2012.7.15

音声を聞く(MP3, 32kbps)

「愛と信頼の呼び名」

陶山 義雄

出エジプト記3,11-15 ; ローマの信徒への手紙8,12-17

 聖書には神を表す言葉が幾つか存在しています。翻訳された聖書には、私たちが用いている新共同訳聖書でも、「神」についての呼び名は、本日、テキストとしているローマの信徒への手紙8章15節に記された「アッバ」だけが、そのまま固有名詞として残されているのですが、神についての他の呼び名については、すべて「神」と言う言葉に翻訳されているので、違いが分らないようになっています。私たちは、殊更、呼び名の違いに注目する必要は無いかも知れません。呼び名が何であれ、神は神なのですから、変わることはないように思います。先ほどお読みした旧約聖書・出エジプト記3章はモーセが、神から奴隷解放の指導者となって、エジプトに捕らわれているイスラエルの民を救出せよ、との呼びかけがなされている、有名な箇所であります。ここには、神についての呼び名が少なくとも3種類に分けて語られているのですが、日本語ではすべて、同じ言葉、つまり、「神」になっています。言い出した以上、少し解説をしておけば、モーセと神との対話では、神についてはどれも「エロヒーム」が使われています。しかし、15節は少し複雑です。この箇所を神の呼び名について原語(ヘブライ語)に置き換えて読みますと、このようになります:

「エロヒームは、更に続けてモーセに命じられた。『イスラエルの人々にこう言うがよい。あなたたちの先祖のエレー、(すなわち)アブラハムのエレー、イサクのエレー、ヤコブのエレーであるヤハヴェがわたし(モーセ)をあなたたちのもとに遣わされた』

ここで、神の呼び名に「ヤハヴェ」(昔はエホバ:英語でもJehovah)が初めて登場するのです。これは、14節でモーセに初めて明かされた神の呼び名でした。しかし、日本語の聖書で14節は呼び名として紹介するよりも、意味として翻訳されているのです。すなわち:「神はモーセに、『わたしはある。わたしはある』と言う者だ。と言われた。また、イスラエルの人々にこう言うがよい。『私はある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」

 ここで、「わたしはある」と訳されている言葉が「ヤハヴェ」なのです。固有名詞として神はご自身の呼び名を「ヤハヴェ」と言われたのです。「わたしはある」と訳しても良いのですが、この呼び名は奴隷解放の指導者となるべくモーセを呼び出した、「心の神」であり、今までの族長の神「エルとか、エロヒーム」とは全く異なる出会いの仕方を語っているのです。それは、良心の神、自分の中に入り、別な人格でありながら自分をその新しい人格へと引き出す力を表しています。私は、やはり、良心の神とするのが最も相応しいと思います。

 このように、聖書は神の呼び名について異なった言葉を幾つか述べているのですが、それは、私たちが、どのような仕方で神と出会うのか、その出会い方によって言葉が使い分けられています。私たちは、聖書に記されている神を、そうした出会いの仕方で分けることをしないで、すべて、神は神として収めてきたように思います。それは決して悪いことではありませんが、呼び名の表す中身を吟味することも、私たちが神との出会いの仕方を振り返る時には、大変有益であると思います。そのことを痛感させてくれた書物に、カトリックの神父で、アンリ・カファレルが書いた(編集した)『神、この、もっとも曲解された名~古代から現代まで』があります。(女子パウロ会)、翻訳は高橋たか子さんです。

 神を呼び名や教えで学ぶ前に、神との出会いの体験にまで心を沈めて、そこから出直してみてください、と言うのが著者と、また、翻訳者の訴えであるように思います。

 最も曲解されてる神の名は、正義の戦いで掲げられる神への呼びかけであるかもしれません。

 十字軍の歌として伝えられ、男声コーラスで歌われる「いざ立て、戦士よ」は決して心地よい歌ではないように聞こえます。ここで歌われている神は、聖書の神なのでしょうか。

「いざ、立て、戦人よ、御旗に続け。雄雄しく進みて、臆るな仇に。
 勇みて進めよ、歌声合せて 潮の如くに、正義の御神は我らの守り。」
「忘るな勇士 我らの裾野、続けよ同胞 守れこの地を」

