2012.05.20

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「主の到来」

廣石 望

ヨエル書3,1-5 ; テサロニケの信徒への手紙一4,13-18

I

 キリスト教の神の特徴に「到来する」というイメージがあります。

 例えばヨハネ福音書の冒頭のロゴス賛歌は、キリストのできごとを「まことの光が世に来た」(ヨハネ1,9)と歌います。そのイエスは、「神の国は近づいた」(マルコ1,15; マタイ10,7; ルカ10,9参照)と宣言しました。彼が弟子たちに教えた主の祈りにも、「御国を来らせたまえ」とあります。

 イエスは世の終わりについて、君たちは「目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰ってくるのか、…分からないからである」(マルコ13,35)と教えています。パウロも言います、「盗人が夜やってくるように、主の日は来る」(テサロニケ一 5,2)。

 終末に到来する審判者「人の子」について、イエスはこう言います。「そのとき人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める」(マルコ13,26-27)。

 私たちは来週、教会暦に従ってペンテコステを迎えます。聖霊の到来を祝う祭りです。そのことをヨハネ福音書のイエスは、受難以前に予告しました。「私が去っていくのはあなた方のためになる。私が行けば、弁護者を――これが聖霊です!――あなた方のところに送る。その方、すなわち真理の霊が来ると、あなた方を導いて真理をことごとく悟らせる」(ヨハネ16,7.13参照)。洗礼者ヨハネも「私よりも優れた方が、後から来られる。その方は聖霊で洗礼をお授けになる」(マルコ1,7-8参照)と予言していました。

 そしてヨハネの黙示録は、世の終わりに天上界から降下してくる巨大な立方体、「新しいエルサレム」の幻について語ります。この都には神殿がありません。むしろ「全能者である神、主と子羊とか都の神殿」です(黙21,22)。そして「見よ、私はすぐに来る」という主の言葉が繰り返され(22,7.12)、最後にこう結ばれます。「然り、私はすぐに来る――アーメン、主イエスよ、来りませ」(22,20参照)。

 礼拝で用いられる讃美歌でも、同じように神の到来が歌われます。アドヴェントには「いま来りませ、救いの主イエスNun komm der Heiden Heiland」(229番)、そしてペンテコステには「来たれ聖霊よVeni Creator Spiritus」(340番)。さらに世の終わりに関しては、使徒信条の第二項の末尾に、キリストは「かしこより来りて生ける者と死ねる者とを裁きたまわん」という告白されます。

 こうしてキリスト教はイエスの誕生、その宣教、聖霊の降臨、世の終わりの何れについても神ないしキリストの「到来」について語ります。神は、そしてキリストは常に「到来する」存在として私に出会います。――では、「神が来る」とはどういうことでしょうか? 

 

II

 「神が到来する」とは神が主権者であり、人はそこに巻き込まれてゆく受け身の存在である、というのが基本的意味です。

 イエスが「神の国は近づいた」というとき、それは神が王としての支配を開始した。だから世界の基本条件がまったく新しくなったという意味です。現在は過去の単なる続きではなく、神の未来に捉えられて変貌を遂げ始めている。この新しい現実に対応して、人は生きる態度を改めるべきである、というのがイエスのメッセージでした。

 また「御国を来らせたまえ」(原文は「あなたの王としての支配が来ますように」)とは、私たちが到来する神を王なる主権者として承認することを含みます。「私が願うことではなく、御心に適うことが行われますように」(マルコ14,36参照)。

 ところが私たちはキリスト教を自分たちに都合よく理解して、その理解に合わない人々を容易に敵視してしまいます。例えば西欧キリスト教は、自分たちこそが真のイスラエルであると考え、他方で「キリストの殺害者」であるユダヤ教徒はもはや神の約束から外れた、呪われた者たちであるとして差別してきました。

 イスラム教徒やキリスト教内部の異端に、軍隊を差し向けたこともあります。「悪を征伐する」と称して、軍事攻撃に宗教的なお墨付きを与えたのです。

 さらに奴隷制や人種差別に苦しむ人が声をあげても、その人々が自分たちの「隣人」であることに、なかなか気づきませんでした。あるいは他宗教、とりわけ多神教に対しては、自分たちの一神教的宗教と比較して「劣った」段階にあるという見方が、かなり長く続きました。

