2012.9.2

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「唯一の神と良心」

廣石 望

イザヤ書45,1-13 ; コリントの信徒への手紙一 8,1-13

I

 一神教は排他的で暴力的だが、多神教は融和的で平和愛好的と言われます。本当でしょうか?

 キリスト教が歴史的に大きな暴力に加担してきた事実は、知っておくべきです。十字軍(11世紀)とホロコースト(20世紀)だけあげておきます。20世紀日本の場合、少数派であったキリスト教会は、当時の戦時体制にみごとに取り込まれ、とりわけ植民地の宗教的同胞に対して「虎の威を借りた」圧力をかけました。今後の世界平和には、とりわけキリスト教とイスラム教という二つの代表的一神教の相互対話と平和共存が不可欠であると思います。

 他方で宗教的な原理主義は、ヒンズー教などの多神教にも見られます。おそらく一神教と多神教のどちらか一方が本質的に暴力的であり、他方は本質的に平和愛好的であるとは言えません。どの宗教にも、平和を愛する伝統とともに、暴力を許容する傾向が並存しているのが実態です。

 また一神教と多神教は、一見すると対立関係にあるようですが、じっさいには並存することが可能です。

 イスラエル社会は、とりわけ王国時代の初期は明らかに多神教でした。バアル神やアシュタルテ神、星辰の崇拝は身近なものでした。このような多神教的な環境の中で、ヤハウェ神だけを崇拝することを求める人々、ヤハウェ主義者たちがいたわけです。こうした多神教世界における単一神の崇拝は「拝一神教」と呼ばれます。これが後に、〈他の神々なるものはそもそも存在しない〉という「理論的な一神教」に変化してゆきました。キリスト教はこれを継承しました。今日のパウロのテキストに、「世の中に偶像などない」(4節)とあるのはその意味です。

 他方で、原始キリスト教の環境世界であるギリシア・ローマ社会は多神教です。しかし「主神ゼウス」という理解はありました。そしてパウロと同時代の哲学流派には、〈世の中では多くの神々が崇拝されているが、真の神は一人だ〉という理解があったのです。つまり実践的な多神教を否定しない「哲学的な一神論」の立場です。ユダヤ・キリスト教的な一神教は、このギリシア・ローマ世界の考え方に接続することが可能でした。

 ところでキリスト教に改宗したコリント教会の信徒たちは、どのように暮らしていたのでしょうか? 伝統的な多神教がさかんな町で生きるとき、さまざまな具体的問題に出会ったことでしょう。今日のパウロのテキストが扱うのは、日本風に例えて言えば次のような問題です。〈私はクリスチャンです。教会では真の神さまは天の神さま一人だけと教わっています。先日、友だちの家にお土産をもって遊びにいったら、いったん仏壇にお供えした後で、「さぁ、いっしょに食べましょう」と言われました。食べちゃったんですけど、よかったのでしょうか?〉――じつに実践的な問題ですね。

II

 パウロは、おそらくコリント教会からの質問リストに答えるかたちで、「偶像に供えられた肉」に言及します(1節)。

 「偶像に供えられた肉」と訳されるのは、ギリシア語では「エイドーロトュトン」という一単語です。偶像を意味する「エイドーロン」と供え物を意味する「トュトン」を結合したもので、ユダヤ教の造語だそうです。つまりギリシア人はこの表現を用いません。

 「エイドーロン」の原義は「コピー/影/幻影/妄想」です。異教徒が神像を拝むのにひっかけて、その神々の現実性のなさを揶揄するために、ユダヤ教徒が用いました(『七十人訳聖書』)。つまり強烈な文化的バイアスのかかった単語です。ギリシア人は神像をさして別の語(「アガルマタ」)を用います。他方で「トュトン」の原義は「供え物」。お供えにはケーキやワインも使用されましたが、ここでは具体的には犠牲獣の肉のことです(だから新共同訳は「肉」を付記)。代表的な犠牲獣は豚・羊・牛でした。