 こうしたミリタントな神に対して、アメリカの兵士が「聴いて下さい、わが神よ!」と言う走り書きで遺書のような言葉は、死後、ポケットの中から見つかった紙切れですが、実に生き生きと。神との出会いを伝えています。カファレルが収録してる40数名の証言のなかでも、最も感動的な神との出会いを歌っているように思います。:

「聴いてください、わが神よ。あなたは存在しないと彼らは言い、私は馬鹿のようにそう信じた。ある夕べ、砲弾が空けた穴の底から、あなたの空を、私は見た・・・。たちまち彼らが嘘を言っていたのだと私はわかった。神よ、私と握手することに同意してくださるだろうか、と自問し、あなたが今にも分ってくださると私は感じている。御顔を見る時の直前に、この地獄のような場所へと、私が来なければならなかったとは、何と奇妙。ものすごくあなたを愛していると、これこそあなたに知ってほしいこと。
 恐ろしい戦闘が、今、起ころうとしていて、誰に分ろう? 今夜にも私があなたの家に着くかも知れないのだ。今日まで私たちは仲間でなかったが、あなたは門で待っていて下さるか、と。神よ、私は自問する。おやおや、私は泣いている! 私が涙を流すなんて!
br> ああ、もっと早くあなたを知っていれば・・・ さあ、出撃せねばならない。おかしなことだ。あなたに出会って以来、私はもう死が恐くない。さようなら!」アメリカの一兵士

 翻訳者の高橋たか子さんはカトリック信者になる前の、言わば、彷徨生活のなかで連れ合いであった、作家の高橋和巳さんを1966年に胃ガンで亡くされた時に、この兵士と同じような体験をしました。その時に出会った神との体験が、この本を訳出する動機になっているように私には思えます。以下に高橋たか子著『高橋和巳の思い出』から「死にたいする礼節は沈黙である。」より:

 「昔から死という事実にたいしてさまざまな作法がある。地域によって、宗教によって、家風によって、個人の主義によって、作法の違いはあろうが、その作法の意味するところに変わりはない。それが何であるかについて人々は深く考えてみるであろうか。特に現代のような、すべての作法が風化してしまった時代において、また、作法が娯楽化してしまった時代において、人々は作法というもののもつ本来の厳しさに思いをはせてみるであろうか。死にたいする作法は、要するに、事実のなまなましさに局外者が手を触れないためにあるのである。死者と、親しいものを失った者とに、作法によってしか近づいてはならぬという昔の知恵が、そんな作法を生み出したのである、と思われる。
 もともと私は、いわゆる押し付けられた作法というものを実行しない者ではある。焼香などせずに、単にぶっきらぼうに花を置く、合掌などせずに、立ったままで心のなかのモノローグをそっと差し出す。私は心の作法しか持ち合わせない人間ではある。だが私の身近にいる死者にたいして人々からささげられる作法は、慣例的なものであっても、有難く受けている。いや、むしろ、慣例的なもののほうが有難い。なぜならそこには死にたいする礼節があるからだ。焼香、献花、合掌~それらは或る静かな秩序をもっていて、それ以上に、はみ出すものがない。はみ出すものがあっても、そうした形が一切をささえている。言葉を封じ込めるのが、それらの仕種の厳しさなのである。私と同じように慣例的でない作法をもつ人々についても異存はない。どちらにしても、作法のまわりに立ち込めるのは、ただ沈黙のみであり、それで十分なのである。(・・・だが、女の人たちは親しい者を喪った者にたいして、必死に慰めの言葉を浴びせかけてくる。男の人たちは、大体、何も言わない。だが、女の人たちは、親しい者を喪った者の抱え持っている死の重さを、饒舌によってゆさぶり、生身の手でそれに触れようとする。そうしたことはすべて善意から発するものであるかも知れない。だが、『どんなにかがっかりなさったことでしょう』『どんなにかおさみしいことでしょう』などと言う感情的な言葉を分析してみると、それらは問いかけを含んでいる。相手の答えを求めている。相手の心に踏み込もうとする僭越さがあるのである。
 親しい者を喪った者は、親しい者を喪なったという事実の重さのほかに、さらに弔問客や弔問の手紙や、弔問の電話の饒舌の重さまで心やさしく引き受けることを、やはり世に生きる人の義務としてなさねばならないのだろうか。これも人生の重さの一部なのか。)
 死の重さを自分一人で抱え持ち、その重さの具体的な内容を誰にも語らず、死にまつわる形式的な作法のほかは他人からどんな言葉も望まず、つまり、人間の口から出されるあらゆる言葉は、この死の重さに何の関わりもないものと見極め、他人の言葉も自分の言葉もすべて無効だと感じ、そうして、一人で黙りこんで死の重さを量っている私は、もしかしたら、神のようなものだけを信じて入るのかも知れない。だが、神のようなものとは、必ずしも神でなくてもいいのである。」(「死にたいする礼節は沈黙である」、1971)