 あるいは戦後の冷戦時代、西側キリスト教の一部は資本主義体制や哲学的な有神論と結合して、共産主義や唯物論を「悪魔」のごとく排撃しました。現代アメリカのファンダメンタルなキリスト教は、新保守主義と呼ばれる政治勢力の支持母体となることで、世界中に軍事的な対立をばらまいてきました。

 さらにキリスト教会の内部でも、とりわけプロテスタント諸派は、ときに「私たちのキリスト教こそが本物だ」と主張する傾向にあります。排他的な真理要求をはっきり掲げるグループには、小さなキリスト教主義学校に「もぐり」の伝道者を送りこみ、学内で無許可で宗教活動を行うものもあるくらいです。

 ――これらすべては、人間一般にみられる弱点をキリスト教徒も持っていることを示しています。しかし「到来する神」という聖書のメッセージに照らせば、それは自分勝手な理屈で神の主権を貶める行為に他ならず、本当は「信仰」と呼ばれるに値しません。到来する神は、私たちの過去の実績や主張また思い込みを打ち砕いて、私たちを自由にし、人と人を出会わせます。ありがたいことにキリスト教の歴史は、そうした自由な出会い、赦しと和解が現実に可能であることの証言者でもあります。

 

III

 今日のテキストでパウロは、世の終わりの「主の到来」について語ります(15節――新共同訳「主が来られる日まで」。しかし「日」の語は原文になし)。教会では、最後の審判における主イエスの到来を「再臨」と呼びます。しかし新約聖書では、「到来」「現臨」を意味する語(ギリシア語「パルーシア」)が用いられるのがふつうです。

 パウロが主イエスの「到来」に言及する背景は、テサロニケ教会の「眠っている者たち」、つまり亡くなった信徒たちの存在です。パウロは間近に迫った世の終わりと、審判者キリストの到来を前面に押し出しつつ、終わりの時代に神に召された者たちの共同体として、テサロニケ教会を設立しました。ところが教会員に逝去者が出たことがきっかけで、その人たちの運命について、使徒たちの間で動揺が生じたようなのです。

 ちなみに、自分たちは「主の到来に至るまで残される」というパウロの期待は、歴史的には間違っていたことが判明しました。彼は紀元60年代初頭に都市ローマで、伝説によれば斬首によって殉教死したからです。その意味ではパウロもまた、私たちから見れば「眠っている者たち」の一人です。

 私たちの問いは、こうです。来るべき神の前で、死者たちに思いを馳せることは何を意味し、死者たちとの連帯はいかにして可能なのか?

 

IV

 まずパウロは、復活告白を引用しつつ、こう言います。「〈イエスは死んだ、そして立ちあがった〉と私たちが信じるなら、神もまたイエスを通して、眠った者たちを彼と共に導くであろう」(14節参照)。

 古い復活告白は、「神はイエスを死者たちの中から起こした」と表現します(例えばローマ4,24)。しかしここでは、「神」でなく「イエス」が主語です。イエスの「死んだ」は信徒たちの「眠った」に、またイエスの「立ちあがった」は「神もまたイエスと共に導くだろう」にそれぞれ対応するでしょう。つまりイエスの過去の行為が、信徒たちに対する神の未来の行為のモデルになっています。

 発言の強調点は、信徒たちが復活するというよりも、むしろ「イエスと共に」という点にあるようです。つまり神は逝去した信徒たちを、「立ちあがった」イエスから引き離すようなことはなさらない。

 

 そのことの確証として、続いてパウロは「主の言葉」を引用します。「私たち生きている者たち、つまり主の到来に至るまで残される者たちが、眠った者たちに先んじることはないであろう」(15節参照)。これは生者たちが、「イエスと共に」という点で、死者に対して優先されたりすることはないという意味です。

 興味深いことに、福音書に保存されたイエスの言葉伝承には、この発言に対応するものが一切見出されません。多くの研究者が、この言葉は原始キリスト教の預言者が、復活者イエスの霊感を受けて語った言葉だろうと想定しています。

 

 さらにパウロは、世の終わりにイエスが天上界から降臨するときのようすについて、詳しく記しています。「すなわち主が自ら、合図で、筆頭天使の声で、また神のラッパで、天から降るだろう。そして死者たちがキリストにあってまず立ち上がるだろう。次に私たち生きている者たち、すなわち残される者たちが同時に、彼らと共に、主と出会うために雲の中を空中へと奪い去られるだろう。こうして私たちは、いつも主と共にいることになるだろう」(16-17節参照)。