 ギリシア・ローマ世界では、親族のお祝いやサークルの会合などのプライベートな祝い事でも、また都市の祝祭や皇帝礼拝などの公的祭儀においても、動物供儀をともなう祭礼を行うのが通常でした。供儀にさいしては奉納者が提供する動物が屠殺され、特定の神格にささげられ、その後で参加者は肉食をともなう食事会を行いました。とくに貧困層の人々にとって、公的祝祭にさいして神殿でふるまわれる肉料理は、およそ肉なるものを食べるほぼ唯一のチャンスでした。

 他方でユダヤ教徒にとって、異教祭儀から生じる「肉」は禁忌と憎悪の対象でした。屠殺方法が儀礼的に正しくないことに加えて、豚肉が多かったのです。そうした肉を食べることはユダヤ教への裏切り行為、棄教行為そのものでした。宗教迫害の時代、ギリシア系の王はユダヤ人に豚肉を食べることを強要し、それを拒否した人々が次々に殺されていったのです(例えば4マカベア5,2を参照)。

 ところがパウロが創設したコリント教会に、そうした肉を平気で食べるキリスト者が出現しました。これはパウロの属するキリスト教が異邦人伝道を推進する中で、ユダヤ教の食物規定を廃棄したことの当然の結果でもあります。

III

 コリント教会は、ギリシア思想の伝統を継承しつつ「知識」を重んじた教会です。「知識」とはたんなる情報ではありません。宗教的な真理認識というほどの意味です。そしてパウロは、コリントの信徒たちが「知識/認識」をもっていることを承認します(1節「〜は確かです」は原文で「私たちは知っている」)。パウロも同じ知識をもっています。きっと彼が開拓伝道にさいして伝えたのでしょう。

 しかしパウロはそうした「知識」に、直ちに「愛」を対置します。

知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる。自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならぬことをまだ知らないのです。しかし、神を愛する人がいれば、その人は神に知られているのです。(1-3節)

 ここで「高ぶらせる」と訳された語の原義は「吹く/膨らませる」、他方で「造り上げる」の原語は「家を建てる」です。つまり知識は〈威張る〉が、愛は〈生活空間を建築する〉。これは愛なき真理要求が孕んでいる危険性の指摘だと思います。正しい認識それ自体は、愛なき自己絶対化の危険から自由でありません。

 「神を愛する人は神に知られている」とある部分は、もし〈神を愛することで、その人は神から知られ、受け入れられる〉という意味に読むなら誤解です。ギリシア語原文では動詞の時制が区別されており、〈人が神を愛するのを見れば、それに先だって神がその人を知り、受け入れたことが分かる〉という意味であることが分かります。

 したがって真の神認識は、神の救いをわが身に経験した者が、神を愛するようになる中で開けてゆきます。そして神への愛は、他者への愛となって現れる。ならば、どんなに正しい真理認識であっても、自分が〈威張る〉だけで皆が〈生きるための空間〉を作ることにならないかたちで真理要求が貫徹されるとき、それはキリスト教的には自己矛盾です。

IV

 コリント人がもっている「知識」の内容は二つです。すなわち第一に〈偶像たちは非存在である〉、そして第二に〈真の神はただ一人である〉(4節参照)。パウロは、これに完全に同意しています。

 では実践されている多神教、さまざまな神殿の存在はどうなるのか?――ヘレニズム文化都市にとって神殿は必須の施設です。通常ひとつの都市には、ひとつないしそれ以上の神殿が城内にありました。神殿以外には円形劇場(テアトロン)、広場(アゴラ)、議事堂(ブーレウテリオン)、教育施設(ギュムナシオン)、競技場(スタディオン)、そして市民が大いに愛好した公共浴場(テルマ)などが揃っていて初めて、一人前の「都市」でした。

 神殿には祭司団がいて、参詣者が訪れます。それぞれの神殿で祭られているのはオリュンポス十二神に代表される「神々」、そして密儀宗教を含む新興宗教で「主」と呼ばれる多数の神格の何れかでした。