 高橋たか子さんが最後に述べておられる言葉に、深く共感を覚えます。親しい方を喪くして、その死を重く受け止めている中で、高橋さんは圧倒的な威力をもって、ねじ伏せられている自分を見出しておられます。この絶対的な威力を「神のようなもの」と言い、また、「必ずしも神でなくてもいいのである」と言い換えておられますが、体験をとおして、絶対的威力と対面した人は、既成の宗教が持ち合わせている教義をもって、未だ、この絶対他者を名乗ることは出来ておられない、そのような、ご自身の心境を正直に告白しておられます。その言葉が「だが、神のようなものとは、必ずしも神でなくてもいいのである。」と言わしめているのです。こうした絶対他者と対面した人は、これをどのように他の人に伝えることが出来るのか、言葉を持ち合わせていないのです。しかし、聖書が伝える、アブラハムのエル、イサクのエル、ヤコブのエル、そして族長神をもって表されるエロヒームも日本語に置き換えて見れば、高橋さんと同じであることがわかります。つまり、「威力」「絶対的な力」をもって、命を奪い、命を与え、生きることも、死ぬことも手中に治めておられる絶対他者、万物の創造者であり、破壊者である「威力」こそ、旧約聖書が最初に伝えている「神」なのです。「エル」には感嘆の叫びも含まれています。絶対者と出会い、ひれ伏す体験は感動のほかに、言い表しようのない出会いであるからです。

 「名は体を表す」と言う言葉があります。聖書に記された、神の呼び名について、最初に出会う呼び名が、創世記1章1節の「初めに神は天と地を創造された」で、ここではエロヒームが使われています。これは威力を表すエルの複数形に当たります。(アブラハムのエル、イサクのエル、ヤコブのエル、族長の神・エローヒーム、それにエル・シャッダイ:これは通常、「全能の神」と訳される呼び名が、創造者としての威力をもって言い表された神の呼び名です。)

 モーセに現われた神の呼び名は先ほどご紹介したように、「ヤハヴェ」でした。、奴隷解放の指導者になることを呼びかけた声に向かって、モーセが尋ねた質問に答えて、伝えられた言葉がヤハヴェでした。モーセ以降、預言者に啓示される「良心」は「威力」とはまた、異なった側面で神の性質を表した、神についての新しい呼び名です。今回は、時間の制約もありますので、また、非常の大切な呼び名ですので、この「良心の神」については折を改めてご一緒に見つめる機会を持ちたいと思います。

