2012.9.16

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「二つのエルサレム」

廣石 望

創世記17,15-21 ; ガラテヤの信徒への手紙4,21-31

I

 皆さんの故郷はどちらですか? そしてご先祖は誰でしょう?

 世に言う「ルーツ探し」は、自分が何者であるかを確かめる方法のひとつです。私の場合、故郷は中国地方の田舎、そして先祖はきっと名字もない百姓です。ところで最近は、ペットにも血統書がありますね。私よりずっと立派な血統であるに違いありません。血統書は特定の個体の血筋という名の〈物語〉を備えています。同時にそれは、これで間違いありませんという〈保証〉でもあります。

 敗戦までの日本には「万世一系」と言われる天皇家の血筋があり、これが当時の国民意識を支えるものとして、間違いありませんという保証がついていました(教育勅語「之ヲ古今ニ通ジテ誤ラズ」を参照)。

 あるいは戦後日本で、福島第一原子力発電所の二度に亘る爆発事故までは、いわゆる原子力の「安全神話」が、「平和利用」や「経済的繁栄」といったキーワードとともに、戦後復興という〈物語〉をつくってきました。今になれば、「平和」という衣の隙間に「核兵器」という鎧が透けて見えること、「繁栄」という美名の裏に「補助金」という飴がくっついていたこと、しかも全体が「絶対安全!」という危うい包装紙で包まれていたことが分かります。

 ちなみに戦時中の日本キリスト教界には、「日本的キリスト教」という標語の下で、国家神道と共存可能なキリスト教を積極的に模索する動きがありました。思想的に西欧の覇権主義に対抗可能な日本独自のキリスト教が探求されたのです。そこに見られるのは、文明圏の違いを視野に入れた本物の思想的課題という偉大さと、現実的にはまことに小心で翼賛的な保身の姿勢との間の、何とも奇妙なアンバランスです。

 さてユダヤ人にとって、「律法」つまりモーセ五書は彼らのルーツに関する記録です。そこには、エジプト脱出と神の掟の賦与による民族建立という偉大な〈物語〉があります。他方でパウロが書簡を宛てたガラテヤ教会の信徒たちにとって、ユダヤ教はもともと異文化です。たまたまその地方を訪れた伝承者パウロによって、ユダヤ教イエス派ともいうべきものに彼らは改宗し、教会を形成しました。まだ若いアイデンティティです。

 その彼らのもとに、ユダヤ教の総本山エルサレムのイエス派から、はるばる伝道者たちが訪ねてきました。本物(!)がやってきたのです。そして割礼と祭儀律法を守るよう勧めました。君たちの新しいアイデンティティを、私たちが本流である伝統に従って形成しなさいということです。

 この勧めはガラテヤ教会の人々にとって、それなりに魅力的であったはずです。それは例えば日本の田舎にアメリカ人宣教師が来たとき、日本人クリスチャンがアメリカ人の真似をして――英語を習い、讃美歌を歌い、ゆくゆく留学して、アメリカ人と結婚して「クリスチャン・ホーム」なる横文字の幸せを手に入れたいと夢想することで――新しいアイデンティティを得たいと願うようなものです。

 こうした、ユダヤ人のようになりたがっているガラテヤ人に向かって、パウロは「律法の下にいたいと思っている人たち、あなたがたは律法の言うことに耳を貸さないのですか?」(21節)と呼びかけます。もちろん皮肉です。

II

 パウロはアブラハムの話を始めます(22-23節)。アブラハムはユダヤ人とその他の民族の共通の先祖です。最終的にパウロは、〈律法の下にいない君たちこそが、アブラハムの正当な継承者だ〉と言いたいのです。これはガラテヤの信徒たちに、新しい先祖を保証してやることに他なりません。