 続く6節は、新共同訳は散文として訳しますが、原文は一切の動詞表現が欠けている詩文です。そのまま訳すと以下のようです。

私たちにとっては
一人の神、すなわち父
万物は彼から、また私たちは彼へと。
そして一人の主、すなわちキリストなるイエス 
万物は彼を介して、また私たちは彼を介して。

 出だしの「私たちにとって」を除いて、残りの計4行は前半2行が「神」について、後半2行は「主」についての発言です。

 まず前半で「神」について、第1行でそれが「一人」であること、そして「父」、おそらくイエス・キリストの父であることが言われ、第2行で神が「万物」の起源であり、かつ「私たち」の目標点であると言われます。続く後半の「主」については、第1行で神と同じく主が「一人」であること、またそれが「キリストなるイエス」であることが言われ、第2行で再び「万物」について、それが主を介して生成し、同時に「私たち」は主を介して救済されることが示唆されます。

 ここにあるのは「父なる神と主なるキリスト」という独特の一神論です。それは果たして「神はただ一人」(4節)という単神論的な主張と合致可能でしょうか? 「一人の神」かつ「一人の主」とは、けっきょく二神論なのではあるまいか…? いいえ、これは父とキリストという内的関係を含む、独特の一神論です。後半のキリストに関する発言は、「一人の主」キリストが「一人の神」の本質を啓示するという意味でしょう。キリスト論的一神論と言えるかもしれません。

 ところで、冒頭の「私たちにとって」とは誰のことでしょうか?――もちろんパウロとコリント教会の信徒が含まれます。しかしこの発言の妥当範囲は、キリスト教徒に限定されません。とくに前半の「神」に関する部分は、先に述べたように、ギリシア・ローマ文化の哲学思想、とりわけストア派の思想にすんなり接続可能だからです。例えば、次のような発言をご覧ください。

自然よ、万物は汝から、万物は汝のうちに、そして万物は汝へと。(マルクス・アウレリウス『自省録』IV,23)

 もちろん「主キリスト」の要素は、キリスト教に固有です。しかしキリスト論的一神論は、世間にとってまったく意味不明の教説、例えばカルト教団の妄想のようなものとは違います。社会の中に吸収・解消されることはありませんが、当時の社会でじゅうぶんにアピール可能な神観念でした。

V

 偶像が非存在であること、かつ唯一の神がキリストを通して啓示されたこと――この真理認識を万人が共有しているわけではない、とパウロは言います(7節)。

 それはキリスト教徒にあっても同様です。だから「ある人たちは、今までの偶像になじんできた習慣にとらわれて、肉を食べる際に、それが偶像に供えられた肉だということが念頭から去らず、良心が弱いために汚される」(7節)。――「汚される」という動詞の主語は「良心」です。異教の神々の魔力によって人間が汚染される、という意味ではありません。それらは非存在なのですから!

 「良心」とは、認識と行動における自己意識のことです。そして良心は試練に晒されたり、自分を告発したりします。

 ある肉を「偶像の供え物」として食べるとき、偶像は非存在と思われていません。同時に、自分は一神教者であるという自覚もあります。そのとき私の良心は、〈お前がしているのは偶像崇拝だ〉という試練に晒されると同時に、〈お前は神が一人であることを信じないのか〉と私を告発します。この不安げで、くよくよした自己意識を指して「弱い良心」と言われているのだと思います。

 他方でパウロは自分のことを、臆面もなく「強い良心」の持ち主であると思っています。「わたしたちを神のもとに導くのは、食物ではありません。食べないからといって、何かを失うわけではなく、食べたからといって、何かを得るわけではありません」(8節)とは、異教犠牲獣の肉を平気で食べるコリント教会の一部の信者たちの考え方かもしれませんが、これはパウロ自身の立場でもあります。食べ物は、神との関係に何の影響も及ぼさないのです。

 しかしパウロは言います。

あなたがたのこの自由な態度が、弱い人々を罪に誘うことにならないように、気をつけなさい。(9節)