 そこで、「威力」の神に立ち返り、高橋さんが「神のようなもの」、また、「神でなくてもよい」と言っておられるのは、あくまでも、ご自身の体験において出会われた相手であり、既存の宗教が持っている神の呼び名とは一線を画す思いが、お有りになるからです。そのことは非常に良く分ります。にも拘らず、彼女がその後、カトリックの信者になられ、今では1年の半分をフランスの修道院で過ごしておられると伺っているのですが、それは何故なのでしょうか。それは、体験から出会う「威力」は、写真に喩えれば現像液につかっているポートレートのようなもので、そのままで取り出してしまえば、消え去るか、保存したり、他の人と分かちあったり出来ない代物です。神との出会いについて他の人と、体験を分かち合う言葉に欠けています。定着液に移してイメージを止めなければ、消えていく存在です。この定着液にあたるのが、宗教が持ち合わせている神についての教義にあたります。高橋さんを信仰へと導いて下さったのは、ご主人も、また、ご自身もフランス文学者であり、これらの友人、その最たる方々に、遠藤周作や加賀乙彦などのカトリック文学者がおられて、定着液の役割を果たして下さったからであろうと、私は推察しています。

 宗門の人は、得てして、神との出会いを飛び越えて、教義や教えの方から、例えば、三位一体の教理をもって神を見たり、創造主をもって神を受け入れたりすることが多くあります。それはそれで、良いことなのですが、同時に体験的出会いを神について持ち合わせていないと、独りよがりになり、他宗教や、他宗派の人々と信仰心を分かち合うことが出来ない偏狭な信者に陥ってしまいます。私について申せば、両親がこの教会員であり、クリスチャン・ホームに生まれ、教会学校へ生れ落ちるなり通い、キリスト教学校に中学、高校へと進み、ゴリゴリの偏狭な信者になる下地は十分に持ち合わせている育ち方をした者でした。しかし、一方では、10歳で妹を亡くし、17歳で大喀血をして生死をさ迷い、2年間全く、立ち上がれない病人になり、ここで、あの「絶対他者」、人の生き死にを司る「威力」に屈したあと、知識や教えを超えて、今度は自分の意思と決断をもって求道に励み、今ある恵みに与っています。絶対者に膝を屈め、謙虚に信仰を受け入れる道は、私の場合、高橋たか子さんとは逆の道を辿って来たように思います。それだけに、高橋たか子さんの言葉が身に沁みて良く分る思いが致します。

 今一人、シモーヌ・ヴェイユ(1909~1943)も、教義や教えではなく、体験的出会いを通して神に出会った人として、私は尊敬している人であります。彼女は『神を待ち望む』の中で、こう述べています:

「神について考えようとするとき、何一つ捨てようとしない者は、自分の偶像のひとつに神の名をつけているにすぎない。このことには、どんな例外もない」
「裸身になることによってのみ、人は神に達する。」
「自分勝手にイメージを刻み上げ、これに神と言う名を与えて、いかにも神自身を知っているかのように思い込んでいる人間は、もはや真の神を待ち望む理由も、求める理由も失っている。事実上、かれが交わっている神は、自分の手で勝手にこねあげたものに過ぎない。だから、神との出会いを持たぬ人が二人あって、その中で神を否定する人の方が、おそらくは神のそば近くにいる。しかしながら、無神論者は、すべて、真の神をひそかに礼拝しているのでなかったら、偶像崇拝者にすぎないのである。」

 「真の神」との出会いはどのようにして起こるのでしょうか。ウェイユは、こう続けています。

「不幸の何であるかを知ったものは決定的に神の不在を口にせざるをえない。にもかかわらず、その不幸の中においてのみ、神が向こう側から訪れて来、その不幸の中においてのみ、神の愛を知ることができる。」
「不幸な者が彼ら自身のために愛されているところなら何処でも、神は存在しておられるであろう。ところが、不幸な者が愛されていても、ただ善行を果たすための単なる機会に過ぎない状態で愛されているのなら(1コリント13:3〜全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、愛がなければ何の益もない)、どんなあつい祈りがあっても、神は決して存在しておられない。人間は不幸に襲われた人に接することがあっても、それほど十分に注意力をもっていないので、道端に倒れて動かない、着物を剥ぎ取られた小さな肉塊の方に目をやるということすら、なかなか出来ない。このとき、人間は神のことを特に考えることなしに、この不幸な他者に対して、まったく一緒にいてあげる義務を負う。しかも自分も一緒に苦しむことによって、神が存在することの証しを立てるのである。」