 さてパウロが引き合いに出すアブラハム伝承は、二人の妻と息子たちに関するものです。皆さんもご存じのように、『創世記』によれば、アブラハムの妻サラは不妊であったので、夫の子孫を絶やさないために、自分の奴隷であった外国人女性ハガルを彼に与えてやります。アブラハムはこうして長男イシュマエルを得ました。他方でサラも、しばらく後に神の恵みを得て、自分の息子イサクを生みます。イスラエル社会の伝統によれば、正妻による〈嫡出〉と側女による〈非嫡出〉という区別はなく、一人の男性から生まれた男子は、誰であれ年長者が家督相続の権利をもちます。しかしハガルの主人であるサラは、ハガルとその息子イシュマエルを排除し、自分の息子イサクをアブラハムの継承者としようとし、最終的には夫アブラハムもこれを受け入れました(創16-17;21)。――日本であれば、いかにも時代劇の大河ドラマに出てきそうな、かなり人間的な話しです。

 さてパウロは、側女ハガルから生まれた子は「肉に従って」、つまり人の思惑によって生まれた一方で、自由人身分の妻サラから生まれた子は「約束によって」、つまり神の意志によって生まれたと言います。――この発言そのものは、子どもをその出生によって差別する点で大いに問題です。それでもパウロがしていることは明らかです。彼はガラテヤ人に向かって、君たちは自由な身分の母から、神の意志によって生まれた正当な継承者だと言いたいのです。

 私たちがルーツ探しをするとき、パウロから見れば、血筋という名の「肉に従って」自分を探している可能性が大きいです。他方で「約束による」先祖探しとは、実質的な血縁関係を放棄することに等しいでしょう。それはスピリットの継承とも言うべきものだからです。このことはしかし、ガラテヤのキリスト者たちにとって、自らの出自であるガラテヤ文化と、このたび新しく入信したユダヤ教文化という二つのマジョリティの両方から、周縁化される危険性があったと思います。――キリスト教人口が全体の1%未満という極端なマイノリティ状況にあって、私たちの教会は「創造的少数者」であろうと願ってきましたが、状況は類比的であるかもしれません。

III

 さて、ガラテヤの信徒たちは、ユダヤ教の本流はエルサレムの人々だと思っていたに違いありません。ところがパウロは〈エルサレムのユダヤ教は側女ハガルの系列に属する〉という、とんでもない発言をします(24-27節)。これは身分ないし地位の転換です。

 もともとユダヤ民族は、自分たちが〈アブラハム→サラ→モーセ(シナイ律法)→エルサレム〉という神の約束の系列に属しているという民族意識をもっています。ところがパウロは、あろうことか民族の母サラの位置に「ハガル」を入れることで、律法とエルサレムの地位を貶めるのです。つまり隷従を生みだす息子イシュマエルを通して、今のエルサレムは「律法」遵守という奴隷状態にあることになります。

 これはいくらなんでも強引に過ぎる、とんでもない解釈です。ユダヤ教徒は激怒することでしょう。なおガラテヤの信徒たちにすれば、この「今のエルサレム」にはエルサレム教会が含まれます。強烈な侮辱発言です。これとの対比で、パウロは「天のエルサレム」について語ります。自由な身分の女であるサラから、神の約束によって生まれた息子イサクの系列が君たちだというわけです。

 同じ書簡の別の箇所で、「奴隷も自由な身分の者もない」(ガラ3,28)と言っておきながら、こんな寓喩的解釈をしてもよいものか。――それでもパウロの意図は明らかです。律法の遵守――割礼や安息日、祭儀規定や清浄規定、さらには食物規定etc――をもたないガラテヤの異邦人教会の信徒たちは、エルサレムのユダヤ人キリスト教から「二級市民」として許容される必要もなければ、ユダヤ教徒への「同化」を強要される筋合いもない。今のままで、まったく正当な権利継承なのだと言いたいのです。

IV

 パウロが生きた時代のユダヤ教黙示思想には、〈世の終わりには「神の子ら」に対する「闇の子ら」「この世の子ら」の勢力が強くなり、「光の子ら」に迫害を加える。「今のエルサレム」は攻撃され、破壊される。「神の子ら」はこれを嘆くが、神から「天のエルサレム」の約束を提示されて、慰めを受ける〉というパターンがありました。――これに対してパウロは、「今のエルサレム」と「天のエルサレム」を対立関係に置き、前者を偽物とする一方で、自分たちは後者に属すると主張します。だからこそ「今のエルサレム」は私たちに敵対的なのだ、という説明になっているわけです。