 この新共同訳の日本語は、かなり独特な意訳です。私なりに原文を訳すと、およそ以下のようです。

君たちのこの権能が、弱い者たちに対する攻撃にならないよう注意しなさい。

 とくに新共同訳の「罪に誘うことにならないように」という訳文は、原文に対応する要素がありません。もしかしたら訳者は、例えば仏壇のお供えのような異教の供え物は食べるべきでない。それは「罪」であると言わなければ、日本のキリスト教はあっという間に伝統社会に吸収されてしまう、と考えたのかもしれませんね。

 それでもパウロにとって、異教犠牲獣の肉を食べることそれ自体が問題ではありません。何かを食べることで「罪」が生じることはないのですから(8節)。むしろパウロは、そうした行為が、異教の神々が非存在であることを信じ切れない人々にとって、「攻撃」になることを警告しているのです。

 パウロは、知識をもっているコリント教会の信者が、異教神殿の食事式に参加する場面を想定します(10節)。じつは古代都市コリントから、神殿の付属施設としての食堂の遺構が発見されています。さらにあるパピルスは、サラピス神殿で開催される食事式への招待状そのものです。

神が貴方をお招きです、
饗宴に。予定では
トエリスの神殿で、
明日の9時から。(ケルン・パピルス57)

 さて、そのような食事式に参加している人を、「弱い良心」の人が見たらどうなるか、と話しは進みます。

その人は弱いのに、その良心が強められて、偶像に供えられたものを食べるようにならないだろうか。(10節)

この新共同訳の訳文は、本節に込められた強烈な皮肉を、なぜかぼやかしています。原文の直訳は、以下のようです。

彼の良心は、彼が弱いために、偶像犠牲獣の肉を食べることへと〈建てられる〉ことにならないか。

 〈建てられる〉は、1節で「愛は建てる」とあったのと同じ単語です。つまり外面的には、犠牲獣の肉を食べることで〈偶像は存在しない〉という知識を実演して見せる一方で、内心では異教の神々を畏れ敬っているために良心が分裂するという事態を、果たして「建てる」と、つまり〈生の空間を建築する〉などと呼べるのか、という皮肉がここにあります。

この分裂状態が、この人に滅びをもたらす、とパウロは言います(11節)。――強い者の正しい認識が、弱い者の良心に対する攻撃となり、その人の信仰心がズタズタにされる。宗教改革者カルヴァンは、これを「滅びをもたらす教化aedificatio ruinosa」と呼んだそうです。パウロによれば、これは兄弟に対する罪であり、さらにこの人のために死んだキリストに対して罪を犯すことでもあります(12節)。

 最後に彼は言います。〈食べ物ごときが理由で、こんなひどいことになるのなら、私は今後、偶像に供えた肉だけでなく、そもそも一切の肉食を絶ってもかまわない!〉(13節参照)

VI

パウロは、〈ベジタリアンは救われる〉という新しい救済論を提唱しているのではありません。たぶん彼は、肉食を断ったりはしませんでした。

むしろパウロは、真の認識であっても、共に生きる者たちの弱さに配慮しないとき、それはキリストに対する罪になることがあると警告しているのです。異教の神々への信心を棄てきれないキリスト教徒に――例えば私の故郷では、キリスト教徒もお盆には墓参りをします――それをきっぱり棄てることを強要することで、その人の良心に過度の負担をかけて、自己分裂を強いてはならない。パウロはこう言いたいのだと思います。

〈本来、何を食べてもかまわない〉という信仰者の権能は、仲間たちの「良心」に対する配慮から、むしろその権能を放棄すること通して行使されるのが相応しい。――なぜでしょうか? それは、真の神認識をもたらすのが、弱い者たちのために死んだキリストであるから。神についての真の認識は、このキリストのできごとに捉えられた私が、キリストの父なる神を愛する中でのみ成立しうるものであるからです。

キリスト教的な一神教は、真理認識においては他の神々(多神教)を否定するものです。それでも共同体における具体的な歩みの中では、共に生きる者たちの柔らかくて壊れやすい「良心」に大いなる敬意を払い、自らの真理要求を断念する、ないし差し控えることをよしとするものなのです。

 
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