2012.02.26

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「福音を信じなさい」

村上 伸

イザヤ書53,1-5; マルコによる福音書1,14-15

 私の年齢や健康状態のことを考えると、この講壇から語る機会は今後少なくなる一方だと思われるので、今日は「説教」というよりも、私がどのような経緯でキリスト者になったか、また、私の信仰がどのような内容のものであるかということについて「証詞」をさせて頂きたいと思う。

 私は今から65年前、1947年のクリスマスに受洗した。そのことについて話す前に、当時の日本の社会状況と、私自身の内面で起こった変化について説明しておく。

 私は1944年に陸軍幼年学校(陸軍の将校を養成する学校)に入った。14歳であった。その頃、一般のメディアもそうであったが、特にこの学校の教官たちは、《現人神天皇》・《神州不滅》・《悠久の大義》といった神話的イデオロギーに凝り固まっていて、戦局は日に日に悪化していたにもかかわらず、「今に神風が吹く、日本は絶対に負けない」などと虚勢を張っていた。そして、愚かにも私は、彼らが教えることをそのまま信じていたのである。

 だが、日本は確実に敗北に向かっていた。空襲は日毎に激しさを増し、首都東京も45年3月10日の大空襲で焼け野原になり、皇居の一部も焼失した。8月1日には八王子にあった我々の学校も無残に焼け落ちたが、それに先立って6月22日には沖縄の日本軍の組織的抵抗が止んでいる。8月6日には広島が、9日には長崎が原爆によって瞬時に壊滅した。同じ頃、ソ連軍が満州に侵攻し、無敵と言われた関東軍の精鋭部隊も何らなすところなく敗北した。そして、8月15日に日本は無条件降伏する。

 この日を境に、私がそれまで「絶対に正しい」と信じていた精神的支柱が根底から崩れた。私は途方に暮れた。今後、何を頼りに、何のために生きて行けばよいのか? 1989年に《ベルリンの壁》が崩壊した後で、東ドイツの人々の心の中には一種の真空状態が生じたと言われるが、私も似たような経験をしたのである。

 ところで、私の家族について言えば、支那派遣軍総司令部の副官であった父は南京で捕虜になっており、母は10代の子供を3人連れて満州に、私自身はたった独りで廃墟の東京にという具合に、家族は互いに連絡も取れないままバラバラになっていた。私は前途にいかなる希望も持てず、孤独感と精神的重圧はしばしば耐え難かった。

 もっとも、食べるだけは何とか食べていた。遠縁の小父さんに誘われ、埼玉県寄居の近くの山の中に巣食って闇屋を始めた数人の元軍人たちと一緒に暮らすことにしたからである。学校には行かなかった。それまでの経験から、私は心中、「学校に行ったって何の役にも立ちはしない!」と嘯いていた。それは自堕落な、しかし、気楽な生活だった。信じて頂けないかもしれないが、私はその頃、怪しげなウイスキーを密造する作業を嬉々として手伝っていた。だが、そのような暮らしが長続きする筈もなく、半年とは持たずに行き詰った。祖母がまだ健在であることを知った私は、母の郷里(青森県北津軽郡鶴田町菖蒲川)に転がり込んだ。

 そこで、私には大きな転機が訪れたのである(このことは前に何度か話したことがあるが、最近教会に来られた方々の為に繰り返したい)。母の実家に3歳年長の従兄がいた。この青年が1946年の夏のある日、何かの話の中で突然、「汝らの仇を愛し、汝らを責むる者のために祈れ」と口走ったのである。この言葉は、戦時中敵を憎むことしか考えなかった私の魂を震撼させた。私は「こんなに美しい言葉は聞いたことがない」と思った。そこで直ぐ、「誰がそんなことを言ったの?」と訊ねたが、彼は答えることができなかった。察するに、彼もどこかでこの言葉を小耳にはさみ、心を打たれて、それを借用したのではないだろうか。

 だが、彼は小さなヒントを与えてくれた。「それはイエスという人の言葉かもしれない、多分、新約聖書に出ているよ」というのである。翌日、私は弘前の町に行き、アメリカから大量に持ち込まれていた絵表紙の新約聖書を手に入れたのである。読み始めて間もなく、その言葉が見つかった。『マタイ伝』5章44節である。それが『ヨハネ黙示録』の言葉でなかったことは幸いであった!

 前述したように、私は戦時中、《悠久の大義》は我々の側にのみあると教えられ、米英などは《この絶対の正義に逆らう不倶戴天の敵》であると信じていた。そして、彼らを激しく憎んだ。自己正当化高ぶりが敵への憎しみと一体になって、生きるエネルギーになっていたのである。このような生き方がそれ自体既に破綻していたことは、敗戦とそれに続く道義的混乱をこの目で見た私には明らかであった。

 この破綻を経験した私に、イエスの言葉は、人生の新しい意味と目標を指し示したのである。しかも、聖書について何も知らない人が偶々引用したイエスの一言によって、私は魂を揺り動かされたのだ。後に『ヨハネ福音書』冒頭の、あの有名な言葉に出会ったとき、私は「これだ!」と思った。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている」ヨハネ1,1〜5)。このような力が聖書の言葉にはある! このことを私は知らされた。これが私の《原体験》と言ってもいい。