 事柄としてよく似た言葉が、『コリントの信徒への手紙一』にあります。「私はあなた方に神秘を告げます。私たちは皆、眠りにつくわけではありません。最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、私たちは変えられます」(コリント一 15,51-52)。――世の終わりに合図と共に、私たちは一瞬にして復活し、「朽ちない者」へと変身するというわけです。

 両者を比較すると「ラッパ」への言及は共通しているものの、死者と生者の順番への言及は『テサロニケの信徒への手紙一』に固有の要素です。またコリント書簡は「復活」と「変身」について語りますが、テサロニケ書簡は死者たちの「立ちあがり」、そして死者と生者の空中への同時「引き上げ」(コリント二 12,2の天界旅行で用いられたのと同じ、元来「奪い去る」を意味する語)について語ります。そして何よりも強調されているのが、死者も生者もキリストと「共にいる」という点です。

 ――細かい描写はさておき、パウロの発言は、〈死者たちが忘却のうちに捨て置かれることはない〉、〈彼らが死によってキリストから切り離されることはない〉という確信の表現です。世の終わりにキリストは、何よりも眠りについた者たちを呼び覚まし、彼らが立ちあがり、生きている者たちといっしょに、主と共にいられるようにするために来る。ならば主の到来は、私たちから見れば、死者たちとの連帯の完成です。

 

V

 ではキリストを信じずに死んだ者たちに、この「再会」のチャンスはないのでしょうか?非キリスト教国で生きる私たちにとって、この問いは他人事ではありません。

 この問いを扱う典型的なトポスに、〈キリストの冥界降り〉があります。使徒信条にも「黄泉に降り」とあります。ところがその目的について、じつにさまざまな理解があるのです。一方には、神の救済意志は普遍的であり、キリスト出現以前に死んだ人々にも福音を宣教するために彼は冥界に降ったという理解があります。他方では、生きているうちにキリストを信じた者たちだけが救われ、他の者たちは滅ぼされるのだから、キリストは死者たちに滅びの宣告を告げに行ったのだという理解があります。あるいは復活して天上界に帰還する前に、冥界に閉じ込められた宇宙の諸霊に向かって、キリストの勝利宣言をするために降ったという理解も。

 ――こうした点をあれこれ詮索することは、それこそ「到来する神」の王的主権を損なうことになりかねませんので止めておきましょう。そもそもパウロはテサロニケの信徒たちのことを念頭に置いているのですから、キリスト教徒でない人の運命について、この箇所に手がかりを求めるのは初めから無理な気もします。それでも二箇所の発言を、純粋に文法的に、次のように読むことが可能です。

 まず新共同訳が、神は「イエスを信じて眠りについて人たちをも、イエスといっしょに導き出して下さいます」と読む箇所(14節)は、神「もまた眠った者たちを、イエスを通して、彼と共に導くだろう」と読むことが可能です(新共同訳「イエスを信じて」の「信じて」は原文にありません)。その場合イエスは、神が死者たちを導く媒体(「通して」)であると同時に、死者たちと並ぶ対象(「導く」の目的語)です。

 もうひとつは、新共同訳で「キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し」(16節)とある箇所です。ここは「そして死者たちが、キリストにあって、先ず立ちあがるだろう」と訳せます。つまり14節同様、キリストは死者たちの復活が生じる「場」ないし「場の力」です。

 そう理解してよいなら、信仰告白が死後に復活するための条件であるか否かという問い――来るべき神の主権的行為を人間の告白行為に依存させるという、倒錯した問い――から自由になって、〈死者たちを忘却の中に捨ておかない〉という神の意志が実現される場所ないし媒体がキリストである、という意味にパウロの発言を受けとることができるでしょう。

 では、死者たちとの連帯を完成させる「主の到来」を待ちつつ生きている私たちに許される希望とは何でしょうか? ひとつの聖書の言葉で、その答えに代えたいと思います。すなわち「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」(ヨハネ3,17)。神は聖霊の働きを通して、この救いの行為を遂行します。私たちは信仰にあって、今年も聖霊の到来を待ちましょう。


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