 ヴェイユの語った、最後の2つ(2段)は「威力」や生死を司る絶対他者として出会う神とは、また、違った側面で神を捉えています。これこそ、イエス・キリストが私たちに開示して下さった「アッバーの神」にあたる内容です。今までに無い、全く新しい神との出会いをイエスは私たちに開示しておられます。「アッバー」という呼び名で私たちが先ず思い起こす聖書はマルコ福音書14章36節ではありませんか:主イエスはゲッセマネの園で熱い祈りを捧げておられます:(14:32-36)

「一同がゲッセマネという所に来ると、イエスは弟子達に、『わたしが祈っている間、ここに座っていなさい』といわれた。そして、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われたが、イエスはひどく恐れてもだえ始め、彼らに言われた。『わたしは死ぬばかりに(死に至るほど)悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。』 少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、こう言われた。『アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取り除けてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。』」

 ここには祈りの模範が示されています。祈りは先ず、自分が最も信頼を寄せている相手に向かって発せられています。祈りは、自分の中から発する願いではありますが、自己本位なものとならないように、但し書きが付けれれています。それは、「あなたの御心にかない」、「あなたが良しとする道へ祈るものを導いて下さるように」と捧げられています。イエスは祈りを捧げる信頼の対象に向かって、今まで、誰も用いたことのない、アッバーと言う呼びかけをなさっておられます。通常これは「父」と訳されているのですが、イエス時代の日常会話であるアラム語に属しており、その言葉は乳飲み子が、マンマ、ママ、など赤ん坊が最初に発する幼児語で、或る意味ではアラム語を超え出て、乳飲み子が発する世界共通の言葉であると言うことです。それは、親から戴く食べ物であり、また、食べ物を下さる親を指しています。しかも、これには、父も母も区別がありません。それが「アッバー」であり、聞き方によっては、アウワー、とか、マンマ、ママに置き換えられています。

 しかし、これに、聖書の中でギリシャ語の意味を付けると、「パーテル:父」となっているのです。イエスが最も親しく、信頼の対象を、わざわざ、世界共通の幼児語で語った意味が、この訳では消え失せてしまいます。まさに、父権性社会に置かれると、折角イエスが意図した内容が消えてしまうのです。私たちが礼拝で捧げる「主の祈り」も、マタイ福音書6章9節以下から取られていますので、「天にまします我らの父よ」という呼びかけで始まっています。しかし、同じ「主の祈り」でもルカ福音書11章では原型に近い訳が施されています:「祈るときには、こう祈りなさい。『父よ、御名が崇められますように、御国が来ますように・・・」総じてルカの場合には短く、尾ひれもなく、簡潔に、また、マタイのように7つの項目にするために2つも増やすような祈りにはなっていないので、ルカの方がイエスが語られた原型に近い、と言うのが一般的な見解です。そして、ギリシャ語に訳されると「父よ」になっているのですが、これも当初イエスが教えられたアラム語で、「アッバー」であったことは十分に考えられるところです:「アッバー、御名が崇められますように」

 神を父と呼ぶのは旧約時代から存在しています。数はそう多くはないのですが、およそ、11箇所、跡付けることが出来ます。しかし、そのいずれも、ヘブライ語でabhimu atta (あなたは私の父です)の「父」には幼児語は用いられておりません。もう一つの特徴は、父の背後には創造主のイメージが重ねられていることが多くあります。

「主よ、あなたは我らの父。私たちは粘土、あなたは陶工。私たちは皆、あなたの御手の業です。」イザヤ書64章7節

 イエスは祈りの初めに「アッバー」を神の呼び名として語られました。僅かに残っているのが、先ほど引用しました「ゲッセマネの祈り」です。しかし、これにはギリシャ語の「父」という訳が付けられています。そして、「主の祈り」を含めて全てイエスが発せられた呼び名はギリシャ語の父に改められています。これは、父権性社会がそうさせたと同時に、幼児語では後ろめたさもあったのかもしれません。しかし、「神に対する愛と信頼の呼び名」に最も相応しい言葉ではありませんか。加えて、イエスから戴いたこの素晴らしい「神に対する愛と信頼の呼び名」を、まるで隠語であるかのように、親しい者だけが唱和できる神の呼び名にしてしまった痕跡がパウロの手紙の中に記されています:

 一つはローマの信徒への手紙8章15節にこうあります:「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊をうけたのです。この霊によってわたしたちは『アッバ、父よ』と呼ぶのです。この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証しして下さいます。」

 今一つはガラテヤの信徒への手紙4章6節で:「(時が満ちると、神はその御子を女から、しかも律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさせるためでした。)あなたがたが子であることは、神が「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分ります。」

 このように、イエスが神のことを、「愛と信頼の呼び名」として親しみをもって用いた「アッバー」は「父」と訳をほどこされ、さらに、有難い言葉として伝授され、狭い範囲のなかで継承されるべき秘伝の言葉に成り代わってしまいました。わたしたちは、これをイエスの御心にまで、遡り、神への呼びかけがもつ、親しさと愛の心を取り戻さなければなりません。

 アッバーと言う言葉を離れて、ギリシャ語で「父」に置き換えても、イエスが神への呼びかけを「アッバー」となさっておられたことの深い意味を、ギリシャ語を用いる教会に伝えたのは、ヨハネ福音書とヨハネの手紙を残した一世紀末のキリスト教会でした。この教会はマルコ福音書を生み出した教会や、マタイ教会、また、パウロとルカに指導された教会とも時代と場所を異にして、ユダヤ戦争で神殿を破壊され、シナゴーグと呼ばれる会堂で集会をもっていたラビ的ユダヤ教の人々と一緒に、当初は集会を持っていたキリスト者たちでしたが、やがて、ラビとは異なるイエスの教えと働きを伝える会合であることが判明した所で、ユダヤ教の会堂から追い出されたり、破門されたことによって、新しい、普遍的教会へと成長発展した集団、これが、ヨハネ福音書とヨハネの手紙を生み出した人々でした。アッバーでイエスが意図した、神と人との親密な関係を「愛」で表し、神の愛を世に伝えるために遣わされたのが、神の御独り子イエス・キリストである、と証しするキリスト者宗団です。神と子の関係、また、宣教の目的については、3章16節で、ヨハネ教会が語るべき真髄が高らかに、また、感動的に宣言されています:

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が滅びないで、永遠の命を得るためである。」

 また、ヨハネの手紙1 4章16節以下で(〜19節)、こう述べています:

「わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人のうちにとどまってくださいます。こうして、愛がわたしたちの内に全うされているので、裁きの日に確信を持つことができます。この世でわたしたちも、イエスのようであるからです。愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。」

 私たちは、これなくしては生きられない、という究極的関心を何と呼んだらよいでしょうか。神との出会いの体験は「ああ!」と言う、感嘆の言葉しか発することが出来ない者ですが、聖書を通して相応しい呼び名を頂きました。アッバーに勝る名は無いかも知れません。これを「愛なる神」として伝えてくれた教会に心から感謝したいと思います。そして私たちも賛美の歌に合わせて神に感謝を捧げたいと思います。

「如何に祈るべきか、弱きわれら知らねど、  深きううきもて 聖霊執り成したもう
 御国の世継ぎとされ、 「アバ 父(神)よ」と われら呼ばん」
「如何に幸なるかな、 信じて求むるもの、  その祈りすべてを 神は常に聞きたもう
 たぐいなき愛の主を とこしえにほめたたえん」
主イエス・キリストの父なる神様
あなたは私たちが、日や月や財宝など、本来、神ならざるものを拝し、その奴隷となっていた状態から私たちを贖い出だし、あなたの交わりに加えてくださった、その恵みが如何に欠け替えの無いものであるかを示されて、心から感謝いたします。どうか、再び奴隷のクビキに繋がれることのないように、聖書に証しせられたあなたとその御一人子を見つめ、命と宝、愛にいます主と共に、日々を過ごし、あなたから頂いた愛をこの世に向かって証しする者とならせてください。
 
礼拝説教集の一覧
ホームページにもどる