の霊の内にあります。霊と人のどちらがどちらの内側にあるかは、言語的には両方の言い方が可能であるような、神の霊と人の相互内在がここにあります。

 さらにパウロは言います、

キリストがあなた方の内におられるならば、体は罪によって死んでいても、霊は義によって命となっている(10節)。

 「体/ソーマ」は、これまで出てきた「肉/サルクス」とは別の言葉です。ギリシア語「ソーマ」は基本的に、世界と自分に対する関係や交流の中で生きている人格のこと。つまりコミュニケーションのひとつの結節点、「コミュニカント」のことです。「罪のゆえに死んでいる体」とは、自分自身との関係、他者との関係、また世界や自然との関係において破綻してしまっている「私」という意味だと思います。

 そんな私でも、「霊は義のゆえに命である」とはどういうことでしょうか?――その中身がたぶん11節で述べられているのだと思います。すなわち「神の霊」「キリストの霊」が私の内にある――神が私を通して働く――とき、キリストを死者たちから起こした神の力が、私の破綻した「体」、つまり自分や他者に対して死をまき散らしながら生きているこの私をも「生かす」だろう。

 「生かす」と訳された動詞は「命を創造する/ゾーオポイエオー」、つまり神の創造行為をさす言葉です。神は、私を新しい命に創造する。パウロが別の箇所で、キリストについて「最後のアダムは命を与える霊になった」というときの(コリント一 15,45)、「命を与える」と訳されているのと同根の言葉です。

 

IV

 そうであるならば、私たちは生きる根拠あるいはその目標を、自らの被造物としての能力やその限界に設定する義理はありません(12節)。

 被造性を根拠に生きるなら、やがて死んで終わりです。他方で復活の命に包まれて、「体の仕業を断つ」(原文は「身体の実践を死なしめる」)ならば――つまり、どのみち破綻している私のさまざまな活動、死をもたらすその致命的な効果が発揮されないようカバーされるならば――、そのときこそ私たちは生きる。「神の霊に導かれる」とはそのことなのでしょう。そしてパウロは、そのとき私たちは「神の息子たち(/娘たち)」という身分を受けとると言います(以下17節まで)。

 このことは、とりわけ洗礼式において象徴的に生じます。洗礼式では、イエスを死者たちから起こした神の力、すなわち死をまき散らす私を義とし、新しい人間に造り変える力、命を創造する力である神の霊が――これを指して「神の愛」と言います――、私に注がれます。これを指して「神の息子たち」と言います。

 もしかすると洗礼式で「あなたたちは神の息子たち・娘たちなり」と宣言がなされ、これに礼拝共同体が応えて、神に向かって「アッバ、お父さん!」と叫んだのかもしれませんね。

子どもたちであるなら、相続人でもある。神の相続人である一方で、キリストの共同相続人だ。私たちはともに苦しんでいるのだから――ともに栄光を受けるために(17節参照)。

 はじめに「相続人」とは何かと問いました。それは、神から命を与えられて生きる者のことです。またキリストと「共同」の相続人とは何かとも問いました。それは、死から命へ至ったキリストと同じ運命をたどるという希望をもって生きること、そのさいこの世界にあって、キリストと共に苦しむ者になることです。

 

V

 浅草に、聖ヨハネ教会という日本聖公会の教会があり、現在の司祭は大森明彦さんという、私の大学院時代の友人です。彼はわりあい最近、この教会に移動されたのですが、聖ヨハネ教会では、過去11年間、毎週日曜日、貧しい生活を余儀なくされている人たちのための炊き出しを行っています。約500食の「ヨハネ弁当」が、路上生活者その他の方々に無料配布されているのです。

 このことを指して大森司祭は、教会は「毎回500人前後の人々から祝福を受けています」と、あるエッセイの中で述べておられます(日本盲人キリスト教伝道協議会『信仰』2012年9月号、Nr.1103)。――炊き出しを手伝うのは教会員、地域の人たち、かつてのホームレス状態から立ち直った人、中学生・高校生・大学生などのボランティアさんたち。以前は近隣とのいさかいもありましたが、現在は平穏であるそうです。

 彼は言います、

「他者のために生きる」とか「受けるよりは与える方が幸いである」と教会ではよく言われます。私もよく使ってきた言葉です。しかし、それが具体的な行動に現れるのは実に難しいことです。その難しいことのひとつがここではもう11年も続いています。教会で普通に使われる言葉なのに、教会の実態に合わない言葉がここでは生きています」。

 なんと厳しい、しかし素晴らしい言葉でしょう!

 さらに彼は、ヨハネ弁当をもらいに来た人が「礼拝に出てもいいのか?」と訊いたというエピソードにふれています。この方は、「すべてのものを造られた神の働きを信じる人たちの礼拝に、どうしても出てみたい」と言われたとのこと。

 キリストの共同相続人であるとは、こうした事態のことを言うのではないでしょうか?

 
礼拝説教集の一覧
ホームページにもどる