 「一人残された女が夫ある女よりも、多くの子を生むから」という文言を含むイザヤ書54,1の引用(27節)は、不妊であったサラがより多くの子孫を残すことで、より大きな神の祝福の源になったという趣旨です。この発言も、女性の幸福が子どもを生むことにあるかのごとき点で、本当はどうかしています。子どもが生まれるのは、もちろん神の祝福です。でも、生まれなくても同じ祝福の中にあるからです。

 それでもパウロはガラテヤの信徒たちに向かって、ちょうどサラが不妊という不名誉な地位から、多産という名誉ある地位へと移されたように、君たちもまた異教徒という地位から、アブラハムの祝福の正当な継承者という名誉ある地位に移されたのだと言いたいのです。

V

 「あのとき、肉によって生まれた者が、霊によって生まれた者を迫害したように、今も同じことが行われています」(29節)――これはハガルの息子イシュマエル・人間の思惑によって生まれた者・律法に隷従するエルサレム教会が、サラの息子イサク・神の約束によって生まれた者・ガラテヤ教会の信徒たちを「迫害」するという意味です。

 じっさいにはエルサレム教会から派遣された伝承者たちは、ガラテヤ教会を迫害などしていないでしょう。彼らは自分たちの民族意識に即して、彼らにも律法の遵守を勧めただけのことですから。これを「迫害」と呼ぶのは少々大げさです。

 「女奴隷とその子を追い出せ」云々とあるのは、創世記でサラがハガルとイシュマエルを追い出すよう、夫アブラハムに迫る言葉です。その文脈はこうです。

サラは、エジプトの女ハガルがアブラハムとの間に生んだ子が、イサクをからかっているのを見て、アブラハムに訴えた、「あの女とあの子を追い出して下さい。あの女と息子は、私の子イサクと同じ後継ぎとなるべきではありません」。(創21,9-10)

 新共同訳が「からかう」と訳す箇所のヘブライ語の原義は「遊ぶ」です。つまりイシュマエルとイサクの兄弟が「遊んでいる」のを見て、サラは怒ったのです。日本であれば〈正妻〉が自分の〈嫡出子〉に拘ったと連想するところですが、先に申し上げたように、こうした発想はイスラエルの伝統にありません。サラの怒りは理由なき怒りです。

 じつはユダヤ教の創世記解釈の伝統の中に、「追い出せ」というサラの要求を動機づける要素として、イシュマエルによる「迫害」という動機が後から加わったのです。パウロはその解釈の伝統に立って発言しています。

VI

 こうして全体としてパウロは、アブラハム物語を再話的に読み直すことを通して、「本家本元」であるエルサレム教会の使者たちの訪問を受けて圧倒されている――平たく言えば「ビビっている」――ガラテヤ教会の信徒たちに向かって、ユダヤ教民族主義に依拠しない異邦人キリスト教に固有のアイデンティティを確保しようと試みています。そして割礼によるユダヤ教への編入を要求する勢力を、教会共同体から「追い出せ!」と嗾けています。なかなか過激ですね。

 それは内的動機としては、自分が邁進してきた異邦人伝道を否定されたくないということかもしれません。しかし外的な構造として見れば、これはユダヤ人パウロによる自民族中心主義への自己批判です。パウロは自ら属する民族がメインストリームとしてもっている自己理解を「おちょくる」ことを通してでも、ガラテヤ教会の信徒たちを守ろうとしているわけです。なぜ、そんなことができたのでしょうか? それは彼が、異教徒ガラテヤ人に対して何の偏見ももっていなかったからです。

 私たちにとって二つのエルサレムとは何でしょうか?――パウロのいう「今のエルサレム」は、私の帰属の安心をこれまで保証してきたものといえるでしょう。他方「天のエルサレム」への問いは、私たちにとって、〈君は誰の隣人になって生きるのか〉という問いかけに他なりません。

 
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