 だが、実際に教会の門を叩くまでには、もう少しの時が必要であった。敗戦後1年目の夏、消息不明だった父と母、そして姉や妹や弟の全員が無事に引き揚げて来た。このことは大きな喜びだったが、それからの生活は困難を極めた。父は敗戦のショックから中々立ち直れず、母も満州での苦労が祟って病み衰えていたからである。この苦境を何とか切り抜けることができたのは、ただ神の大きな憐れみによる。今、私はこのことを心から信じている。

 1947年の春に漸く父の仕事が見つかり、一家で八戸市に転居した。この町で、私はまだ無牧であった小さな教会に通うようになった。日本基督教団・八戸柏崎教会である。夏にはシベリヤから帰国した渡辺正先生が牧師として赴任して来られた。そして、彼の熱心な指導によって、私は洗礼に導かれたのである。今振り返って見ると、私の中に信仰が確立していたとは、とても言えない。ただ、先生が聖書を深く読み、その意味を解き明かすために聖書の言葉と真剣に取り組んでいたその姿勢が私を打ったのである。私は、「これ程真剣に格闘すべき言葉が聖書の中にはある」ということを改めて知らされた。

 1948年に、私は県立八戸中学(現・八戸高校)を卒業して旧制・弘前高校に進んだが、休暇で八戸に帰ってくると、しばしば牧師館に入り浸って、渡辺先生からいろいろな知識を吸収した。テーマはキリスト教に狭く限定されず、広く文学や芸術にも及んだ。例えば、私は彼を通して初めて八木重吉や中勘介を知らされたし、ドストエフスキーやモーリヤックの文学にも触れた。レコードでクラシック音楽も聴かせて頂いた。しかし、最も大きな影響を与えたのは、彼が田舎に伝道に行くときにしばしば同行して助手を務めたという経験である。そうした生活の中で、私は自然に「自分も伝道者になりたい」と思うようになった。

 その頃の私の信仰は、未熟で取りとめもないものであった。先生が真剣に聖書と取り組んで語る説教を、こちらも真剣に聞いただけである。東京神学大学を受験するときも、特別な準備は何もしなかった。だから、入試での《聖書》の成績は惨憺たるもので、口頭試問の際、先生方が呆れて「全くダメだね」と言われた位である。だが、私は即座に「だから、それを勉強するために来たのです」と切り返した。熊野義孝教授が「ウン、熱意はあるナ」と助け舟を出して下さらなかったら、入学は許されなかったかも知れない。

 さて、いよいよ上京するとき、渡辺先生は、神学生として所属すべき教会に二つの可能性があると言われた。一つは大村勇牧師の阿佐ヶ谷教会、他は鈴木正久牧師がいる駒込(後の西片町)教会である。立川に下宿することが決まっていた私にとっては阿佐ヶ谷の方が便利だったが、渡辺先生は「君には鈴木牧師のほうを勧めたい」と言われた。しかも、わざわざ上京して、私を西片町教会に連れて行き、紹介して下さった。大げさに言えば、これが《決定的な出会いの時》(カイロス)となった。講壇左側の応接室で、私は入信の経緯や献身の動機について鈴木先生に語った。先生は怖いくらい真剣な面持ちでじっと聞いておられた。

 その後6年間、私はこの教会に通い、先生の説教によって養われた。神学という学問の分野でも、先生の学殖は深く、その論点は鋭く、私は神学校で受けた授業よりも遥かに大きな刺激を受けた。しかし、私の心の中に何よりも大切なものとして残ったのは、初めて会った時の彼の表情に象徴的に現われていたような《教会に対する真剣さ》である。

 彼は若き日に静岡県磐田の教会でSさんという真実なキリスト者と出会い、それまで教会に対して抱いていた不信や疑念を捨てたという。それ以来、生涯、彼は教会に対して真摯そのものであった。説教では余計なことは何も言わず、ただ聖書に証しされているキリストを指さしていた。彼の愛。彼の苦しみ。そして、旧約の預言者(イザヤやエレミヤ)と新約の使徒たち(特にパウロ)。その精神を受け継いだ真実な神学者たち(ルターやバルトなど)。ここが、彼の真剣な格闘の場であった。

 もちろん、私はその後、内外の優れた神学者たちとの出会いを通じて多くのことを教えられた。しかし、大黒柱のように確かなものとして私の中に残ったのは、若き日に与えられた「聖書の中には我々が真剣に取り組むべき言葉がある」という確信である。そして、その中心は「神の国は近づいた」マルコ1,15)というイエスのメッセージであった。

 私はまた、鈴木先生を通して神学者カール・バルトの真価を知らされた。そして幸いなことに、ドイツ留学中の1968年の1月に、私はこの人物をバーゼルに訪問して親しく語り合うと機会を与えられた。楽しい語り合いが済んでお別れするとき、彼はちょうど出版されたばかりの『教会教義学』IV/4にサインしてプレゼントして下さった。その扉には、「福音の中にこそ神の国がある。それはイエス・キリストである」と記されてあった。私の信仰の中核ともいうべき事柄を、これ程簡潔な言葉で記して下さったことを私はどんなに喜んだことか!

 これで、今日の証詞を終わりたい。


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